影遊び 江戸の街を賑わせるのは江戸八百八町といった都市の大きさは言うまでもなく、それを支える大小様々な店である。中でも屋台は昼と夜とでガラリと看板を変えてふらりと現れるものだから面白い。大概の屋台は流しが多く、これまた一期一会であると言うのが時に話題を呼ぶ。普段はあまり足を向けることのない人間でも、自然誘われるものが何某かあるというもので、福沢諭吉もまた、藩邸でぶらぶら時間を潰す朋輩から耳寄りな話を聞いて心惹かれていた。
「鍋焼きうどん、ですか。少し季節が早い気もしますね」
「夜にはちょうど良いってもんでさ。あれさ、それも味付けが上方仕込みでさっぱりとしてるんだな。具も天ぷらじゃなしに狐揚げやら鶏肉が入っててねえ。食べ出があっていいよ。何より、ここから近いってのも便利だ」
上州から滑り込んできた中間(*ちゅうげん/武家の従僕のこと)は気ままに笑う。新顔だが妙な愛嬌があり、兎口で歪んだ唇がかえって親しみやすさを感じさせる男だった。自分の情人である隠し刀とはまた違った方向で世渡りが上手い手合いだ、と諭吉は密かに分類していた。勤めるようになって一ヶ月かそこらだと言うのに、もう近隣の店全てを食べ歩いたらしい。堂々と食べ歩くために方々の藩邸をぶらついて中間を勤めている節さえあった。中間とは、半ばごろつきのような二本差しである。浪人でなくとも、ただ巷間を彷徨うだけならばいくらでも生き方はあるのだ。
不良中間のことはさておき、上方と聞けば諭吉も食指が動かないではない。ついでに言えば酒の揃えも良いという。寒い夜にうどんを啜るのはなかなか魅力的だった。もし美味しければ、今度隠し刀が江戸を訪れた際に誘えるだろう。諭吉は情人を連れて方々を案内するたび、自分が見知らぬ町に迷い出たような新鮮さを覚えるのが好きだった。街が日々変化しているのは当たり前の話だが、見慣れてしまえば子供がいつしか大人になるように自然に感じられる。それが世情に疎い隠し刀の手にかかると、何もかもが真新しく、西洋に引けの取らない文化もあるのだと見直されるのだから面白い。
いつかこの国を離れて、遠い地で故国を説明する時に思い浮かべるのは、きっと隠し刀と共有した時間でもあるのだ。彼と過ごす初めての冬が深くなってゆくことに思いを馳せながら、諭吉はジリジリと夜を待った。
「鍋焼きうどん、鍋焼きうどん……」
まず目に入ったのは寿司屋で、寒かろうとまるで気にせず、昼と変わらず客がぎっちりと鮨詰めになっている。その隣には小料理屋風の屋台が並び、隣の客に酒を出しているらしかった。まま、屋台同士で売り物を融通し合うことはあるが、見事な連携である。さらに歩みを進め、大きな鍋が目につくのはおでん屋だ。こちらは隠し刀が好んでいるらしいと一度聞いたことがあるので、いつか行こう行こうと思いながらもなかなか機会を掴めずにいる店だった。おでん屋はどうにも夜にしか現れぬ生き物らしく、化物のように捕え難い。隠し刀に強請ったら、彼がおでん屋に化けて出そうで、諭吉は屋台越しに見る情人の姿を想像して頬を緩めた。彼はなんでもしっくりと似合う。誰よりも血生臭いくせに、平穏無事な姿が一等似合うのだ。
「ううん、あれは夜鳴き蕎麦ですね。今日は出ないんでしょうか」
客らが必死に啜る様子で期待すれば、麺は麺でも蕎麦で至極落胆した。江戸といえばうどんより蕎麦の方が人気が高い。人によっては、あれは病人や女子供が食べるものだとばかにするきらいもある。食べやすいという意味ではその見解は正解なのだが、食べ物は美味い不味いのどちらかだろうと諭吉は鼻白んでいた。そろそろ藩邸近くと呼べる場所からは離れようとしている。今夜は店が出ないのだろう。夜はとっぷりと更け、灯りが途絶えた辺りはどうにも剣呑である。試し斬りが出たのはこの辺りだったか。引き返そうとしたところで、諭吉は風に揺れる暖簾をようやく見つけた。
「あそこでしょうか」
『かみがた』『なべやきうどん』とみみずがのたくったような文字に近寄ると、確かに懐かしんだ出汁の香りがぷんと漂い鼻をくすぐった。東の甘塩っぱい、濃いものではない。やはり知る人は知るのだろう、三人の客がぎっちりと席に詰めている。ちょうど空席は鍋に近い端が一つ、諭吉は迷わず滑り込んだ。
「鍋焼きを一つください」
「はいよ。待ってる間、一杯どうだい。熱いのをつけてあるよ」
「ありがたいですね。いただきます」
中間が話していた通りだ。行き届いた気配りに、冷たくなった手先の強張りが解けてゆく。熱燗がとんとんと小気味よく目の前の卓に出され、諭吉は遠慮なく駆けつけの一杯を味わった。ぐあっと熱が口から喉へ、喉から胃の腑へと落ちて全身を巡る。寒い時にはやはりこれが一番だ。
「良い飲みっぷりだ。今日はお客さんが良いのを差し入れてくれましてね。北国の春でしたか?」
「ああ。とはいえこれも到来物。衆生に還元するのもまた功徳、功徳」
湿り気を帯びた声に隣を見れば、僧形の男がきゅっと目を細めて大仰に頷く。どうやら托鉢僧であるらしい。その向こうに並ぶのは夫婦ものだろう。振る舞い酒だとケラケラ笑って喜んでおり、店主も無料ですよと笑う。なんとも運が良かった。ここまで足を運んだ甲斐もあるというもので、諭吉は上機嫌に僧侶に礼を述べた。ちびりちびりと飲む手も進む。
「お相伴に預かり、ありがとうございます」
「何、其方には世話になっている故」
奇妙な物言いだった。まじまじと見るも知り合いではなく、見かけたことさえない。つるりとした綺麗な形の頭まで、しっかりと煮しめた昆布のようにこんがりと焼けた、その癖骨が華奢な男である。袈裟は使い古された、擦れて所々が透けているのではないかと疑いたくなるような乏しい代物で、しっとりと心に吸い込まれてゆくような声音がなければ魅力は一つとして感じ取れまい。やたら物々しい手甲を両腕に嵌めており、すぐそばにある右腕は隆々たるもので、柳のように見えた体はしなやかな鋼で作られているのかもしれないと想像された。
「……人違いではありませんか?」
「お前以外に誰がいるんだ、諭吉。そら、鍋焼きができたぞ」
どん、とぐつぐつ煮えた小鍋が出されるのと驚きの声が相殺される。今のは――隠し刀の声ではなかったか?僧侶の表情は少しも変わらない。聞きたいが故に、耳が恋しい音を拾った可能性はある。気を取り直して鍋焼きうどんに取り掛かると、評判通りの懐かしい具材に太めの麺が賑々しく出迎えてくれた。まずは匙で熱々のつゆを一杯、酒に負けずに五臓六腑にじんわりと染み込む、良い味だった。具を横に見ながらうどんを啜れば、喉越しの良さと歯応えに心が満たされる。これは隠し刀にも食べてもらいたい。迷い箸をしそうになる手を押さえながらせっせと口に運んでいると、ゆるゆると茹で卵を食べる僧侶が世迷いごとを吹き込んだ。
「お前にはいつも世話をかけている。お陰で私の片割れが寛げているようで何よりだ」
今度は口調こそ隠し刀と同じだが、最初に耳にした雪のような声音である。私の、と言う言葉が絶対的な響きを放ち、諭吉はうどんを喉に詰まらせそうになった。これでも飲めと次々と酒が追加される。流れるように飲んでしまうのは自分の悪癖だ。来たる留学のためにも断酒禁酒をした方が良いのではないか、とチラと頭に尤もらしい忠言が掠めるも、手は止まらない。
「本当は、あなたを消すことも考えていました。ですが、こうしてあなたと隣り合って確信できましたよ。あなたは片割れの通りすがりだとね。ほんの羽休めです、目くじらを立てるなんて馬鹿馬鹿しい」
囀る鳥は諭吉の声をしていた。背筋が冷え、ゾッと怖気を奮う。化け物だ、化け物が人間の姿をしているとしか言いようがない。僧侶はスイスイと茹で卵を丸のまま一つ、飲み込んで熱燗をきゅっと一杯飲んだ。諭吉はと言えば、もううどんに手が伸びない、伸ばせない。人離れした、自分と隠し刀を知りうる人間。何よりも隠し刀を片割れと呼ぶ人は、ただ一人しか心当たりがなかった。
「あなたはあの人の片割れ、だった人ですね」
「今も変わらずだとも」
「私を殺さないと決めていただいたのは結構ですが、通りすがりとは聞き捨てなりませんね」
敢えて相手の言葉を無視して突っぱねると、片割れは見覚えのある仕草で首を傾けた。ついで、くすくすと隠し刀と丸切り同じ調子で笑ってみせる。かつて、隠し刀は自分の探し人について、こう表現していた。もう一人の自分、二人で一対として育てられ、生きてきた相手だ、と。こんな形で情人と片割れが織りなす過去を見せつけられるとは思わず、諭吉は酔いが回りつつある頭のままで相手を罵りたくなった。片割れは益々愉快そうな声を上げる。
「来年、幕府から正式に米国に向かう船が出る。だが、一人二人供回りが怖気づいてな、異国には行かぬと頑として受け入れないらしい。身元の保証があるそれなりの人間であれば、この際誰でも良いから異国に行かぬかと慌てて騒いでいるそうだ」
勝海舟あたりに根回しをすれば筋が通る、と片割れはぬけぬけと言い放つ。思わぬ朗報だった。遊学のために正式な使節団が出るという話は勝から聞いていたものの、諭吉の扱いはいささか融通が利きづらい。何か良い名目はないものかと先日も勝に絡んだばかりだった。浮足立つのも束の間、自分の望みさえをも把握されている気持ち悪さが胃の腑の辺りを彷徨う。
「其方は己の目標のために生きる人間だ。故にあいつは惹かれる。私を想ったように、あれはそういう生き方をするよう育てられてきた。其方が去れば、尚のこと想うやもしれぬ。が、無は無よ」
「いいえ」
違います、そうではありません、僕はずっと想い続けられますし、あの人だってそうでしょう、例え目に映らなくとも、心は在るものだから、
「さあ、どうだろうな」
舌がもつれる。雪はさらりと姿を消し、どんと諭吉の頭が重くなる。鍋に顔を突っ込みかけたところで鍋の方が勝手に離れ、ただ硬い卓が酩酊者を強く殴った。
「痛そうだな」
隠し刀は長屋を訪れた諭吉の顔を見るなり目を丸くした。撫で付けられた髪の先、いつもであれば綺麗な稜線を描く額に、ぷくりと小さな山ができている。さてはまたぞろ気を失うまで書物を読んで寝入ったか、不運が重なり飛来物にでも当たったか。どちらにせよ今日は安静させようという気持ちを込めつつ顔を覗き込むと、諭吉はぷいとそっぽを向いた。
「ちっとも痛くありません、よ、痛っ」
「痛いんだな」
どう見積もっても怪我である。理由は言いづらいこともあるだろうから尋ねずに、隠し刀は膏薬を探すべく箱箪笥を漁った。炎症を抑える塗り薬を余分に作っておいたはずだ。それとも長屋にいる間だけでも湿布を貼ってやった方が良いだろうか。考え考え取り出しつつ、自分の背中を探る眼差しに注意は向かう。どう言うわけだか、今日の諭吉は自分と目を合わせようとしない。にも関わらず、隙を伺うようにしてこちらの様子を観察している。
探られるに値するような真似に覚えはなく、前回諭吉と会って以来の活動は至極大人しいものだ。風聞が垂れ流されようとも、我関せずと堂々と構えることができる。だが抗弁しようにも、問われなければ返すことはできない。ちくりと刺しては確かめ戻る、そんなおっかなびっくりの体の情人は可愛らしくもあるが、隠し刀は限られた逢瀬はできれば正面から向き合って過ごしたかった。
「諭吉、当て物なら協力するぞ」
「当て物とは、言い得て妙ですね。良いでしょう、この際一つあなたにお尋ねします。あなたしか知らない、僕に関することを一つ言ってみてください」
「私だけが?」
瓢箪から駒の問いかけに軟膏の入った壺を落としかけ、慌てて両手で元の場所に戻す。可愛らしい問いかけと揶揄うには、諭吉の声音は妙に真剣味を帯び、捨ておけない。ではどうして、を考えるには材料が不足している。箱箪笥の中を整理しているふりをして鏡を箱の上に置くと、諭吉の悩ましい表情が見てとれた。そんな顔をさせているのは自分だとするならば、胸が痛むも思い当たる節はない。炎症を抑える軟膏を取り出すと、隠し刀は何も気づかぬ風を装うことに決めた。
「難しい質問だ。諭吉は良いところが色々とあるし……私だけが知っていて欲しいことは多いな」
明るい声音でくるりと振り向くも、諭吉の顔色は一向に優れない。これはいよいよ根が深そうだ。互いに腹の探り合いをしたところで幸せにはなれまい。軟膏の蓋を開けると、ふわりと甘い蜂蜜の香りが漂った。情人が黙って手袋を脱ぎ出すのを目の当たりにし、隠し刀は眉を寄せた。普段であれば自分に塗らせるところを、黙したまま拒否するのは異例の事態である。心がしめぼったくなるのを覚えると、口から世迷いごとが溢れ出た。
「体重を理由に騎乗位を断っている」
「な、何を言うんですか急に!」
カーッと顔を赤らめながら、諭吉は乱暴に軟膏を額に塗りたくる。どっぷりとつけ過ぎたために、虫が寄り付きそうなほど甘ったるい香りが振り撒かれるも本人はそれどころではないらしい。しまったと思うものの、一度言ってしまったことは取り消せず、隠し刀はままよと自分を落ち着かせながら謎解きを試みた。
「私たちは色々試しているだろう?確か先日、やったことがない中でやりたいことはないか、と諭吉に問われたやり取りの中で強請ってみたんだが」
「よりにもよって今、その話を持ち出しますか」
「未練があるからな」
下世話な回答だと重々承知しつつも言ってしまうほど無念だったのだ。伊達に高杉晋作や坂本龍馬の艶話を、耳学問で聞いているわけではない。元々の知識に加え、今や門前の小僧よりも道深く歩んでいる自信がある。諭吉も好奇心旺盛でかつ、体力も十分であるため共に試行錯誤するのだから楽しくて仕方がなかった。故に騎乗位は是非とも試したいと切り出すも、けんもほろろに断られて泣きを見たのである。乗り気になるならない以前に真面目な表情で拒絶されたものだから、あれから随分悩んでしまった。延々考え続け、細かな事物と結びつけた結果が今回の答えである。
「ちょうど瓦版で、妾を乗せて腹上死した大旦那の事件が触れ回っていた頃だ。あれは妾が角力取りの話だぞ?私たちは同じくらいの体格だから問題ないと考えたのだが、諭吉は上の空だった」
「……角力取りでなくとも心配ですよ。体にどう負担がかかるかもわからないのに、はい良いですよ、だなんて答えられません」
「私があれ程お前の中を掻き回しているのに?」
今更だろうと告げれば、一層諭吉の顔が茹で上がる。軟膏をしまうと、隠し刀は改めて諭吉の正面に陣取った。
「不満ならば、他にも話そうか。黒船から『拝借』したものをまだ返却していない、だとか……ああ、諭吉が私の中で一番気に入っているのは、私の舌だとか?それから、」
「十分です!第一、別に僕は舌だけでは……こほん、疑念は晴れました。もう大丈夫です」
質問は終わり、とばかりに諭吉はグリグリと軟膏が残った指先をこちらの眉間にめり込ませた。按摩を得手とするだけあって力強い。恐らく痕が残るだろう。苦笑しながら両手でその指を捕らえ、隠し刀は小首を傾げた。
「ならば私からの質問だ。諭吉は何を確かめたかったんだ?私は正しく答えられただろうか」
だんまりはなしだぞ、と退路を塞げば諭吉が顔を引き攣らせる。額が動いて、腫れた部分に当たったのだろう。少しでも気を紛らわせてやりたいものの、今を逃せば二度と問えないという直感が働いていた。なあなあでお茶を濁すことは簡単で、穏やかに綻びを繕うなぞいくらでもできよう。されど、一度捻れた跡は残り続け、何かの折にふと心を躓かせる。隠し刀はかつて一度、大きく躓いた。ここでまた同じ轍を踏むのは余りに惜しい。諭吉は経験したことがあるだろうか?じっ、と隠し刀が正面から視線を注ぐに合わせ、諭吉はしばし息を潜め――長々とため息を溢した。
「あなたが本当にあなたなのか、を確かめたかったんです。妙ですよね、今更。僕はあなたの名前も、来し方も、何故僕に好意を寄せてくれているかも知らないんです。それで良いと思っていました。僕たちは未来に向かっていますし、目の前にこうしていることの方が大事でしょう」
「諭吉……」
「あなたの『片割れ』に会いました」
瞬間、ざんぶりと過去の影が一挙に襲いかかって視界を暗くした。片割れ。麗しくも囀るあの人物に出会い、惑う諭吉の姿は容易に想像される。きっと恐ろしかっただろう、あるいは魅了されただろうか?あれは口先から生まれたような影で、ひっそりと心を盗んで離れない。散々こちらが探し回っているのを知りながら、よりにもよって情人を誑かしていたとは片割れらしいと言えば頷ける。片割れの真意は自分の影を捕まえるにも似て、いつまで経っても自分には理解できない。
最初に浮かび上がったのは憐憫で、ついで抱いたのは深い羨望と嫉妬心だった。どうせ片割れのことだ、諭吉に接触したと言えども束の間のことだろう。その癖どうしてこうも深い影を落とせるというのか?自分と諭吉が築き上げた時間の方が余程濃密で長いものであったはずが、さながら影が生み出した偶然のように有耶無耶にされてしまう。
嫌だ。目の前の現実を手繰り寄せたくて、隠し刀はがむしゃらに諭吉を引き込み、ぎゅうぎゅうとしがみついた。閨で自分を潰すかと恐れる男が、痛いほどに全力で抱きしめてくれることが何よりも嬉しい。骨の軋みは触れ合っている証だ、湿り気を帯びた香りは現実だからこそである。
「私はな、諭吉。名前などどうでも良いと思っていた。故郷でも呼ばれることは滅多になかったし、一つきりの道具を他と区別する必要もない。片割れにも、私にもあるにはあるが、互いに呼ぶ意味もなかった」
話を進めながら、隠し刀は自分が今尚周囲の人間と自分との間に一本線を引いているのだと他人事のように自覚した。どうせ全ては今だけ、隠し刀という肩書きが世をフラフラしているだけで、個としての自分なぞ永劫残るまいと思っている節がある。他の生き方を選択できると知っても、選択する勇気が欠けていたのかもしれなかった。全てを陽の下に晒し、影を消し飛ばした姿は本当に人の形をしているだろうか。
次々と湧き上がる不安と疑問の奔流に連れていかれそうになるも、隠し刀はただ目の前の人に自分を覚えてほしいと強く願った。
「私の名前は『 』という。道具のための名前だ。だから、諭吉にはお前だけの名前で呼んでほしい」
「あなたという人はずるい。そんなことを言われたらば、嬉しくなってしまうでしょう」
「嬉しいのか?」
「ええ、とっても」
憮然とした面持ちながらも嘘ではないようで、諭吉は痛がりもせずにこちらの肩口に顎を納めてその名を呼ぶ。丸切り新しい名前を貼り付けられ、俄かに自分がまともな人間になったかのように感じられるのだからおかしなものだ。諭吉の嬉しさがじわじわとこちらにも伝播して胸がぽかぽかと温まってくる。縁の始まりもそうだった。さして前ではない、だがもう随分長い時を経たような日を思い出しながら、隠し刀は情人の背中を撫でた。
「二人でハリスの救助に向かった時を覚えているか?ハリスが無事去った後、お前はこれで縁が出来た、米国のことを聞けそうだと嬉しそうだった」
「あはは、そんなこともありましたね。なんだか随分昔のことのようだ」
「本当にな。あの時、私はお前を面白いことをいう人間だと思ったんだ。本当に嬉しそうな顔をしていて、また見たいと思った。気になって再会して、話して、もっと知りたいという欲が出たよ――それこそ、私しか知らないものが欲しくなった」
恋や愛という名前をつけるには及ばぬ、刃こぼれにも似た感情の発露だった。影から表舞台に飛び出して、新しい道を戸惑い恐れながらも歩むのはいまだに物慣れない。それでもこうしてしがみついている。しがみつき続けていたい。
「私の気持ちは醜いかもしれないな」
恐らく、過去を振り捨てると言えたらば諭吉も自分も心が晴れやかになるだろう。だが、それは出来ない。どれほど掴めぬ自分の影であっても、隠し刀は救いたいと願っていた。
「僕だって、十分醜いですよ」
でも、それが嬉しい。言わずと知れた続きに頬が緩む。ゆるゆると互いの腕を解いて、隠し刀は情人の額を検分して今一度軟膏を取り出した。
「塗り直した方が良さそうだな。私が塗っても構わないか?」
「存分にどうぞ」
差し出される額に口付けると、パッと開いた目が丸くなって愛らしい。この顔が見られるだけでも、自分は陽の下に出て良かったと思う。ついでにほくろを啄んで、隠し刀は新しい名前が耳を震わせるのをうっとりと聞いた。
〆.