思い出道楽 物、物、物。見るものを圧倒するような無言の存在たちに、福沢諭吉はただただ口をつぐむばかりだった。茶箪笥、書見台、脇息に座布団。座布団の上には信楽焼だろう素朴な猫の焼き物と本物の野良猫が寝転んでいる。埃っぽい床には扇子や団扇が箱に乱雑に入れられ、その隣には端切れの山が茶と書かれた箱にどっさりと積まれていた。上を向けば民芸品の達磨が目のない虚を呈しており、書物も乱雑に散らばってやる気がない。
商品なぞ見つけたい人間だけが見つけるが良い、という堂々たる様子はおよそ店と呼ぶには憚られた。第一、物がひしめき合って店内全体が暗く、入り込んだらば底知れぬほど入り組んでいる。見る者が見れば、これは宝の山なのだろう。現に物の合間から覗く人影は少なくはない。しかし、部外者にしてみればここは塵芥の城にも等しかった。
普段の諭吉は、無闇矢鱈にものを増やそうという気がないため、こうした店には進んで寄り付きはしない。行くのはもっぱら書店、それも洋書の店が多く、時たま舶来品を取り扱う小間物屋に顔を出すくらいのものである。いずれ国外に出る身の上、少しでも多く金があるにこしたことは無い。家財処分の大変さは、家の借金を整理するために奔走した経験から身に染みて理解している。
にも関わらず、今日こうして他人の日常に取り囲まれているのは、ただ情人である隠し刀の頼みに他ならない。常であれば物見遊山か買い食いか、いずれにせよ諭吉を念頭に置いた外出を提案する男が、珍しくも自分で買い出しに行きたいと言ったのだ。わざわざ江戸に顔を出しておきながら、貴重な逢瀬の時間を買い出しに使うのは些か不本意な話である。第一、物を増やす必要があるというのか?申し出に対し、つい詰問するような物言いをしてしまったのは無理もないだろう。
「このままでは長屋が手狭になってしまいますよ。先日も、僕と物の整理をしたばかりじゃありませんか」
「うん、物は多いんだがな」
花器が無いのだ、と隠し刀は端切れ悪く返しつつ、要望を翻すことはなかった。それどころか、横浜では異人好みの高級品はあっても、日常に耐えるものは少ないのだと付け加えさえしたのである。こうも強固に強請るのは閨でまだ諭吉が許していない行為を申し出た時くらいで、そちらは諭吉が未だに譲らないため実現には至っていない。閨に比べて、一度の逢瀬が古道具屋に消えることがなんだというのだろう?可愛らしい願いではないか。己の了見の狭さが嫌になってしまう。
「行きましょう。確か、日本橋の辺りには手頃な値段の物を売る店が多いと聞きます。花器の一つや二つ、ちょうど良いものが見つかるでしょう」
「ありがとう、諭吉」
パッと花が綻ぶような緩やかな笑顔を情人が浮かべる。他人には、なんの変化も見られないだろう、彼にしかない温もりを諭吉は好んでいた。他ならぬ情人である自分の特権と言えよう。抗議の代わりに隠し刀の頬を軽くつねると、諭吉はこうして古道具屋まで足を運んだのである。
店に辿り着くまでも波乱万丈で、豪商が財布を落としたと言うものだから隠し刀がすかさず川に飛び込んで真珠の詰まった袋を拾ってやったり(お礼は珊瑚玉だった)、暴馬を止めたり、樹の上で往生する猫を捕まえたりと八面六臂の大活躍が繰り広げられた。今回ばかりは諭吉も傍観しているわけにもいかず、いくらかは助太刀したため既に衣服が汚れてしまって情けない。情人との逢瀬はどうして毎度不穏なのだろう?厄災を引き寄せる運気があるとしか表現しようもなかった。
そんな男に惚れた自分も大概で、運の尽きである。我楽多の山の奥に連れ込まれてしまった隠し刀を追いかけると、諭吉は宝はないかと頭を巡らせた。思えば花器を買いに来るのは、諭吉自身初めてのことだった。実家で母が心尽くしに花を生けていた記憶はうっすらとあるものの、何を使っていたかまではとんと記憶にない。心底興味がない証拠だ。花の性質を考えれば、筒状のものか、あるいは盆も良いだろうか。何を入れるか用途不明の物を漁りつつも、気掛かりになるのは隠し刀の真意である。
花を愛で、鳥の声を聞き、雲の流れに嘆息する。茶人歌人の類が抱く心は、道具からようやっと人間の顔を見せ始めた隠し刀には些か高度な感情だ。例えば、アーネスト・サトウのような教養人であれば花器を求めるのは自然だろう。隠し刀がそも花を生け、さらには器まで求めるとは不可解な現象である。彼の生活様式を変化させるほどの影響を与える人物か、事物が登場したのだろうか?隠し刀が関わる他の誰よりも自分が最も親密だ、と胸を張って言える自信があるものの、残念ながら諭吉に心当たりはなかった。
「あの、」
そっと、彼につけた自分だけが呼べる名を呼ぶと、飼い犬よりも素早く情人が寄ってきた。彼の心が自分の懐にまっすぐ飛び込んでくるようなひたむきさに、思わず諭吉の頬が緩む。人目がなければ頭を撫でて口付けてやるところだ。が、長年培ってきた良識はそこここで山を漁る人間たちを無視できなかった。
「どうして花器を探すんです?ほら、あなたは花を生けるだなんてこれまでしていなかったでしょう。驚いたというか……その、どんなものを探しているのか気になりまして」
素直に誰の影響であるのかを尋ねるのは憚られた。彼を取り巻く世界は膨大であるにも関わらず、他人の色濃い影を消し去りたいという衝動を抱くのは傲慢でみっともなかった。先般、隠し刀の片割れに出会ったことが一層焦燥感を増しているのかも知れない。自由に天高く舞うような男は、長大な過去の糸が未だその尾に縋っている凧だった。誰しも過去があり、現在がその影を抱きしめることは叶わない。理屈を理解できても飲み込めない頑是なさは幼児に似て恥ずかしい。要するに自分は格好つけたいのだ、と諭吉は苦笑した。
「順を追って話せば少し長くなる。私の家は人の出入りが激しいだろう?私は気にしていないが、それぞれ過ごしやすいように物を置いているから……物が増えるんだ」
隠し刀は諭吉の様子を意に介さず、手近な籐籠を手にとって状態を確かめていた。楕円に押し潰されたような形状で、花籠としても一応使えるだろう。
「人の考えはよくわからないが、彼らが大切にしている物ならば、私も大切にしてやりたい。それで整理ができないから始末に追えなくて、その、世話をかける」
物を増やしたことがなかったのだ、と隠し刀は遠くを見るような眼差しをした。ああ、また昔だ、と知らず一抹の寂しさにきゅっと唇を引き結ぶ。家を無くした、何もかも失った人間は痛みさえ痛みと認識できない。それが彼らの生きる術なのだろう。悔しいことに、隠し刀の心情を誰よりも理解できるのは片割れだろう。籐籠に大きな穴を見つけて棚に戻すと、情人はうろうろと陶磁器が並ぶ辺りに眼を彷徨わせた。
「……構いませんよ。あたなができなくたって、僕ができれば良いんですから」
「ありがとう。諭吉は優しいな。……それで花なんだが、ブリュネが時々友人が育てている花を分けてくれるんだ。もらったは良いが、置き場がない。それで、手近にあったバーボンの空き瓶に差していたんだ。それを見兼ねて、小笠原が生け方を教えてくれて……驚いたよ。同じ空き瓶を使ってももっと綺麗で、同じ花でもやりようによって見た目を変えるんだな」
「待ってください。小笠原とはあの小笠原清務殿ですか?将軍家の目代をされている」
「将軍家がどうかは知らないが、礼法を教えている話は聞いたことがある」
「礼法の師匠という点では間違いありませんね」
つまり、諭吉が知る小笠原清務その人であるということだ。小笠原家の当主はかの和宮降嫁の折に指揮をとったこともあり、幕府内では――少なくとも、江戸で奉公する人間にはつとによく知られていた。礼法とは対局にある隠し刀がどうして知己になったかはまた聞くことと決めて、諭吉は話の先を促した。
「うん。小笠原が生けた花を見てから、空き瓶と皿だけでは花に悪いような気がしてきてな。ブリュネの友人は、きっと大事に育ててブリュネに渡したんだろうし、ブリュネが私に分けてくれるのはあの人なりの親切心からだろう。小笠原は器については、今の状況を侘び寂びがあって良いと慰めてはくれたんだ。花は野辺に咲くもの、器を望んではいません、とな」
「酒瓶に花は、確かに侘しいですね」
言い得て妙である。無論、花の贈り主であるジュール・ブリュネの趣意にはそぐうまい。少なくとも、彼ならばバーボンよりも葡萄酒の瓶が望ましいと嘆くはずだ。洋の東西身分を問わずに人が訪れる、隠し刀の長屋ならではの賑わいに改めて驚かされながら、諭吉はようやっと腑に落ちた。かつて隠し刀は、『家』への憧憬を謳ったことがある。生活が営まれ、暮らしが根付く場所。ただ寝起きするだけでない拠り所は、他人の思い出で埋め尽くされて初めて家だと実感できるのかも知れない。無論、その思い出の中心にいるのは自他共に認める(はずだ、そうでなくては困る)諭吉である。そうあり続けたい。
「それでは、僕もいくつか見繕ってみましょう。これでも、趣味は良い方ですからね」
「頼みにしている。実は、諭吉に頼もうと考えていた」
「僕に?」
「ああ」
きっと見るたびに、お前を思い出すだろうから。隠し刀の声は待ち望んでいたままの冥加で、諭吉はへにょりとだらしなく緩む口をきゅっと引き締めた。
隠し刀は諭吉とああだこうだ話し合いながら、最終的に三つほど手頃な花器を見つけることができた。流石は情人だ、と両手に抱えた花器に、誇らしさから胸が一杯になる。一つ見つかれば良い方だと思っていただけに、二人で満足のゆくものを三つも見つけられたのは儲け物だった。店主はもっと質の良い値打ち物があると勧めてきたものの、名品かどうかではなく、自分の家や花に似合う物が欲しいのだと丁寧に断った。丁度謝礼にもらった珊瑚玉で話し合いはついた――諭吉に言わせれば、まだ交渉の余地はあったらしいが、どちらにしたって泡銭である。夢は楽しく散らす方が良い。
さてさて陽は傾き荷物は重く、人は寛ぎ休む頃合いとなった。下町の活気はいよいよ増し、屋台がびっしりと常盤橋から並ぶものだから目の休まる暇がない。人間の生活がみっしりとしている!日々繰り返される同じ風景であっても、隠し刀の目には誰もがはち切れそうな幸福を味わっているように見える。あんな風な日々を過ごせたら、自分はどんなに、などと思っても詮ないことだがついつい羨むのもまた自分が人らしくなった証かも知れない。
道具になりきって大人になった隠し刀は、今十二分に幸せである。友があり、家があり、情人がいる。幸福と不幸は互いを食い合うのではなく、同時にひしめき合う物だということを隠し刀は幸福になって初めて知った。陽が当たれば影ができるように、不幸は払拭されずに染み付いている。真に禍福は糾える縄の如し、縁は切っても切っても螺旋に結び合っている。
長屋は縁が集大成した形の一つだ。坂本龍馬が招いてくれた当初こそ、以前の住人たちが置いて行った生活の名残と日々に困らぬ最低限の道具があるだけだったが、今では縁を結んだ人々を想わせぬ場所は殆ど無い。湯呑みだけでも八つはあり、素朴で柔らかな大ぶりの萩焼やギヤマンと陶磁器を組み合わせた異国向けの逸品、端がかけた土器もどきまで様々である。壁には絵があり花がある。絵は高杉晋作辺りが見繕ってきたもので、今度ブリュネが彼の描いたスケッチをかけてくれることになっていた。
禁域は柳行李一つで、枕箱程度の中には諭吉との思い出を目一杯詰め込んである。そうでなくとも彼との思い出はそこここにあるのだが、具体的な縁はいざという時のためにまとめておきたかった。ようやっと人生における落ちつきどころを見出しつつあるといえども、身の不幸を、あるいは不幸の種になりかねない懸念を払底するまでは安寧とは言えない。『家』はいつか失われうる物なのだ。
だからだろうか。目に見えぬ思い出が形を成すたびに惜しく感じ、要不要を問わずにそこにあって欲しいと願ってしまう。少し前までは、捨てることに迷いはなかったというのに、今では萎れた花さえ別れ難い。散ってしまった花を捨てる自分の様子はあまりに耐え難く見受けられたらしく、贈り主のブリュネが枯れぬ花を贈ろうと優しく肩を叩いてくれた程である。正確には、惜しかったのは花ではなく、花を贈ってくれたブリュネの気持ちやそれを生けた小笠原の心遣い、眺めて綺麗だと呟いた権蔵の素朴な喜び、そうした思い出の連なりだ。
もとより形のないものだから、花のあるなしは無関係である。ただ、思い出しやすくなる縁とでも言おうか。月日を捕まえることはできずとも、思い出を捕まえておきたかった。
「思い出道楽だな」
「面白い言葉ですね」
ふふ、と諭吉が笑う。その表情だけで、十分意味が通じていることが見てとれた。物言わずとも互いの考えがわかるというのは心地良い。が、隠し刀は敢えて絵解きを試みた。
「これまで、私は道楽をするだなんて考えもしなかったんだ。生きていくには別に必要ないものだろう?」
家も、家族も、友人も、情人も、縁も何もかも生きていくには必要がない。うろ、と諭吉の瞳が不安げに揺れた。
「今はよくわかる気がする。多分、私は思い出道楽なんだ」
一度気づいてしまった人生の空白を、寂しさを埋める喜びを知ってしまった。とりわけ目の前にいる人物との思い出は、一つでも多く作りたい、残したいと願ってやまない。つらつらと言葉不足ながらに続けると、どういうわけか諭吉の眉間に皺が寄る。何か癇に障ることでもあったろうかと問いを口にするより先に、相手の方からキッと鋭い眼差しで宣言がなされた。
「僕は、あなたの思い出にはなりませんからね」
「……うん。悪かった」
思い出は過去に置き去りにされるもの、不変の代わりに今より先にはあってくれない。無意識に示唆した可能性を否定する諭吉の強さを、隠し刀は心から頼もしく思った。
「ですが、あなたの言いたいことも理解できます。そうだ、僕の部屋に来ませんか」
「藩邸にか?だがそれは、」
「あなたならばできるでしょう?」
不可能なんてあるはずがない、と情人に曇りのない瞳に訴えられて、退けることのできる人間はどれほどいるだろう?少なくとも隠し刀には無理だった。大それた試み故に考えつきもしなかったが、諭吉の個人的な部屋には常々興味はあったのだ。大急ぎで宿に荷物を預けて支度をすると、隠し刀は諭吉と別れてばらばらに目的地を目指した。
ただの逢瀬のつもりだったが、大それた冒険へと姿を変えてしまった。招いたのはこちら側だというのに心臓の高鳴りを抑えきれず、諭吉は自室でそっと自分の胸を押さえた。バクバクと激しく動いて、まるで全速力で走ったかのようだ。適当に片付けをし、座布団を敷いて姿勢良く座る。自分の部屋だというのに、まるで他人のそれであるかの如く収まりが悪い。今か、まだか。もじもじしているうちにとうとうコンコン、と天井から合図が鳴ってひゃっくりが出そうになる。ぐ、と息を飲み込むと、諭吉は舌で唇を湿らせて声を発した。
「どうぞ」
「邪魔をする」
天井板がずれた、と思うと猫のように静かに隠し刀が落ちてきた。万一人に見咎められた際を考慮してか、中間のような身なりをしている。二人してじ、としばし黙してあたりを伺った。咳ひとつ聞こえない。
「ばれませんでしたね」
「私はできるからな」
「そうでした」
胸を張る仕草がおかしくて、つい笑いそうになってしまう。どうにか堪えると、諭吉は自分の部屋を案内した。案内と言っても一間で、見る限りが全てである。目一杯の本が詰まった棚に、そこらじゅうに山を作る本、本、本、ついで書状の類や文具類が隅に陣取り、文机の周囲をかろうじて開けていた。さながら自分の頭の中身を晒したようで気恥ずかしい。隠し刀はと言うと、礼儀正しく目だけを動かして眺めていた。書物の山を崩したくないのだろう。彼らしい配慮だった。
「とっておきをお見せしましょう」
あなただけにですよ、とその手を引くと、諭吉は書物の山に隠れるようにして鎮座する竹籠を示した。実家から持ってきたもので、年季の入った籠は行燈の灯で艶々と柔らかな照りを放っていた。二人して山の間に密着して座り込み、静かに籠の蓋を開く。そんな風に葛籠をひらく昔話があったな、と諭吉の胸に懐かしさが込み上げてきた。こうして二人が並ぶに至るまでの経緯は、一種のお伽話に等しい。
「ああ」
開けた途端、隠し刀の口から堪えきれぬため息が漏れ出た。見慣れているはずの諭吉も、つられてため息を溢す。竹籠いっぱいに文箱、浴衣、団扇に紅葉の押し葉、ふざけて引いた辻占の紙、情人との思い出の数々が詰まっていて、蘇る過去が脳内を埋め尽くす。
「僕の宝物です。他の人には内緒ですよ」
単なる道楽ではない。道楽のように断とうとしても、執着が強すぎてもはや手遅れだ。隣にいる情人含めて、海の向こうにまで連れてゆけないのが惜しい。だからこそ、ただの思い出で終わってほしくはなかった。
思い出は、いつか薄れてしまう。熱が冷めれば道楽もおしまいだ。『今』をずっと繋いでゆくことを念じて、諭吉は籠の蓋を閉じた。夜はまだ、これからだった。
〆.