手を伸ばした背は、やはり男性のそれだった。 今日の朝初めて入ったばかりのはずなのに、どこか懐かしささえ感じる控え室。その扉を閉めて、ふうと一つ息を吐いた。
式が終わり、披露宴が終わり、来てくださった方々への見送りも終えた。今日ずっと手伝ってくれた両家親族や式場スタッフの方々にもそれぞれ挨拶をしてあとは着替えて帰るだけ。もちろん式はとても良いものだったし、私自身も良い経験ができたと思っている。けれど、それはそうとして、普段はしないような装いで一日過ごすのは……純粋に疲れた。はやくいつも通りの服装に戻ってしまおう、と披露宴用に仕立てたブルーのドレスを脱いでいく。着る時ほどではないものの脱ぐ時もそれなりに手順を踏まなければいけないこのドレスは、彼――今日から夫となった、クルアと一緒に選んだものだった。
特にこだわりがなかったから、本当に何の気なしに「披露宴のドレス、何か希望はあります?」と聞いたことがきっかけだった。その時は「考えておく」としか言っていなかったのに、三日後、「俺はこの手のものには疎いから、気に入るかは分からないが」と差し出されたのは何度もページを捲ったことが察せられるドレスのカタログで。「……俺なりに、あなたに似合うものを選んでみた」と返ってきたものだから、逆にこちらが驚いてしまったものだ。
ふふ、と一人の控え室で小さく笑いながら着替えを済ませる。いつも通りのシンプルなシャツとスカートを身に着けて、そのままつい癖で後頭部に手を伸ばしてしまった。手に触れた己の髪がいつもと違っていることで、今日はいつもよりずっと華やかな髪型をしているのだと気づく。一度解いてからいつもの髪型にしようか少しだけ迷ったものの、帰宅後入浴時に解いたほうがいいだろうと結論付けてそのままにすることにした。
あとは控え室を軽く掃除して、荷物を整理したら本当に帰るだけ。そう思えば、またほうと一つ安堵の息が漏れた。その時、控え室のドアが叩かれた。おや、と思うより早く耳に入るのはすっかり馴染んだクルアの声だ。
「俺だ。入っても、構わないだろうか」
「ええ、問題ないわ」
意識して背を伸ばしながら返事をする。正しい姿勢で過ごすことは、すっかり癖付いている。けれど、疲労時にまでそれが保てているかどうかは不安だった。
「失礼する」
そう言って入ってきたのは、予想通りクルアだった。
「なにかありました?」
「いや、こちらの方が早く帰り支度が終わったものだから、手伝いに来ただけだ」
すぐに返ってきた答えになるほどと頷く。どうやら待たせてしまったらしい。
「すいません、すぐに私も出ますね」
そう言ってから私が立ち上がるよりも、彼が「気にしないでくれ」という方が早かった。やや食い気味ですらあったそれに、不思議に思って彼を見上げる。
「その……女性の方が、こういった支度には時間がかかるものだろう。それに、いくらあなたでも、今日は疲れただろうと思ったから」
「……それは、クルアも同じでは?」
「安心してくれ、俺は体は丈夫なんだ」
自慢げ、というにはやや苦い表情で言った彼に思わず笑みが零れた。
「それじゃあ、お願いしてしまおうかしら」
「任された」
そうして彼は、私が手荷物の整理をしている間に、手早く掃除を済ませた。
「こちらは終わったが、アメリアは?」
念のためもう一度視線を走らせて確認してから、「こちらも問題ありません」と返す。
「……さて、帰りましょうか」
そう言って立ち上がって、驚いた。まず、彼と私の距離に。隣に立って歩くには、少し近すぎるそれだったから。けれど「どうかしましたか」と問いかける言葉は、音にはならなかった。
私が、彼に抱きしめられたから。決して強くはない、むしろ優しいそれだったけれど、抱き寄せるその力でああ彼は男性なんだなと改めて思った。
「式の前には、あなたにだけ言わせてしまったから」
いつもよりも少しだけ、声が柔らかいように感じるのは私が彼の腕の中にいるからなのか、それとも別の要因なのか。
「俺も、あなたを……アメリアを、一生をかけて幸せにする。そう誓おう」
そう続けた彼の声は、ああ、それでもやはり、いつも通り芯のあるそれだった。
普段通りの彼と、普段と違う彼の情報が交互に入ってきて、混乱する。頭のどこか別の部分で、「抱きしめられた拍子に、彼のシャツに化粧品がついてないといいけど」なんて考えてもいた。
それでも、きちんと返事をしないと、と思った。
思ったけれど、私には、こういう時になんと言えばいいのか、分からなくて。
「……ありがとうございます」
だから、そう言って、私を抱きしめる彼の背にこわごわと手を伸ばした。
(診断メーカー、幸せそうな2人が見たいより。
帰ろうと立ち上がった瞬間、優しく抱き寄せられ、優しい声で「一生かけて幸せにする」と言われて、見たことのない相手の姿に動揺してしまうメイ家夫婦)