その子を導く全ての魔法「あ」
小さな声にキバナは顔を上げた。さっきまでつまらなさそうに資料をめくっていたダンデが、その指をじいっと見つめているので「どうしたの」と尋ねてみる。
「ゆび、きった」
ん、と差し出された親指には、赤い血の玉がひとつぶ浮き上がっている。己の身を顧みないバトルスタイルで、いつも生傷が絶えないダンデにとって、これくらい大したことがないのだろう。子どもはなんでもないようにその血を舐めとっていたが、突然はっとしたような顔をして、キバナのことを上目づかいで見上げてきた。
なにか企んでるな、と思う間もなく、ダンデは甘えるような声で「いたいなあ」と体をよじった。
「そうか、それはかわいそうになー」
「キバナ、おれはとっても痛いぜ」
「うんうん、そうだよな」
「だからな、この後の定例会議には出られないとおもうんだ」
──それが狙いか。キバナはため息を飲み込んで、なおも潤んだ瞳を向けてくるダンデの顔をじいと見つめた。
ダンデは椅子に座ってじっとしていることが苦手だ。リーグ委員会の定例会議や打ち合わせなどは、聞いているだけの時間が長いこともあり、特に苦手であるらしい。毎回なんやかんやと理由をつけて逃げ出そうとするので、キバナはいつもこの子どもを宥めすかすのに苦労している。
今日はたった一センチもない切り傷を言い訳に、会議をさぼろうとしているらしい。そんなもので逃げ切れるはずはないのだが、それでも大きな瞳を揺らして見つめてくるあたり、キバナが許してくれると思っているのかもしれない。十歳という幼さでチャンピオンとなり、この特殊な世界の中で「大人のはたらき」を求められるダンデが、唯一甘えられるよりどころとして自分が認められたのだ、とキバナは思うことにしている。──ダンデの思い通りにならなかった時、長い脛を蹴られることは多々あるけれども。
さて、今日はどうしたものか。黙ったままのキバナに痺れを切らしはじめたダンデの表情が怪しくなってきた。また脛を蹴っ飛ばされないよう、さりげなく体を離しながら、キバナはその丸い頬を眺めながら考える。
そりゃあ、予算やプロモーションのことばかりが議題に上がる会議なんかさぼらせて、毎日忙しいダンデに好きなことをさせてやりたいのは山々だ。けれど、この場に参加することもチャンピオンの務めであり、やるべきことをしなければ、やりたいこともできなくなる。わがままが許される子どもの特権なんて「チャンピオン・ダンデ」は既に失っていた。
なんとかして、これから始まる会議中も大人しく座らせておかなくては。やがて不機嫌そうに体を揺すり始めたダンデに、「よし、分かった」と声をかける。子どもの顔がパッと晴れた。
「じゃあ、委員長に『ダンデは休む』って言っておいてくれる?」
「痛くなければ、会議には出られるんだな?」
「え?」
きょとんと目を丸くしたダンデの返事を待たないうちに、「痛くなければいいんだろ?」ともう一度問う。探るような目つきになった子どもの手をとり、その傷口をあらためた。うん、血は止まってるな。
「かわいいダンデくんのため、このおれさまが特別におまじないをかけてあげよう」
キバナは細い親指を手のひらで包み込み、高らかに歌い上げた。
「ペイン・ペイン・ゴーアウェイ」
「え」
「ペイン・ペイン・ゴーアウェイ」
「ね、ねえ、キバナ」
「ペイン・ペイン・ゴーアウェイ!」
「キバナっ」
大きな手のひらを振り解いたダンデは、頬を赤くして震えていた。わざととぼけた顔をするキバナの肩をどんと叩く。
「子どもあつかいするな!」
「子どもだから、ちっちゃい傷で泣きそうになっちゃったんだろ?」
「なきそうになってない!」
「いたいよーって、べそかいてたじゃん」
ええん、と泣き真似をするキバナに、ダンデはついに椅子から立ち上がる。そして荒々しく足を踏み鳴らし、
「そんなことない! こんなの、ちっとも痛くないっ」
と言い切った。次の瞬間、はっとして口を押さえたがもう遅い。キバナは顔いっぱいに勝利の笑みを広げ、「ふうん」と頬杖をついた。
「痛くないんだ? だったら会議にも出られるな」
はい、それじゃあ頑張ろうねえ。倒れかけた椅子を元に戻し、座面をぽんぽんと叩いてやった。
ダンデはしばらく悔しそうに拳を握り締め、その場で仁王立ちしていたけれど、やがて渋々と椅子に座り直した。大人用のそれにちょこんとおさまりながらも、怒ったように頬を膨らませるその子どもに、キバナは小さく苦笑する。
後でクッキーと紅茶でも献上して、ご機嫌を直してもらおうかな。そんなことを思いながら頭をそっと撫でてやる。
ダンデは相変わらずむくれながらも、その手のひらを当然のように受け入れていた。
◇
キバナは走る。肺がキンと痛んだが、そんなことはどうでもよかった。今は一分でも、一秒でも早く、この街を抜けなければならない。ダンデの元へ、行かねばならない。
「フライゴン!」
放り投げたボールから、緑の翼竜が空へ舞い上がる。街中での自由飛行は、免許を持つ者であっても原則禁止されている。けれどその規則では、「緊急に必要な場合を除き」と謳われていたはずだ。これが緊急でなくて、一体なんだというのだろう。
「砂塵の窪地まで。おれさまのことは構わない、最速で頼む!」
心得たとばかりにフライゴンが短く鳴いた。キバナは衝撃に備え、その首にしがみつく。力強い羽ばたきが風を巻き上げ、やがて彼らは夕空を切り裂くひとすじの流星となった。
ごうごうと耳元で鳴る風よりも、キバナの鼓動のほうが鼓膜を激しく叩いた。ついさっき連絡を受けてから、指先は凍りついたように冷えたままだった。
チャンピオンが遭難した。至急救助に向かわれたし。リーグ委員会から要請がきたのは、終業も間際のことだった。
第一報を受けたリョウタが、青い顔で執務室へ駆け込んできたのがその三十秒後。そこから一分で必要な支度を整え、キバナはジムを飛び出した。
フライゴンの背中で聞いた第二報によれば、ダンデはワイルドエリアでキャンプをしていたらしい。久しぶりの休暇に羽を伸ばしていたところ、たまたま近くへキャンプに来ていた二人組のトレーナーと遭遇。プライベートにも関わらず、当然のようにファンサービスを求められたダンデは、嫌な顔ひとつせずに応じたらしい。
しかしそれがいけなかった。一躍時のひととなった子どもを前に、トレーナーたちは舞い上がっていた。請われるままにサインをし、会話を許すダンデに、彼らは少しずつ遠慮というものを忘れてゆく。やがて彼らは、ガラルで一番強いダンデに、こう頼んだのだと言う。
「雪の日にしか出てこない、希少なポケモンの捕獲を手伝ってほしい」
例えばキバナであれば、これが潮時だと悟り、無難なやりとりを経てその場を去ることができるだろう。けれどダンデは幼かった。求める人が目の前にいれば、それに応えたいという純粋な心を持っていた。そして、それこそが「チャンピオン」なのだという、青い理想をいだいていた。
こうして三人は、小雪のふりしきる砂塵の窪地へ向かったのだという。トレーナーたちがあれこれ理由をつけてダンデを連れ回すうち(きっと、これを機に関係を持とうと企んでいたのだろう)、日が傾き、風が強くなっていた。
ジムチャレンジでひととおりの旅を経験していたダンデはこの時、彼らに引き返すことを提案したらしい。けれど、ダンデの連絡先すら聞き出せていなかった彼らはそれを引き留めた。
これ以上進むことを渋るダンデに、彼らは言った。
「君はガラルのチャンピオンなんだから、これくらい平気でしょう」
ダンデは少しためらってから、うん、とひとつ頷いた。
それに満足した彼らはしばらくもしないうち、自分たちの選択が誤っていたことを知る。細雪程度だった氷のつぶは、強風の中で牙を剥いたのだ。やがて、ぞっとするような吹雪が三人を捕らえた。
真っ白に塗りつぶされた景色の中で、足をすくませる二人にダンデは「こっちの岩場でしのごう」と、先頭を歩いて導いた。一人旅を終えて間もない彼にとって、遭難時の対応は記憶に新しいものだったのだ。
大きな岩の隙間に体を押し込めた三人は、ダンデのスマホから救助要請の連絡をした。
これで助かる、と安堵した彼らだったが、トレーナーのうち一人に低体温症の症状が出始めた。彼の着ているウェアだけが、防水性ではなかったのだ。服の上で溶けはじめた雪は、容赦なく彼の体温を奪った。
顔を青くする彼へ必死に呼びかけたが、徐々にその反応は弱まっていった。なすすべもなく消えゆく命のともしびに、トレーナーの一人が唇をわななかせていると、ダンデが「ここからなら、おれのキャンプ地が近いぜ」と言った。
「防寒具を持ってくる。その人をあっためなくちゃ」
トレーナーは必死に止めた。立っていられないほどの吹雪に再び挑むなど、正気の沙汰ではない。けれどダンデは恐怖に揺れる男の瞳を真っ直ぐに見据え、力強く言った。
「おれはガラルのチャンピオンなんだから、これくらい平気だぜ」
その子は、笑っていたのだという。
そして、真っ白く塗りつぶされてゆく小さな背中は、それっきり戻ってくることはなかった。
ふるるる、とフライゴンが鳴いた。夕暮れの砂塵の窪地は一面が雪に覆われていたが、頭上の空は赤い晴れ間をわずかに覗かせていた。第三報で得た座標を元に旋回し、ようやく見つけた先発隊のテントへと降下する。
ほとんど飛び降りるように地に降りたキバナは、予定よりも三分も早く送り届けてくれたフライゴンに礼を延べてボールに戻した
「状況は」
テントに入るなり、前置きもなく確認を進める。事前連絡からほとんど進展のないそれを聞く間、視界の端に毛布のかたまりを見つけた。その周りで医療班が迅速に仕事を進めている。布にくるまれたそれは、例の二人組だった。
瞬間、キバナの体を烈火が貫く。轟々と耳の奥で響く風の音が、己の荒い息遣いだと気づいた時、ふいに彼らが顔を上げた。突き刺すように光る眼差しに、彼らは弱々しく身を縮こまらせた。ごめんなさい、とその唇が動いたような気がしたが、キバナにはどうだってよかった。今更そんなもの、なんの役にも立ちやしない。ダンデが何度もチャンスを与えていたというのに、愚かなおまえたちは気づこうともしなかった。
もしもダンデが、なにも損なわずに戻ってくることが叶わなかったら。
その時は、必ず、このおれが、おまえたちを、──……
キバナさん、と呼ばれ我に返る。ひとまず第一班が既に捜索を始めているというので、キバナもその協力を行うことに決まった。必要な装備を身につけ、そのままテントを飛び出す。
吹雪の後の清涼な空気をまとって、目に染みるほどの夕陽が山なみの向こうへ沈もうとしていた。三十分後、赤く燃える雪の中で、キバナはダンデを見つけた。
その時のことを、きっとキバナは忘れないだろう。テントだったとおぼしき残骸の中で、小さな体がぼろきれのようにうずくまっていた。強風で飛ばされたポールに頭を打ちつけたのか、額からは血が流れていた。その周りで、紅に侵された雪が溶けかけている。
呼吸も忘れて駆け寄った。さっきまでまともに動いていた両足は、悪夢の中を走っているみたいにもつれた。永遠にも感じるその距離を飛び越え、細い体を抱き抱える。呼吸の確認をすべく口元へ耳を近づけると、その子どもが何ごとかを呟いていることに気がついた。
「ぺ、……ご、あ……」
小さな声が、キバナの頭の中で意味を結ぶ。
ペイン・ペイン・ゴーアウェイ。
どんな怪我でもたちまち治す、とっておきのおまじない。キバナが教えた、幼い魔法。
己を包む温もりに、ダンデはうっすらと瞼を上げた。そしてキバナに気がつくと、凍った頬をわずかに持ち上げて囁くのだ。
「すごいな、キバナは。このおまじないで、ほんとうに、いたいのがとんでっちゃった」
男は小さな体を掻き抱いた。何も言えなかった。
キバナは思う。この子どもの未来に、永遠の幸福をもたらすおまじないがあればいいのに。
そうしたら、おれは毎日だって毎秒だって、しつこいって怒られたって、ずっと唱えてあげるから。
ゆりかごみたいな心地よい揺れに、ダンデの意識がゆっくりと浮上した。体を包むやわらかい毛布の感触に、あの悪夢のような白い孤独が終わったことを知った。
「起きたか、ダンデ」
優しい声が聞こえる。それでようやく、頬に触れるぬくもりがキバナの背中だということに気がついた。
「あのひとたちは……?」
必ず戻るつもりだったのに、強風の中で飛んできたテントに身をかがめたのを最後に記憶が途切れている。自分はチャンピオンなのに、失敗してしまったのだ。岩場の隙間で震える男たちを思い出しながら尋ねると、キバナはしばらく黙り込んだ後、「無事だったよ」と静かに言った。
「よかった」
体の力が抜けてゆく。四肢を弛緩させ、広い背中に全身を委ねた。
空はすっかり群青色に染まっていた。細かく光る星々が思い思いに瞬いている。
ダンデはつい最近まで、それらは夜空の中で自由にちらばっているのだと思っていた。けれど今その金色の瞳が映しているのは、意味を持って繋がっている形の数々。深い青をキャンバスに、確かな秩序を持って描かれている星座の全てを、ダンデは見つめている。
あ、と掠れた声を上げると、キバナが穏やかに「どうかした?」と尋ねた。重たい腕を持ち上げて、ぬくもってきた指先を東に向けてダンデは言った。
「ししざ。レグルスがひかってる」
キバナはふと歩みを止めて、ダンデが示す方へ顔を向けた。そして背中におぶったダンデを優しく揺すり上げながら、「覚えてたんだ、えらいな」と笑った。その声はほんのりと喜びを帯びている。
それに気がついたダンデは、ぼんやり思う。
キバナのおまじないとやらは、試してみたら効いたことだし、これからはもうちょっと言うことを聞いてやってもいいかもしれない。キバナが教えてくれたことを、おれが覚えていると何故だか嬉しいみたいだし。
だから、まあ、少しは「おべんきょう」を頑張ってやらないこともない。
再び歩き始めたキバナの背に頬を寄せると、彼の鼓動が星の輝きに似たリズムで響いていた。
(キバナおにいさんとダンデくん③/2021.10.03)