攻め優位ぶぜまつ(仮)途中まで――嫉妬とは、自分とは縁遠い感情だと思っていた。
豊前江は、逆巻く炎のような苛烈な感情を秘めながら、自室で松井江を待っている。二人だけで話したいことがある、と言ったときに見せた小首を傾げた様子を反芻する度に、頭も心も灼けつきそうになってしまう。
ある日、松井が誰かに懸想しているという情報を小耳に挟んだ瞬間、豊前は己の内に赤々と燃え上がる感情があることを自覚した。松井への庇護欲と独占欲が綯い交ぜになって形成されたその感情は、あっという間に豊前の胸を焦がしていった。
しかし、どんなに身を焦がそうと、どんなに心を灼かれようと、その感情に気づくのが遅すぎたことには変わらない。松井の心は、既に自分ではない誰かに向けられている。そう思うだけで、豊前は体の奥から煮え立ちそうになるのを感じていた。
せめて松井がその相手と結ばれる前に、自分の記憶をあらゆる場所へ刻んでやりたい。ただで手放してなどやるものか。最後の悪あがきを行うために、豊前は松井の到着を待っていた。
引き戸の開く音が聞こえて、豊前はすっと入口へと向かう。そこには内番服姿の松井が立っていた。
「遅くなって、ごめん」
「いいっていいって。ほら、入れよ」
松井は少しもじもじしながらも、招かれるままに部屋の中に入る。豊前は戸の鍵をかけてから、その後に続いた。
部屋の座布団に腰掛けた松井は、どこかそわそわと落ち着かない様子に見える。豊前は今一度、己の中で滾る想いを厳重に封じ込めて、大きく息を吸って吐いた。
「まつ、あのさ」
松井の隣に腰を下ろして、豊前はその端正な顔をまじまじと見つめた。黒い髪に映える白く滑らかな肌と、凪いだ海を思わせる穏やかな蒼い瞳。桜色の唇は、無垢な美しさを湛えている。その綺麗さは、豊前の内にある昏い欲望を照らし出しているようだった。
「好きなやつが、いるって……ほんとか?」
一瞬だけ丸くなる松井の目。松井はそこから目を伏せて、小さく頷いた。白い頬は紅潮して、薄い薔薇色になっている。
「……そっか! まあ、まつならでーじょーぶだろ。相手が誰かは知らねーけど、絶対向こうもまつのこと好きになるって」
大丈夫ではない自分の心を押さえつけながら、豊前はニッと笑ってみせた。その笑顔を受けて、松井の頬の紅潮が更に濃くなっていく。
「……で、ここからが本題なんだけどさ」
豊前は声のトーンを少し落とした。
「いざ付き合うってことになったら、そのほら、そのうちやるだろ。夜に」
「…………もしかして、夜伽のことか?」
「それそれ」
松井の察しの良さに助けられて、豊前は少し安堵した。
「夜伽って一言でいっても、何をどうするかってのはわかんなかったりするだろ?」
「うん……まあ」
「だから、今からもう、具体的にどんな感じなのか知っておいた方がいいと思うんだよ」
松井はきょとんとして豊前を見つめる。
「それって、どういう……?」
「だから……なんつーか、予行演習、やってみねえか。俺と」
「え……、夜伽のか?」
松井の声と表情に、当惑の色が交じる。
夜伽の予行演習と称して、自分とは違う誰かと結ばれる前に松井の体を奪う。それが豊前の思惑であった。それを成し遂げるためには、どうにかして松井を言いくるめる必要がある。豊前は今一度ゆっくり呼吸して、松井の瞳をまっすぐに見つめた。
「……ほら、こういうのって大事なことだけどさ、他のやつに話せることでもないだろ?」
「そう、だね……。そもそも、僕はそんなこと全然考えもしなかったし……」
「それにほら、まつのためなら、俺は何でもやってやりたいしさ」
あくまで善意という体を崩さずに、豊前は松井を説き伏せにかかる。最初こそ少々怪訝な顔をしていた松井は、豊前の顔をじっと見つめて話に耳を傾けていた。
「……でも、何でもかんでもあまり豊前に甘えるわけには、」
「いーんだって。甘えてくれよ」
――どうせそのうち、他のやつに甘えるんだから。
豊前の胸に、微かな痛みが走る。
「…………うん、そうだね」
松井は何かを決心したように、豊前の顔をまっすぐ見据えた。
「豊前が、そう言ってくれるなら……そうしよう」
思わず目を丸くする豊前。まさか、ここまで容易に目論見通りに事が進もうとは。松井は、それほどまでに豊前を信頼している。そんな松井を欺いていることに対して、一抹の罪悪感が豊前の脳裏に浮かぶ。
「……豊前?」
豊前の葛藤などつゆ知らず、松井は豊前の顔を覗き込んでくる。蒼の瞳は、豊前の顔をまっすぐに映していた。
動揺したのをなんとか取り繕って、豊前は改めて松井に笑顔を見せる。
「なんでもねーよ。それじゃあ、」
豊前の瞳が、松井の唇を見る。無垢で無防備で、まだ言葉や歌を紡ぐことしか知らないそこを、豊前は最初に奪おうとしていた。
「まずは『きす』だな」
「『きす』……接吻のことでいいのか?」
「そうそう。まずはこうやって、」
豊前は松井の横髪を耳にかけてやり、頬に優しく手を添える。そして、顔を近づけると、
「ん、」
桜色の唇に、己の唇をそっと重ねた。
羽が掠めたように軽い感触。少し触れただけなのに、口許から松井の体温が伝わってくる。
「ぁ」
顔を離すと、松井が微かに声を漏らした。
「これが……『きす』」
「……どう、だった?」
「ん……初めての感触だから、うまく言えないのだけど……」
蒼の瞳は潤み、少し陶然とした表情になっている。その顔の艶っぽさと、松井の初めての接吻を奪えたという事実が、豊前の心を高揚させる。豊前は己の昂りを抑えながら、再度松井の頬を撫でた。
「じゃあ次は、」
またも松井に接吻をする豊前。しかし、今度は触れるだけではなく、己の唇で松井の下唇を喰んだ。そのままごく弱い力で唇を吸ってやると、松井が甘い鼻息を漏らす。
松井はうっとりと目を閉じて、抵抗する様子を見せない。豊前が舌先で唇を軽くなぞってやると、その動きに誘われるように口を小さく開けた。その仕草に焚きつけられて、豊前は唇を撫でていた舌先をそっと松井の口の中へと潜り込ませる。
「ん、ぁ」
唇から漏れる、低く掠れた声。豊前は紅い舌で松井の犬歯を優しく撫でて、それから前歯の歯列を舌先でなぞる。そのまま息が続くまで、豊前は松井の口をじっくりと味わっていた。
「んん、っ」
息苦しそうな声が聞こえたところで、豊前はようやく唇を離す。無垢な桜色だった松井の唇は、豊前に貪られて仄赤く色づいていた。