夜に浮かぶもの 狡噛はどんな映画でも見るが、今日彼が出島のマーケットで買った記録媒体は、大昔のアメリカの幽霊映画だった。夏だから涼しくなるものを見よう、とでも言うのだろうか? 俺はその単純な考えにまず食傷気味だったのだけれど、彼はこれは貴重な映画なんだ、と言って聞かなかった。見ると呪われる、伝説の映画らしい。かくして俺は一時間と少し、興味も持っていないおどろおどろしいそれを見るわけになり、やけっぱちになってハイネケンのスペシャルダークを数本飲んだ。アルコール度数が七度のそれは少し足をふらふらさせて、映画の中と現実を曖昧にさせた気がする。まぁ、それなりに怖かったのだ、結論から言うと。
「どうだった?」
「幽霊の泣き声が不気味だったかな。探偵が出てきたのはアメリカ映画ぽかった。ちゃんと伏線が張ってあって面白かったよ、割り合い」
だったら良かった、と狡噛は言った。でも、アメリカでも幽霊映画があるなんて、俺は寡聞にして知らなかった。というのも、狡噛がスプラッタムービーばかり俺に見せたせいである。チェーンソー、斧、他の血生臭い武器で殺される人々。イギリス人は幽霊を好むというけれど、この映画が作られたというアメリカ、いや、舞台となったメキシコは故人の幽霊を信じ敬うというから、恐ろしく作られつつも、哀愁の残るエンディングは当然だったのかもしれない。
「もう一本見るか?」
狡噛が言う。けれど俺はもうそんな気分にはなれなくて、彼をベッドに誘った。狡噛は悪い気はしなかったのか、そんな俺の腕を引いて、ダンスを踊るようにして寝室へと歩く。
キスをする。ビールの味がする。狡噛からは煙草の味がする。俺は唾液をすすり、彼がジャケットを脱ぐのを見つめる。美しい筋肉があらわになって、俺はその脇腹をさする。先日の任務で負った傷がまだ白く残るそこは痛々しく、俺は自分から誘ったというのに、彼を求める気分にはなれなかった。それを察してか、狡噛はデバイスから天井に写真を投影した。それは彼が旅をした国々の市井の人々を写したもので、うまいとはいえなかったが味はあった。
お守りを山のようにつけて走る電飾がきらびやかな個人タクシー、不気味な女の像にネックレスをかけたり、捧げ物をしてから一発逆転のために宝くじを買う人々、川にうなぎやカエルを放して商売繁盛を願ったり、罪を贖う男たち。その周りに立つ僧侶の群れからは、今も読経が聴こえるようだった。揺らぎのあるあの低く響く特有の声が、耳から離れない気がした。
これらはSEAUnの風景なのだろうか? 俺は彼が関わったクーデターの最後に現れただけだったから、あの国の人々の多くがどうやって暮らしていたのかは知らない。けれど彼は知っているのだ。あの国の人々がどうやって苦しみ、どうやって喜んでいたかを。
「案外残ってるものだな。自分でも驚いたよ。SEAUnじゃあ幽霊を信じる風習があるんだ。悪魔は信じないのに不思議だろう? 政敵を呪うのも普通なんだ。おおやけに僧侶が請け負うのさ」
「へぇ……」
そう言って彼が見せた写真には、天まで届こうかという薪に火をともし、数珠を片手に熱心に祈る僧侶の姿が映っていた。だとすると、俺たちが執行したあの男たちも、彼らなりに幽霊を信じ、自分がやがて幽霊になることを信じ、死んでいったと言うことだろうか? 自分たちが殺した人々も、ゲリラと命名して弾圧した市井の人々も、いつか自分たちを苦しめに来ると思っていたのだろうか? それとも、あの国の多くの人々が信用し、敬うという僧侶に幽霊を慰めてもらおうと、そこまで考えていたのだろうか? それとも幽霊なんてシビュラシステムの前には無力だと、そこまで考えていた?
俺はそんなことを思って、上半身裸になった狡噛の背中をさすった。彼の身体は傷だらけだった。ナイフで切られた傷、銃弾を抉り出した傷、爆発物のかけらがいまだに埋まっているところもある。日本じゃあそれらをすべてなかったことに出来る医療設備があるが、狡噛はそれを拒絶していた。自分の行いを忘れたくないのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。俺だって自分の傷を消そうとは思わない。すべて理由があっての傷だから、忘れたくないのだ。彼もそうなのだろうか? だとしたら、きっとそれは苦しいものなのだろうな。俺に癒せたらいいのに、そう思うけれど、それは上手くいきそうになかった。狡噛は俺を信じて身をまかすくせに、俺の身体を好きにするくせに、深い部分では俺を遠ざけようとしていた。言われないでもそれは分かった。セックスをしていても、どこか遠い存在のように思えたから。
「ギノ、くすぐったい……」
狡噛が言う。俺はそれに笑って、彼の背中にキスをしてやる。引き攣れに、弾丸を抉り出した痛々しい傷に、彼の負ってきたすべての傷にキスをしてやる。すると身体をひっくり返されて、あまり煽るなよと笑われた。別にそんな気分じゃなかったのに、酒で酔っ払ってどうにもなりそうになかったのに、狡噛はそうじゃないみたいだった。
「俺は役立たずだけどいいのか?」
「俺は役立たずじゃないんでな」
彼はそんな勝手なことを言って、俺にまたキスをした。それはさっきのものとは違って、甘い、甘いキスだった。ビールのアルコールが抜けてしまったのだろうか? それとも彼がいつの間にかキャンディでも舐めていたのだろうか。だったら交換しあいたかったな、そんなだらしのないことを思って、俺は今日見た幽霊映画を思い出した。死んだ母親からの涙声の電話、もし父がそんなものをかけてきたのなら、俺は喜んで何時間でも聴いていることだろう。探偵に相談などしたりしないだろう。けれど彼は何もかもを納得して死んでいった。きっと現世に未練などないだろう。未練があるのは俺の方だった。俺の方が愛する父親の喪失に耐えきられず、何度も彼のコールサインに呼びかけていた。
「ギノ、どうしたんだ、泣きそうな顔をして」
狡噛が言う。俺はそれに何も知らないふりをして、熱い、火照った身体に抱きついた。例え距離があっても今はそれで良かった。それを縮めるためだけに抱き合うのだから。俺は幽霊になっても狡噛の元へは来ないだろう。別離があるとしたら、きっと狡噛の方からだろうから、それが今までの人生から学んだことだったから。俺は狡噛に抱きつく力を強くする。そして今は絶対に離れない、離れないと強く誓う。これがスプラッタームービーなら、幽霊映画なら、一番に退場するのは自分たちだと思いながら、何度も、何度も抱き合ったのだった。