かくしごと「う、ぐ……ぉぇ……」
魈は川に顔面を突っ込んで水を飲んだことはある。しかし今は、川べりに手をつき、自分の意思では止められない程の嘔吐感に呻いていた。出るものはもうないと思うのだが、胃液が逆流してきそうな気がしてならない。吐きすぎて手が痺れ、目の前の景色がぐるぐる回っている。水を飲みたいが、また吐いてしまいそうだ。
己が何故こんな目に合っているのか、理由はわかる。昨日ウェンティと酒を飲んだからだ。甘くて飲みやすいと注がれた酒は、確かに葡萄の良い香りがして甘めで飲みやすい酒だったのだが、少々強めの酒だったらしい。酒を酌み交わし、途中でほろ酔い気分のウェンティが演奏をし始め、それに耳を傾け安らかな気持ちになっていた。そこまでは良かったのだが、たまには何もかも忘れちゃおう! というウェンティの申し出を断りきれず、勧められるまま酒を飲んだ結果がこれである。ちなみにまだウェンティは望舒旅館で眠っているようだった。
「は……、は……」
手足が痺れ、意識が朦朧としてきた。業障は気を強く持っていれば抑えることができるが、俗に言う二日酔いは気ではどうこうできるものではない。強制的に瞼が閉じようとしているが、このままここで眠ってしまってはまずい気がする。
「魈……?」
「う……」
通りかかったのが旅人であったなら良かったと少し思ってしまったが、生憎とその声の持ち主は、なんとなく今一番お目にかかりたくない相手であった。
「も……しわけありません……」
何がとは言わないが、取り敢えず謝罪してしまった。
「体調が優れないようだな。手を貸そう」
「いえ……ぅ……だいじょうぶです」
正直話をするのも辛い。魈は草花の上に顔を突っ伏したまま、鍾離の顔を見ることもできなかった。
「業障が酷いのであれば尚更だ。一人で何とかしようと思わない方がいい」
「いえ……」
違うんです。業障ではなく、これはただの二日酔いです。
情けなさすぎて涙が出そうになった。そんなことを鍾離に言えるはずがない。
「取り敢えず診よう。少し触るぞ」
がさ、と音がして鍾離が隣に膝をついたのがわかった。震えている指を鍾離の手に取られる。魈の手套を外し、素肌に触れられた。業障の程度や、仙力が弱っている訳ではないことは、すぐにバレてしまうだろう。
「気は大丈夫そうだな。食あたりか?」
「……」
「というより、これは……二日酔いか?」
びく、と身体が反応してしまった。それが正解だと返事しているようなものだった。
「そうか。珍しいな。吐いているのか?」
「…………はい…………」
かろうじて声を出して返事はしたが、目の前の川に頭を突っ込んで、いっそ溺死でもしてしまいたい程に恥ずかしかった。
「何か食事は?」
申し訳ないが、地面に額を擦り付けるようにして首を振って返事をした。
「それはさぞ辛いだろう。ここよりは寝台の上の方が休めると言える。すぐに薬を煎じてやるから、連れ帰ろうと思うが、良いか?」
「……」
はい、とも、いいえ、とも返事出来なかった。放っておいてください。と言っても、鍾離がそうしてくれるとは思えない。二日酔いなぞ自業自得であるがゆえに、鍾離の手を煩わせてしまうのが大層申し訳なかったのだ。
「うっ……!?」
返事をしないことに鍾離は焦れてしまったのか、身体を持ち上げられて、横抱きにされてしまった。頭の中がぐわんぐわんと揺れて、鍾離の胸元に胃液を戻してしまいそうになり、懸命にそれを喉の奥へ押し込めた。
「一人で飲んでいた訳ではあるまいな? 誰と飲んでいた?」
「うぇ……」
相手の名前を告げそうになって、はっとして口を噤んでしまった。その名を口にしようと瞬間、石珀色の目が鋭くなり、鍾離の眉がぴくりと動いたのである。ウェンティを決して庇う訳ではないが、その名を口に出してはいけない気がしてしまった。
何故か鍾離は、風神の名を口にすると、いつも少しだけ機嫌を損ねているような気がする。そんな風神と酒を飲んであまつさえ二日酔いになっているとは、余計に申し出難かった。
「うっ……」
魈は口元に手をやり、嘔吐きそうになることで一度誤魔化してしまったが、それで見逃してくれる鍾離ではないだろう。
「うぇ?」
鍾離に顔を覗き込まれる。決して秘密にしたい訳ではない。己は鍾離の前で隠し事などしたくはないし、やましいこともないので全てを伝えてしまいたい。しかし正直に伝えた後のことを思うと、どうしていいものかわからなくなる。
「あれ、魈、二日酔いにでもなっちゃった? 昨日は楽しかったね」
鍾離に運ばれるまま、気付けば望舒旅館へ着いたらしい。ウェンティが露台で呑気に酒を飲んでいたらしく、カラカラと笑う声が聞こえてきた。
「ほう……? ウェンティ殿と酒を飲んでいたのか? 魈は」
鍾離の目が尋問するように細められ、いっそ気絶してしまいたいと思った。しかし、己の招いたことから逃げるのは良くないとも思った。
「すみません……」
「どうせ誘われたのだろう。今度は是非俺とも二日酔いになる程に酒を飲んでみて欲しいものだな」
はは。と鍾離は笑いながらウェンティの横を通り過ぎ階段を上っていく。あっけらかんとしているが、内心はどう思っているかはわからない。知り合いのはずなのに、ウェンティには声も掛けず見向きもしなかったのだ。
「心の狭い男は嫌われるよ~」
ウェンティは楽しそうだったが、反して魈は、二日酔いのせいもあるが、胃がキリキリと痛んで仕方がない。心做しか鍾離の階段を登る足音がミシミシ音を立てている気がしていた。
「さて、今から厨房を借りて薬を煎じてくるが、もう少し耐えられるか?」
寝台に寝かされ、再度鍾離に顔を覗き込まれたが、魈はいよいよ限界になってきて、腕を動かすことは疎か目の前が霞んで僅かに首を動かすことしかできなかった。
「ふむ……桶と水差しだけ先に借りてくる。眠れそうなら眠るといい」
鍾離が魈の額に手を当て、そのまま瞼を覆った。瞼の裏が暗くなり、一気に意識が遠のいてしまう。
「も……しわけ……あり、ません……」
ウェンティと飲んだことを隠そうとしたことなのか、こうして介抱されていることなのか、もはや何に対して謝っているのかもわからない。しかし謝罪せずにはいられなかった。
鍾離は何も言わなかった。手が離れていき、キシキシと床を踏みしめる音がした後、扉の閉まる音がした。
もう起きていられない。指の一本も動かすことができないまま、意識が沈んでいく。ふわふわと意識が揺蕩う中、ふんわりと身体が浮いてぬるい感触を唇に感じ、液体が口の中へと入ってきた。少し甘みのあるそれをコクンと反射的に飲み込むと、吐きすぎて痛んでいた喉に染み渡り、喉奥を通っていった。
「謝ることは何一つない。お前のこのような姿を見れたことは、ある意味ではいいことなのかもしれない」
そう鍾離が囁いていた気もするが、魈の耳にはもう届いていない。あたたかいものに包まれている気がして、少しだけそれに身を寄せ、今度こそ完全に意識を手放した。