サイハテ紀行記 タンブラーに少し残ったショコラを前に、肘をついたリンドウは大きな溜息を吐き出す。フードコートは女子高生のグループや小さな子供を連れたパパさんママさん、それからせいぜい大学生と言った出で立ちのカップルに満ち満ちていた。正直言って自分は浮いている。
高校生にもなって親と、しかも母親と買い物というのは正直恥ずかしい。恥ずかしいが、カッコ悪くない程度に服を揃えておこうとすると高校生の小遣いでは太刀打ちできない。ECサイトでも使わせてくれればいいものを、母親は「見てみないと似合うか分からないじゃない」などと遅れたことを言ってお台場くんだりまでリンドウを引っ張ってきた。ついでに荷物持ちにする魂胆らしい。
高校生活が始まって1ヶ月と少し、クラスメイトの顔は大体覚えた。幸いにして今日は誰とも顔を合わせずに自分の買い物を終えることができた。シームレスに自分の買い物に連れ回そうとする母親に「俺休んでるから」と告げて1階のフードコートに逃げ込み、ドリンク一杯で暇を潰している。やることもなくスマホでネットニュースを検索していた彼の耳に、学校のどこかで聞いた声の呼びかけが届いた。
「カナデくん?」
ビク、と肩が跳ねる。一人でいる姿だってあまり見られたいものではない。それでも、無視するわけにもいかずリンドウはぎこちない笑顔で振り向く。普段見慣れた高校の制服ではない、この季節にしては薄手の衣装に身を包んだクラスメイトが、こんちわ、と軽く手を上げていた。
「……えっと、フレサワさん」
「何それ、呼び捨てでいいって」
フレサワ、と呼ぼうとしてふと思い出した。クラス初日のオリエンテーションの時間、彼は「中学ではフレットって呼ばれてました〜」とやけに明るい声で自己紹介していた。一部の男子は彼をフレットと呼び、残りの男子と女子は彼をフレサワ/フレサワくん/フレサワさんとよんだ。少しだけ悩む。フレットとフレサワはちょっとした岐路だ。俺はどちらに行こう、と二股の道の先を吟味した末、彼はおずおずと口にする。
「フレットくん」
それを聞いた少年は一瞬目を丸くし、そしてにんまりと笑みを深くした。
「フレットでいーよ」
「俺も名前呼び捨てでいい」
「リンドウ」
それから改めて、といった口調で問いかけてくる。
「今日は誰と?」
「あー……」
一番聞かれたくない問いに、リンドウは眉間を指で抑え顔を覆う。家族、ましてや母親、と素直に答えるのは恥ずかしいのだが、咄嗟に都合の良い言い訳が思い浮かばない。家庭でも中学でも曖昧な笑顔でコミュニケーションを乗り切ってきたリンドウだけに、嘘や誤魔化しはあまり得意でなかった。
「えっと」
「リンちゃん!」
「うぇっ」
唐突に大声で名前を呼ばれたリンドウはぎょっとして身体を強張らせた。遠くから母親がつかつかと歩み寄ってくる。
「大声で呼ぶなって!」
「だってリンちゃん全然メッセージ見ないんだもの。……あら、お友達さん?」
側で様子を伺っていたフレットがペコリとお辞儀をし、愛想の良い笑顔を浮かべた。
「こんちは、フレサワトーサイって言います。カナデ君とは同じクラスです」
「トウサイくんって言うの。リンちゃんをよろしくね」
「母さん、リンちゃんリンちゃんってやめろよ!」
リンドウの懇願も虚しく、フレットははいー、と嬉しげな答えを返した。ギロリと睨みを効かせるリンドウをどこ吹く風で躱して「こちらこそよろしくお願いします」と再び軽く会釈する。
「リンドウ、母さんそろそろ帰るけど……リンドウはお友達と遊んでからでも良いわよ」
お友達というほどの関係でもない。が、そんなことをわざわざ口に出すのも失礼で何も言えずにいると、代わりにフレットがハキハキと「じゃあリンドウくんお借りして良いっすか?」と彼の肩に軽く手を置いた。
「ちょ、待てって……」
「もちろん!良かったわねリンちゃん、8時までには帰るのよ」
「だからそのリンちゃんってやめろ!」
「いいじゃない、別に。じゃ、母さんはお先に失礼するわ」
じゃあねトウサイくん、と言って母親はエスカレーターの方面に歩き去っていく。その後ろ姿をしばらく見送った後で、不機嫌な顔をしたままの少年にフレットがニヤニヤ笑いを向けた。
「……『リンちゃん』?」
「うっせ!やめろ!」
「リンちゃん」
「やめろってば!」
ベールを一枚噛ませたようなやり取りはすっかり消え、リンドウは友達に対するような直截的な文句を口にしていた。
「いいじゃん可愛くて」
「皆の前で言うなよ……頼むから」
「いいよ、俺だけの秘密にしとく……ね、『リンちゃん』」
「おまえもやめろってば!」
教室や学校では決して見せない態度と声色を、リンドウはあからさまに表していた。クラスメイトの輪の少し外側の辺りで羊のように穏やかに笑って見せる。あまり自分の話を口にせず、2・3人の親しい友達以外とはRPGの村人のようなやり取りだけを交わす。その彼が今は生き生きと頬を膨らませている。気を良くしたのか、フレットはカラカラと楽しげに笑った。
リンドウのため息が長く、長く尾を引く。
「フレットも忘れてくれよ……」
「どーしよっかな」
どうせコイツ忘れないんだろうな、と内心で半ば諦める。人質でも取られたような気分になっていた。
母親と別れてから30分後。肩を並べて、お台場の外れの港湾地帯を歩いていた。
トラックやコンテナ車が巨大な獣のように唸り声を上げ、大通りを海の方面に向けて走り抜けていく。通り過ぎるたびにヘッドライトが薄暗い春の空気を眩しく切り裂いた。幅だけは広く取られた歩道だが、二人の他には人影も見当たらない。
「リンドウが行きたいとこってどこ?」
「別に、どこでもいいだろ」
「どこでもいーよ」
この道を選んだのはリンドウだった。そこまで親しくないクラスメイトと二人きりで店舗を回り直すのはどうも気まずく、半ば別れの口実として「この後行くとこあんだけど」と口にした。計算外だったのは、相手も「俺も付いてっていい?」と食い下がってきたこと。あんま面白いとこじゃないよ、とかちょっと遠いんだけど、と彼にしては必死で言い訳をしたが、
「俺もこの後やることないし」
と全く怯む様子を見せなかった。人当たりが良くコミュ力があるが、どうも他人が内心で感じている居心地悪さを感じ取れてはいないらしい。その後もさりげなく人寂しい道を選んでは「この先だけど本当に来る?」と未練がましく逃げ道を探したが、
「付いてく」
と一言の下に彼の足掻きは意味をなさなくなってしまった。
そうして二人で港湾地帯を歩いている。唯一幸いだったのは、想定していたほど気まずい時間にならなかったこと。隣を歩く相手はひっきりなしに「中学の頃何してたん?」とか、「桜中ならエンドウとかとは友達?」とか当たり障りのない会話を差し向けてきた。失礼にならない程度にそれに返すと、特にトピックに深入りする気はないようで「ふーん」と適当なところで次の話題に移ってしまう。
歩き続けているうちに、リンドウの中の友人評は「クラスで目立ってるヤツ」から「変な奴」にすっかり変わってしまっていた。気まずくはないが、何をしたいのかもよくわからない。
「この辺って何あんの?」
自分たちを追い抜いていくトラックの行先を見つめ、フレットが尋ねる。リンドウがスマホを取り出し手慣れた様子で画面を触ると、「あ、歩きスマホ」と不満そうな声を上げた。
「向こう、コンテナターミナル」
「コンテナターミナル」
鸚鵡返しに呟く友人を横目にさらにWebページを辿り、軽い説明を加えてやる。
「ユニュウとかユシュツとかするときの貨物置き場、みたいな感じ」
「へー、リンドウそういうの興味あるんだ」
「……まぁ」
特段興味があるわけではない。が、流れ着いてしまえば好奇心が強い彼にとってはそれなりに面白かった。家族で買い物に来て、一通りの買い物と当たり障りのない外食を済ましているお台場の裏にこんな別世界のような光景が広がっている様はなんだか現実感が薄く、心をワクワクさせるものがあった。
右手に細長い緑地が連なっているのが見える。海まで繋がっているのだろう公園に差し掛かったところで、フレットは足を止めた。
「なぁリンドウ、向こう本当に何かあるの?」
流石に心配になってきたのだろう彼に合わせて立ち止まり、地図アプリを立ち上げる。1kmと少し歩いたところで道は途切れていた。
「……行き止まり」
「……リンドウ、ここ来て何するつもりだったん?」
「別に、歩いてみたかっただけ」
リンドウとしては複雑な気分だった。何度も着いてこなくていいと言ったのに。いつまでもズルズル後を追ってくるからこうして無駄に時間を潰す羽目になるんだ。……という意地悪な気持ちが半分。残り半分の心はやはり「すまないな」と思っていた。短くはない散歩に付き合わせてしまっている。
しかしやはり彼は「ふーん」と言ったきり特に残念がる様子も呆れた様子も見せなかった。それどころか、
「なんか面白いね、こーゆーの」
としみじみ呟いていた。
「な、リンドウ、来た道帰るのもつまんないし公園から海出れるっぽいし、行ってみない?」
「いいけど」
行き止まりの道から方向転換し、彼らは海へ出る細い道を辿り始める。
「リンちゃんって呼ばれてんの、やっぱ可愛いね」
「うっせ」
まだ引っ張るつもりか、とリンドウは軽く睨む。先ほどから会話の合間にリンちゃんリンちゃんと綽名で呼び掛けられていた。ムキになって否定したらますます面白がるだろう。流していればそのうち言わなくなるかもしれない。そんな一縷の希望はやっぱり儚い希望でしかなく、覚えてしまったらしいフレットはしまいにはリンちゃーん、と語尾を長く伸ばし始めた。完全に遊ばれている。
「マジでクラスでそれ言うなよ?」
「いーけどさ」
じっとりとしたリンドウの視線を気にかける様子もなく、フレットはつらつらと続ける。
「クラスでも今みたいな感じの方が、ずっと話しかけやすいと思うんだけど。……今のリンドウ、いつもと違って凄く面白いし話しやすい」
「面白くなくていいし」
「それ寂しくない?」
寂しくもないし、変える気も湧かない。クラスでの彼は意識的に掴み所のない笑顔を貼り付けていた。それは友達の輪を広げる助けにはならないと知っていたが、それで構わないと開き直っている。人気者であることはそれなりに気を使うのだろうし、いわゆる「弄られキャラ」というのは尚更そう。危険すら伴うポジションに陥るよりは、日陰でもなく日向でもない曖昧な立ち位置で誰の気にもされず、空気のように振る舞っていた方が楽だと知っていた。
「別に?」
それを聞いたフレットは実に複雑そうな表情をした。嬉しそうにも見えたし、残念そうにも見える。
「それじゃあさ、リンドウのそういう可愛いトコ知ってるの、俺くらいしかいなくなるじゃん」
「可愛いって何」
「今日のリンちゃんスゲー可愛かった」
「男だしそれ言われても嬉しくないんだけど……」
同じ言語を交わしているはずなのに、まるで異国の人のようになかなか真意が通じない。本当に変なヤツだな、と思わず顔が引きつってしまう。
「みんなもリンドウがこんなだったら楽しいと思うけどな」
「もうおまえだけで十分だって」
「俺はいいの?」
「だってどうせ忘れてくれないんだろ?」
どうせな、と諦め半分で軽く見上げるリンドウの瞳に、面白そうに見下ろすフレットの目線が真っ直ぐに合った。午後6時の軽く翳った港湾地帯。東京湾に浮かぶ人工的な明かりが軽く映り込んで、キラキラと光っている。
「忘れないな〜。『リンちゃん』」
「ハイハイ」
「俺だけか。俺だけだね」
そう言って実に楽しそうに、クスクスと笑みを漏らしていた。