Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    限界羊小屋

    @sheeple_hut


    略して界羊です

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 68

    限界羊小屋

    ☆quiet follow

    フレ<-リン FinalDay''のif
    【概要】仲間を失った辛さから幻覚に遊ぶようになったリンドウの話

    ななや様よりタイトルを寄贈いただきました。

    #フレリン
    frelin

    メリーメリーメランコリー**********
    メリーデイズ
    **********

     オレンジティーソーダは夕暮れと同じ色をしている。炭酸水の中に放課後のカフェの活気が映り込み、オレンジ色がその中に染み込んでいる。柑橘の大きな塊がいくつも浮かんだ、黄昏色のそれをそっと啜ると、優しい甘みとともに口の中がパチパチと弾けた。その爽やかさを楽しみながら、目の前で繰り広げられる賑やかな会話を聞き流している。
     学校でも家でもない隙間のような時間。この時間が好きだった。
    『コレかぁ?MKNって奴の新作』
    『さっぱり分からないな』
    『ふむぅ……現代アート、理解するのは難しそうですな』
    『……悪くねぇ』
     かつて「ツイスターズ」で仲間だった6人と俺で、ベンチ際のテーブルを占拠している。テーブルの向こうの4人はビイトさんのスマホを覗き込み、ワイワイと賑やかに騒いでいる。見るともなく見ていると、目の前でひらひらと片手が振られた。その主である友人を見やる。いつもの人懐っこい笑顔でニカっと笑いかけてきた。
    『リンちゃーん?ボーッとしてる?』
    — 別に?
    『放…心…』
    『アレだわ、久々に考査良かったから浮かれてる。そうだよなリンドウ、何点だっけ?』
    — 違うけど。英語で95点。
    『うわ、本当お勉強はできんじゃん』
     反対側の席からハスキーボイスで揶揄われた。
    — 何でトゲある言い方になってんだよ
     ショウカが素直に人を褒めることは少ない。皮肉っぽい言い方が癖になっているのだと思う。次の句を不機嫌そうに継いだのは、意外にもミナミモトさんだった。
    『下らん』
     不機嫌そうに眉を寄せ、フン、と鼻を鳴らしている。
    —すみません……
     数学は75点だった。先程それを覗き込んだ時は『ヘクトパスカルが』と苦々しげに吐き捨てていた。
    『はは、手厳しいな』
     ネクさんが鷹揚に笑う。
    『まだ一年だろ?次頑張ればいいさ』
    『おめぇは高校生やってないだろーが!』
    『そういうビイトは大丈夫だったのか?』
    『……何となくですが、赤点など多かったのでは?』
     図星を突かれたのか、ビイトさんはう、と一言呻いて急にしゅんと小さくなってしまった。

     秋の考査が終わって1週間。主要教科の解答は全て戻されている。前回は手がつかず酷い結果に終わったが、今回は何とか補習の対象外に逃げられた。早帰りできる時はこうして、somedrinksに流れ着いて暇を潰すことが良くあった。ツイスターズの皆もよくここに姿を現す。

    『リンドウ、そろそろ時間か?』
    スマホの時計を確認する。17時30分。
    — あ、そうかもです
    『そうか。俺たちも帰るか』
    『そうだな!そのうちまた集まろうぜ』
    — そうですね
     無言で席を立ち、カウンターに向かう。一人分のオレンジティーソーダの料金を電子決済で支払って、somedrinksの自動ドアを潜る。暖房がよく効いた店内から一歩踏み出した途端に、北の方からヒュウと風が吹いた。コートで覆われていない手首や顔にまともに当たり、刺すような冷たさがちくりと肌を侵す。吐く息も白く凍っている。身震いをして、襟元をきつく締め直した。
    — 寒っ!
    『リンドウ寒いの苦手だもんね〜、あとでマフラー買いにいこっか』
     閉まりきった自動ドアを背にフレットが呼びかけてくる。緩くはだけさせた胸元、ベストの下から覗く白い肌。
    —だな……
    『ま、今日は遅いしこのまま帰ろ』
     コツコツとコンクリートを踏んでショウカが歩き出す。小走りで追いつき、隣に並ぶ。
     帰路を辿った。少女はいつもあの日と変わらない黒猫パーカーを着ている。彼らの服装はそれぞれに似合っているが、変化がない。それはもう変わらないのだと思う、これからずっと。

     仕事終わりには少し早い程度の時間だった。鼠色の雲が刷毛で引いたように長く平べったく伸びていた。その向こうには、焼け落ちるように赤い夕空が広がっている。
     首都高高架下を駅に向かう人はまだそこまで多くない。その中を、影と寄り添うようにして少年が一人歩いていく。

     幻覚を見るようになったのはここ一ヶ月で、同じ頃から保健室のお世話になることもだいぶ減った。
     “時間を戻さない”。そうすることで今ある渋谷を残す — そう選択し、一人きりでRGに帰ってきてからしばらくは「彼らがいない」という事実をうまく受け止めることができずにいた。辛い時期が始まったのはそれから一週間程度が経ち、不在が心に馴染んだ後だった。この世のどこを探しても彼らはいない。学校にフレットはいないし、アプリの中にスワロウさんはいない。「寂しい」というのとは少し違う。喩えるなら、首から上だけが無造作にすげ替えられた人形のような、不気味な違和感。それがじわじわと精神に滲みいってくる。
     最初に覚えたのは憤りだった。この世界は違う、自分で選び取ったとはいえあまりにも理不尽だ — と。それが去ると代わりに喪失感が訪れた。どこまでも続く灰色の霧のような寒々しい喪失感だった。
     見知った友人がクラスから消えた代わりのように、教室の中心には大柄で乱暴そうな男が居座っていた。喚き散らすような声で誰となく話しかけ、振り回すことで空気を支配しようとしているかのように見える。彼は一人で教室の空気をどんよりと重いものにしていた。呼吸がしにくくなる。
     本来であれば自分は空気を読むことが得意なはずだった。悪目立ちする人間に対しては、ことを荒立てず程よい距離を置きながら、適当に話を合わせてウンウン頷いていれば良い。……はずだった。フレットと絡むようになってからはそのペースが崩されていたのだと思う。彼も同じようにクラスメイトの輪の中で朗らかに笑っていたが、その立ち居振る舞いに威圧的なものは少しも含まれていなかった。— 今は違う。いまや、教室を二つの規律が縛っていた。一つには、成績と素行、通知表の数値によってきっちり管理される規律。そしてもう一つには、教室の中心に居座った男が作り出す、阿りと諂いと暴力に基づく規律。
     ずっといると息が詰まりそうになるが、逃げ出すこともできない。
     
     あんなに駄弁ったはずのアプリのやり取りも、無駄に連なったSNSのリプライも、フレットが無理やり送ってくれて保存した二人の写真も跡形もなく消えてしまっていた。綺麗な青い目と整えられた前髪、キラキラ光る幾つものアクセサリー。そんな爽やかな空気を纏った親友は今や俺の頭の中にしか存在せず、脳細胞が死んでいくに従って記憶の輪郭すら曖昧になっていく。それが何より怖かった。
     この世界は俺のいるべき世界ではない。彼らがこの世から消えるならば、俺も同じ運命を辿って消えてしまうべきだった。 俺の記憶からさえ去ってしまう前に、そうしなければ— そんな気がしていた。
     あの日もそんなことを考えながらホームの淵に立っていた。JRのチャイムが、すぐに内回り線がやってくることを告げる。電車はここではない場所に俺を運んでくれるだろう。……実際そうしようと強く思ったわけではない、ただ線路を見下ろしながら、この先はもしかしたら彼らの世界に繋がっているのではないか、そう思っただけ。足を踏み出す妄想に心を遊ばせていた、その時だった。
     背後から懐かしい声がした。
    『行ったらダメだ、リンドウ』
    「……」
     よく似た誰かがいるのだろうか、それとも風の悪戯だろうか。振り返るのが怖かった。
    『俺を置いて行かないで』
    「……フレット?」
     間違えるはずがない。どう聞いても懐かしい友人の声だった。ゆっくりと振り向くと、いつになく心配げな顔でこちらをじっと見つめるフレットの姿があった。死神ゲームの時と全く同じ姿。矢印クロスのピアスが秋の夕陽を反射してチラチラ光る。風が吹くと長い前髪がぶわりと煽られ、輪郭が不安定に揺らいだ。”ない”はずの光景にぐらりと目眩がして、バランスを崩しそうになる。
    『リンドウ危ない!』
     友人が駆け寄り、俺の腕を掴んだ。気がした。あるかないかの感触に現実に引き戻され、後ろ足を踏み直してバランスを取る。
    「わ、悪い」
    『しっかりしろって……なあリンドウ、もしかして行くつもりだった?』
    「線路見てただけだよ、理由とかない」
    『だったらいいけどさ!なんかリンドウ最近暗いから』
    「……アハハ。ちょっと嫌なことが、あって」
     ホームを歩く人々が訝しむような、怪しむような視線で俺を見ていた。大抵はすぐに目を逸らしてしまった。視界が滲むのを人差し指で拭って再び線路の側に向き直り、友人の気配と並んで、やってきた環状線に乗り込んだ。

     それから一ヶ月。
     今は息をするのがだいぶ楽になった。あれからはあまり声を出さず、心の中だけで話すようにしている。
     一ヶ月の間に渋谷を歩き回り、ツイスターズの他のメンバーとも会うことができた。somedrinksやアラディブさんの店やタピオカショップの近くに、彼らはいた。とはいえ、現れる頻度にはだいぶ差があった。ネクさんやビイトさん、ミナミモトさんは会えないこともある。ナギさんはアニメグッズ量販店の辺りにいることが多い。渋谷中で顔を合わせたショウカは、それだけ渋谷のどこにでも着いてきてくれた。過ごした時間が長く、たまに部屋に呼んで遊んでいたフレットは、電車に乗って家に帰りついても尚付き合ってくれた。 — 俺が付き合わせていた。

    「ただいま」
     ガチャリと鍵を閉め、靴を脱いで揃える。父さんも母さんも仕事が遅い日だったので、作り置きを温めて一人で食べるように言われていた。部屋に鞄を置いて、キッチンのコンロの大鍋からカレーを掬う。パックの白飯と一緒に電子レンジに入れてダイヤルを回す。5分後には香辛料の匂いがレンジの中から漏れ出ていた。チン、と鳴った扉を開けてテーブルに皿を運び、手を合わせる。
    「いただきます」
     一人分のカレーライスをぱくぱくと口に運んでいると、テーブルの向こう側から羨むように話しかけられた。
    『いいな、うまそー』
    — 普通のカレールーだよ、これ
    『イイじゃん!家庭の味ーって感じで、俺好きよ』
     リンゴ入ってるやつとか?蜂蜜入ってるやつとか?メーカーで違うんだよなー、と勝手に話を続けている。黙々と咀嚼しながらそれを聞いていると、何でもない量販のカレーもかけがえのない一皿に思えてくる。野菜や肉の風味が移った優しいルーの味。舌に染み入るようなそれを、少し前は「塩気と脂分と甘味」としか捉えることができなかった。— きちんと味と香りを感じられると心がふわりと安らぐ気がする。何が楽しいのか友人はニコニコと柔らかに笑ったままで、俺がカレーを掬っては口に運ぶのを見ながら喋り続けていた。ロフトで見かけた牡蠣カレーの話。ケンさんの店が取材を受けていたニュース番組について。二人でインドカレーを食べに行った日のこと。
     自分はこんなに一人を嫌がる人間だっただろうか。以前は決してそんなことはなかった。今だって別に寂しいとは思っていない。ただ一人でいると余計なことを考えてしまう。学校に行って勉強し、食べて性処理して眠る。その隙間は空々しい会話で埋める。考える暇なくルーチンワークを回す。そうやって時間を潰して慣れられれば良い。
     淡々と咀嚼していたカレーはいつの間にか皿から無くなっていた。
     腹が暖かく、ぼんやりと重い。再び手を合わせて「ごちそうさま」を言い、席を立って皿を湯につける。風呂を沸かして躰を洗い、階上に上がって次の考査に向けた課題を黙々とこなす。加法定理をぶつぶつと繰り返す。 — 咲いたコスモス,コスモス咲いた。コスモスコスモス,咲いた咲いた。そうしているうちに時計の針は11時を差していた。大きく伸びをする。目蓋の裏に、すでに眠気が降りようとしている。
    — 終わった
    『お疲れ、リンドウ』
     何とかまた1日を乗り越えられた。その事実にほっとした。
    『おやすみ』
    — おやすみ。
     目を閉じ、ベッドでじっとして眠りを待つ。

     目が覚めればまた、ベットサイドに腰掛けた幻が『おはよリンドウ』と陽気に声をかけてくれるだろう。また話を交わせれば良いな、と思う。話の行く先がある程度予測できていても、一緒に居られればやはり落ち着く。人によっては悪夢とか病気とか呼ぶかもしれない。でも俺にとっては生きるためにどうしても必要な物だし、夢だとしたら間違いなくいい夢だ。
     このままこうして妄想を抱え込んでずっと生きていくことになるのだろうか。あるいは、いつか妄想を手放して一人で世界に立ち向かうことができるようになるのだろうか。”正しい”生き方は後者なのだと自分でも分かっている。それでも、友人やガールフレンド、かつてのチームメイトを手放して生きていけるイメージは全く湧いてこない。少なくとも、まだ。目を覚ませば手付かずの一日がそこにあり、それを歩ききるとまた次の一日が待ち構えている。乾いた日々が永遠に続く白い道は今の自分にはあまりにも眩しかった。
     まだ木陰で微睡んでいたかった。



    ********
    ハルシオン
    ********
     夢を見た。黒い鳥の夢。
     ポケットの中に仕舞い込んだ赤と黒のバッジの中から黒い霧が吹き出す。霧の一粒一粒はやがて互いに結合し、大きくなり、翼と嘴の形を持って勢いよく羽ばたき始める。燕に似ていた。二羽三羽、やがて百羽二百羽、あっという間に数えられないほどの群れとなって灰色の空を埋めた。そこまで増えるともはや鳥というより羽虫のようにも見えた。
     街が覆い尽くされる。見知ったいくつもの光景、104ビル、ミヤシタパーク、スクランブル。それらが奇妙に歪んで捻れて黒に塗れ、壊れていく。しっかり立っているはずなのに足元がぐらついた。先ほどまで敵意を交わし合っていた、金髪の男の姿が舞い散る羽根に覆われる。秋に舞う黄金色の木の葉のように、光る蝶の残像がひらひらと見えた気がした。その光も黒の中に消えた。
     先輩が、友人が、そして自ら救い出したはずの少女の姿が黒い鳥に喰われ、見えなくなる。助けを求めるように、縋るように伸ばされた手を掴むことも叶わぬまま、バタバタと煩い羽音が全てを飲み込んでいった。耳障りな哄笑がその中を貫き、俺を責める。
     — お前の選択がこれを育てた。
     — お前のせいでこうなった。
     — お前のせいで、全てが失われる。

    「……ッ!!」
     ばさり、と跳ね飛ばした布団の音は鳥の羽ばたきのようだった。それきり部屋は沈黙に包まれ、ハァハァと荒い自分の息だけが空しく聞こえた。背中にじっとりと汗をかいているのに寒気が止まらない。……夢だ。あれはもう終わったことなのだ。あのあと— 俺を陥れた男は光の柱の中に消え、そして元どおりの渋谷のようなものが再び俺の目の前に現れた。空は青く、ビルは高く、人々は笑いさざめいている。彼らが消えたことを除いては、憎らしいほどに普段と全く変わらない渋谷だった。
     敵を廃棄したのだという男は俺に二つの道を提示した。時間を戻すか、戻さないか。ノイズが消えたところで消滅させられた友人たちは二度とこの世に戻らない。過去からやり直そうとすれば、ノイズが渋谷を襲うという事実に再び対峙しなければならなくなる。解決不可能なジレンマの中に陥った俺の耳には人々の笑い声が響いていた。俺一人の我が儘で、彼ら ー 渋谷で息をしている何百人もの人々の幸せを危険に晒すことが許されるのだろうか。 ー 否、と思った。そして俺は黒服の男に告げた。
    「時間は……戻しません」
     そうして、俺一人取り残された。喪失感や無力感と共に襲ってきたのは苦い後悔。時間を戻さない選択をしたことではない。むしろ、その前の世界で無邪気に時間を歪め続けたことが恐ろしかった。あの時ああしていれば。……安易にバッジの力に頼ることを、選択していなければ。
     彼らが消えることはなかったのだろうか。
    『おはよリンドウ、うなされてたね』
    — フレット
     友人の淡い影は机の前に据えられた回転椅子に後ろ向きに座り、こちらを見下ろすように覗いていた。その表情は心配や気遣いというよりも手持ち無沙汰に見えた。10分だけの休み時間、退屈を持て余してどうでもいい話を持ちかけてくるときのような顔。
    『寝れそう?』
    — 寝れなさそう
     ベッドから立ち上がってそのすぐ側に向かい、2段目の引き出しを開けて見慣れた中身をざっと探る。筆記用具。ティーバッグ。青い錠剤。ポケコヨの限定課金カード。それらがきちんとしまわれたトレイの外側には、渋谷で買ったピアスやどこかでお土産にしたキーホルダーがバラバラと散らばっている。
    『お茶にしときなって、昨日飲んでたし。眠れるまで付き合うからさ』
    — ありがと、そうする
     大人しくデカフェのティーバックを取り出す。コーヒーや紅茶は嫌いではなかったが、こうして夜に目覚めることが増えてからは目が冴えないものを買うようにしていた。水が入ったままの給湯器のスイッチを入れて5分後にはピーピーと蒸気が立ち上る。二人分のマグカップに茶葉を入れて蒸らした。一つを机の上に置き、一つを手にとってベッドに腰掛ける。柑橘の瑞々しさが移ったアールグレイの香りが少しだけ気分を少しだけ洗い、ほう、と息を吐くと白く湿った蒸気が口元の辺りから立ち上った。
    『あの夢でしょ』
    — ああ。今でも全然消えないよ
     黒い鳥の羽撃きの音がまだ耳に残っていた。振り払おうと首を振っても、無数の黒い羽根の影が視界の隅に散らばる。
    — アレは俺が時間を戻したせいで生まれたんだ
    『リンドウ、自分を責めんなって』
     蛍光灯の清潔な光の下、深い海を思わせる青の瞳が静かにこちらを見つめている。底無しの海底を抱きながら、海表だけは陽光を反射してキラキラとさんざめいている。手を浸そうとしてもその深さを測ることはできない。たまにそれが怖いと思った。どこまで見透かされているのか分からなくなりそうだった。今だって都合のいい幻覚に遊んでいる自分を見咎められているような気分になってしまう。馬鹿馬鹿しいことに、俺は自分で自分の心を擽り、同じように独りで噛みついている。
    — 俺、もっと正しい選択ができたと思うんだ
    『正しい選択?』
    — アヤノさんを助けるためとか、ススキチに勝つために時間を戻したことはあんま後悔してない。でもレガストのバッジ探した時とか、モトイさんとショウカが戦ってた時とか、もっと上手くやれてればきっとああはならなかった……って、たまに思う
    『そんなん、後からじゃないと分かんないじゃん』
    — なんだけど、今から考えれば全部俺がモタモタしてたのが良くなかった
    『何だって試してみなきゃ分かんないでしょ、リンドウ』
     フレットは呆れた笑みを浮かべた。子供に諭すような優しい声色で言う。
    『間違えるかもしんないけどさー、そん時はそん時だって』
    — それでおまえが居なくなっても?
    『まぁ嫌だけど、みんないなくなるよりはリンドウだけでも残った方がいいじゃん』
    — 嫌じゃ済まないって……俺はまだそこまで割り切れないかな
    『どのみち悩んでどうなるもんでもないでしょ』
    — ま、それはそう
     そう言って紅茶の最後の一口を啜る。入れっぱなしのティーバッグから味が移ったその一口は特段に色が濃く、少し苦いほどだった。
    『どう?眠くなった?』
    — 多分大丈夫
    『そか、良かった』
     悪夢で冷えた躰を紅茶の熱が温めてくれている。胃の辺りが少しだけ暖かくなり、とろりとした眠気が訪れてきていた。二人分のマグカップを手に取り、階下のシンクに一人分だけ流して捨てる。部屋に戻って再び布団の中に躰を滑り込ませた。
    『なあ明日休みっしょ?また渋谷行かね?』
    — 行く。どうせ用事ないし
    『やた!じゃ、10時ハチ公前な』
    — わかった。遅れるなよ
    『リンちゃんこそ、夜更かしで寝坊すんなよ?おやすみ』
     脳裏に響く声におやすみ、と返す。やがて瞼がズンと重くなり、大きな母鳥の翼のような暖かい眠りが訪れた。今度は夢も見ない深い眠りだった。

     この世界には俺の知らない可能性が沢山ある。きっと楽しいことも美しいことも素敵なことも、ある。試してみなければわからないし、全てを試すことはできない。だから出たとこ勝負でそれが普通なのだ。やり直せる方が異常。

     約束を交わした翌朝は幻覚を見ることがなかった。妙なところで設定を守ろうとする律儀な自分の脳に少し呆れるが、待ち合わせに向かうのは嫌いではない。少しだけ、あの頃と同じような気分に浸って不在を忘れることができる。ハチ公前に着いてスマホの画面に目を落としフレットを待つ。10時を5分回っても友人の姿はなかったが、いつものことなのでもう驚かない。むしろずっとこうして待っていられたら良いとすら思う。
     スマホの時計表示が10時7分を示す頃、ようやく昨夜ぶりの陽気な声が俺を呼んだ。それから甘やかな少女の声が続いた。
    『おーはよ!』
    『おはよリンドウ、元気?』
     目線を上げる。黒猫帽子の少女が大きな瞳でこちらを見ていた。その後ろには手を頭の後ろに回してニコニコと笑っている友人と、それから太字で文字がプリントされたシャツを着た丸メガネの女性。
    『昨日ぶりですな』
    — ショウカ?ナギさん?
    『二人も呼んどいた』
    — 来てくれたんだ
    『なんかリンドウ落ち込んでるって聞いたから来た』
    『朝からレガストの限定配布があって、たまたまこの辺りに用事があったのです』
    — ありがとう。ナギさんはもう終わったんですか?
    『この手のイベントは朝イチ勝負と決まっておりまして』
     グフフ、とナギさんは眼鏡に手をやり笑う。
    『さっすが、ガチ勢』
    『ま、揃ったならそろそろ行こか』
     4人で足並みを揃える。特に目的のないそぞろ歩きだったが、とりあえずはタワーレコードの方面に足が向いて、そのまま誰からともなくそちらの方面に向かった。

     祝日の渋谷は相変わらず人でごった返している。
     友人たちと肩を並べてなんとなく歩いているうちにキャットストリートの辺りに辿りついていた。長く伸びる通り沿いにはセレクトショップが点在している。ショーウインドウの中を時折覗き込み、あれがいいこれが似合うと無責任な品評をしながら時間を潰す。その後ろ、足早に原宿方面に向かう4人組がガラスに映り、4人分の浮かれた歌声が耳に届いた。踊り踊るなら東京音頭。花の都の、花の都の真ん中で。
     フレットが小声でそっと話しかけてくる。
    『あれ、ファングッズだよね』
    『某球団ですな』
    『歩いて神宮行くんかな』
    『こっからじゃちょっと遠い……よね』
     4人とも、濃い藍色をベースに角ばった白抜き文字でチーム名が印刷された外套を羽織っていた。同じ藍色の野球帽は少し季節外れにも見える。
    『てかもうシーズン終わってない?』
     スマホを取り出し、検索する。
    — 今日、ファン感謝祭だって。
    『へー、寒そ』
     特に興味があるようでもなくそう呟いて、彼らの行く先をつまらなさそうに見つめている。
    — ショウカ、何でスワロウって名前にしてたんだ?
     何気なく聞いてしまってから、後悔した。自分が知らない問いに彼女が答えるはずがない。しかし友人の驚いた声がその間を埋めた。
    『え!?スワロウさんってショウカちゃんだったの!?』
    『そね』
    『ここに来て衝撃の新事実』
     話が再び堰を破って滑らかに流れ出す。内心でホッとしつつそれを横で聴いていた。
    『いつ話そっかと思ってたけど、最後の日まで結局機会なかった』
    『死神ゲームの途中はリンドウがスマホばっかり見てるから、少しイラッとした時あったな〜』
    『ありましたな』
    — あの時は悪かったって
     他愛無い話をダラダラと続けながらキャットストリートを下り、原宿へ続く交差点に差し掛かった。既に時間は12時30分を回っていた。ハラ減らね、とフレットが伺うように言うと、私もワイも、と同意する声が続いた。自分もお腹が空いたな、と辺りの飲食店を探して見回す。確かこの辺りにパスタとスイーツが売りのカフェがあったと思う。
     思い当たる場所に目を向けると、そこには意外な人物の姿があった。庇を張り出させたカフェレストランの下、長身に黒服の男が看板のPOPをじっと眺めている。
    — ミナミモトさんだ
     俺の驚きにすかさず反応した友人も目敏く彼の姿を見出し、手を振る。
    『あっ!ミナミモトさ〜ん!』
    『トトトトモナミナミモト様っ!!!???』
     嬉しそうな友人と目を回さんばかりの先輩を連れて店の前に駆け寄ると、ミナミモトさんはいつものようにフン、と鼻を鳴らした。
    『ゼプトグラム……何の用だ』
    — いえ別に、近くにきたから飯にしようかと思ってたんです
    『ミナミモトさんもそこ行くんすか?』
    『……』
     ミナミモトさんはPOPを見つめたまま何も言わない。その視線の先には3種のパスタセットと、17時までの限定メニューである秋色モンブランパフェのイラストがあった。ナギさんの丸眼鏡がキラリと光る。
    『ももももしかして、パフェに興味がおありで……』
    『え、意外すぎ』
    『ミナミモトさん結構そういうの好きなんだよね』
    『よかったら一緒に入りませんか』
    『……ケッ』
     つまらなさそうに目を逸らしたが、肯定も否定もされなかった。会えばいつもこんな感じでついてきてくれる。

     店の中に席を取り、最も安いほうれん草のパスタセットを頼んだ。10分後にサラダとパスタとスープが運ばれてきて、それをフォークにくるくる巻き付けて片付けていった。その合間にチラチラとミナミモトさんの方を探る。パフェに取り組む彼の顔はニヤニヤと緩んでいた。
     無骨な手が可愛らしいデザートスプーンを握り、アイスクリームやムースを口に運ぶ。時折その頬が嬉しそうに緩む。少し先にパスタを食べてしまってからは特にすることもなくその様子を見ていた。彼の金色の瞳は遠い昔に絶滅してしまった恐竜を彷彿とさせた。
     ミナミモトさんのことを見ているとたまに辛くなる。俺が数学の宿題を解いていると、時折脇にのっそりと現れてほうほうと覗き込む。サインコサインや簡単な図形問題であればヒントをくれることもあるが、微分積分やベクトル計算となると黙り込んでしまった。 — 俺が知らないことはミナミモトさんにも答えようがないのだ。フレットも俺の知らないブランドのことは話さないし、ショウカも俺の知らないメイクやファッションのことを語らない。
     彼らに不意に黙り込まれると心に鋭い痛みが走る。
     俺が作り出した幻影に過ぎない。浅ましくも、なんとか生き残るために彼らの幻影を作り出し、語らせる都合の良い俺の脳。そこまで考えると、すぐ側から小声で耳打ちする声があった。
    『凝視、してますな』
    — あ、スミマセン
    『いえ、ワイが言うことでもないのですが。 — もしかしてミナミモト様に興味がおありで?』
    — 違います!ってかなんですかそれ
    『麗しい方ですからなぁ』
    『げ、リンドウそゆ趣味あんの?』
    — 違うってば!
     考え事してただけだよ、と誤魔化す訳にもいかず、話が変な方向に引っ張られるのをなんとか回収しようと女子2人相手に攻防を繰り返す。その一瞬の間が生じたとき、向かいに座った人物がぶっきらぼうに呼びかけてきた。
    『ゼプトグラム』 
    — はい?
     答えると、相手はメレンゲの欠片を口に運びながらこちらも見ずに言った。
    『せいぜいてめぇの解を探しな』
     クラッシュ、と楽しげに呟いてメレンゲをガリッと噛んだ。自分が紡がせた言葉だとは分かっている。都合の良い幻を作り出す自分の脳が浅ましく情けなかったが、はい、と素直に答えるほかなかった。

     パフェを食べ終えてしまうと、用事は終わり、とばかりにミナミモトさんは手を振って店の外に消えた。しばらくその場で水を飲んでから一人分の会計を済ませて外に出る。目的もなく明治神宮を巡って神社に手を合わせ、原宿近くの雑貨店を巡って安価なアクセサリーを冷やかした。15時過ぎまでそうして過ごした後女子二人とはいったんお別れになり、引き続き手持ち無沙汰な俺はフレットと一緒にダラダラと渋谷まで歩いて戻った。
     駅前のショーウィンドウに展示されたアウターのセットが目を引き、思わず立ち止まる。そう言えば、冬に向けて防寒具を買おうとしていた。
     隣からフレットが声をかける。
    『シェパハ?リンドウ、好きだったっけ』
    — あんまわかんないけど。この前雑誌で特集やってた
    『リンドウそーいうの見るようになったよね』
    — まぁ買ってる訳じゃなくてサブスクに入ってるだけ
     月額制の電子書籍サービスにファミリーで入会していた。以前はポケコヨの情報か小説、解説本の類しか読んでいなかったが、RGに戻ってきてからは少しジャンルを広げるようにしている。ファッション雑誌、乙女系のゲーム、数学、ストリートスポーツ。等々。友人の不在で拡げられた空白の時間を、それらは少しだけ埋めてくれている。
    『じゃあリンドウさんのファッションチェックタイムにしますか!』
    — おまえほどは詳しくないけどさ
     そう思いながら「シェパード・ハウス2nd」の自動ドアを潜る。店内のラインナップは頻繁に訪れていた夏の頃とは完全に入れ替わり、丈の長いパンツやダウンコートが幅を利かせている。
    — ここ、色が落ち着いてるから俺でも割と選びやすい
    『なるほどねー、リンドウらしいかも』
     そう言いつつ、目当てを探して店内を見回す。入り口にごく近いアクセサリーのコーナーにそれはあった。
    『そっか、マフラー買えばって言ったね』
    — うん
     友人がかつて着けていた薄手のストールと同じグレイ。死神ゲームでバトルを共にしていた頃を思い出す。巨大な獣の姿をしたノイズに何度も斬撃を刻み込み、フレット次頼む、と援護を頼めば彼はすぐに応えてくれた。上空に跳ね上がり雷球の一撃を叩き落とすたび、薄い灰色の布地が翼のようにひらひらとはためいていた。
     その記憶と同じ色のマフラーを手に取る。ウール地の厚手マフラーは指が沈み込むような柔らかな触感だった。裏返して値札を確認する。あの頃であれば2・3回もバトルをすれば苦にもならないような額だったが、普通の高校生に戻ってしまった今では安易に手が出せない価格である。それでも、スマホに残っている渋Payの残額を出せばギリギリ賄える。小遣いの3ヶ月分程度だ。
    — 買おうかな
    『えっマジ!?一見でとか思い切ったね』
    — 探してたし、この色いいなと思って
    『まぁシェパハだし合わせやすいとは思うけど』
    — ……うん、多分冬の間は使うと思うし、今買う
     布地が毛羽立たないようそっと畳んでレジに持って行き、その場で値札を外してもらった。店外でくるりと首に巻き付けて結目を作る。新品のウールが首元に触れ、少しくすぐったい。
    『良いね〜、リンドウそれ似合ってる』
     フレットが自分のことのように嬉しそうに言う。自動ドアに一人映り込んだ姿を見やる。似合っているかは判断し難いが、首元がしっかり覆われていていかにも暖かそうだ。
    『雪が降る前に買えてよかったじゃん』
    — 雪降っても大して変わんないだろ
    『でも雪が降ったらマジで冬って感じしない?』
    — それは確かに
     東京の街に薄く雪が降る季節を思い浮かべる。灰色に曇った空の下、きっと傘も持っていないときに限ってちらほらと雪が降りだす。無防備な頭の上やコートのフードの中、そして首元のマフラーの外側にそれらは薄く積もる。
    『そだ、帰る前にロフト寄ってかね?また変なレトルト売ってたら買ってこ』
     更なる寄り道を誘うフレットに苦笑を返した。
    — 俺は普通のがいいんだけど
    『チャレンジチャレンジ!前行った時は熊肉カレーとか売ってたじゃん?』
     前回同じ場所を訪れた時は北海道フェアをやっていた。熊肉と鹿肉とトド肉のレトルトカレーがそれぞれ置かれていて、どんな味なのかとスマホで調べてみたら「強烈な獣臭」という文字が画面に躍り出た。食べる前から臭いと分かっているならわざわざ試すまでもないと思う。
    — わざわざ変な味がするやつじゃなくて良くね
    『変な味かもしんないけどさ、食べてみなきゃ分からん!』
    — せめてもう少しお手柔らかにお願いします
    『じゃあ牡蠣カレーとかヴィーガンカレーとかでどうよ』
    — その辺なら、まあ。
     っしゃ決まり、食レポよろしくリンドウ、と言う声を聞き流しながらロフトに向かう坂道に足を向ける。北からの風が吹くたびにマフラーがふわりと靡かされ、バタバタと眠たげな音を立てていた。その端を捕まえ、結び直し、冷やされそうな首元を少し強く覆った。


    ***************
    エバーメランコリー
    ***************

     金曜夕方のハチ公前にしゃがみ込んで、行き交う人の群れをただ眺めていた。
     以前であればここで待ち合わせをすることが多かった。それから、死神ゲームの中でもこの場所で目覚めることが多かった。最初は思い出を辿るつもりで足を止めていたが、そのうちにここでぼんやり時を過ごすのが癖になってしまっていた。
     今日も色とりどりの被服を纏った人々が楽しげに往来している。冬が近く、ビルに切り取られた狭い空は既に藍色に向かい始めていた。人々はハチ公前にしばし留まり、待ち人と落ち合い、やがて手に手を取って歩いていく。青褪めた影が目の前に現れては通り過ぎる。じっと止まっているのは自分一人だ。
    『……ナニしてんの?風邪引くよ』
     フレットの長い前髪が風に吹かれ、ふわふわと所在なげに散らされている。それを気にかける様子もなく、腕を組んで心配げにこちらを見下ろしている。
    — 渋谷、見てた
    『それは見たらわかる』
     空虚なやりとりの間を木枯しが一つ、吹き抜ける。渋谷を眺めながら考えていたことを、そっと言葉にする。
    — この渋谷で、本当に良かったのかな
    『良かったも何も、ちゃんと残ったじゃん……自信持てって』
    — みんな、幸せなんだよな……多分
    『そーだよ!渋谷が終わらなかったのだって、リンドウが最後まで戦ったおかげじゃん』
    — そう、なのかな
     未だに答えが出ない問いだった。俺は渋谷を守ることができたのだろうか?違う。大切な仲間を失ってなお「元どおりの渋谷を守った」などとは自分には言えない。しかしあの時、仲間を救おうともう一度やり直したとして、俺はあの悪夢を打ち倒すことができただろうか?もしも失敗してしまったら、今こうして何事もなく歩いている人々をも巻き込んで渋谷を消し去ってしまうことになっていた。それこそ自分の我儘だろう。
     答えのない自問自答できっと永遠に答えは出ない。そう分かっていても自ら問いかけることをやめることができないのだ。
    「またここに居たのか、リンドウ」
     風の中でいつか聞いた声がした。視線を上げる。黒い外套に身を包んだ青年の人工的な微笑が真っ直ぐに俺に向けられていた。胸元に白い鳥のプリントがくっきりと際立っている。
    「……ミカギ、さん?」
    「言わなければ、」
     そのさきの言葉は雑踏と風音に紛れてよく聞こえなかった。スミマセン、と聞き直そうとするとミカギさんは面倒そうに周囲を見回した。
    『言わなければならないことがあるのだが……ここでは話しにくいか』
    「えっ」
     彼の声が頭の中に凛と響く。口を動かすこともないままに彼は言葉を継ぎ、こちらに向けて手を差し伸べた。
    『おいで、リンドウ』
     何を為すつもりかも理解できず、はい?と疑問形の答えを返しつつもその手を取る。次の瞬間、エレベーターで上がるよりずっと強い強烈な浮上感と共に全身が持ち上げられ、ハチ公前の光景が恐ろしい勢いで視界から遠ざかっていく。腹の中のものがせり上がりそうな感覚に思わず目を固くつぶった。
     — 恐る恐る目を開けるとそこは暗い部屋の中だった。すえたような湿った空気、煙草の跡の様な燻された匂い。部屋の中央には白いソファが差し向かいに据えられ、奥には色とりどりの瓶が並んだガラス張りのラックとダーツ台が鎮座している。どんな仕掛けか青いガラス張りになった床には水が張られているらしく、何匹もの小魚が戯れつくように足下に寄り集まっては小刻みに泳ぎ回っていた。
    「ここなら、話がしやすいか」
     涼しげな声が部屋の沈黙を破る。ミカギさんがコツコツと足下を鳴らしながら歩み寄ってくる。座っていい、と促されるに従ってソファの一つに腰を下ろし、向かいに座り込んだミカギさんとガラスのテーブル越しに対峙する形になる。目線を合わせると、無表情だった顔に型にはめたような笑顔が浮かんだ。
    「ここは……?」
    「渋谷の管理者にこの部屋を借してもらっているんだ。僕の好きに使っていい、と」
     渋谷の管理者。この部屋。全くもって分かったことにはならなかったが、説明は終わりとばかりにそれきり言葉を切られたので質問すらできない。取り残された気分で、はあ、と取り敢えずの返答をするとようやく次の言葉が投げかけられる。
    「浄化した新宿を再建するのが当面の僕の役割だが。 — 渋谷に手を貸した後始末をさせられている」
    「後始末、ですか?」
    「そう。残された不協和の浄化や、人々の記憶と状況の整理」
    「記憶と状況の、整理」
    「消滅により不当に消えた要素の埋め合わせだ」
    「……フレットやナギさんやビイトさんのことですか」
    「そうなるね」
     そう言って伸ばした髪を気怠げに掻き上げる。
    「先輩に怒られた。僕は『雑』すぎるらしい」
     埋め合わせ、という言葉が脳裏に反響する。ふと最後に見た教室の光景を思い出した。濁声で常に怒鳴り散らすように話し、威圧感で無理矢理に空気を纏めようとする男がその中心に居座っている。フレットの代わりのつもりだとしたらあまりにも悪趣味な冗談だ。
    「そうですね」
     そう口に出すと、ミカギさんの顔から笑みが消えた。鉱石のように無機質で何の感情も伺えない、空白そのもののような表情。
    「僕にはよく分からない。リンドウには分かるのか」
    「俺にとってはあまり埋め合わせにはなってないです」
    「そうか。……そう、リンドウのことだ」
    「俺?」
     何気なく会話の焦点を当てられ、少しの胸騒ぎを覚える。
    「どういうことですか?……俺も消しに来たとか?」
    「そうではない。代理人を消してしまったら却ってまた怒られてしまうから」
     話が読めないが、筋を辿るなら自分が”代理人”で、彼を”雑”と評した人物もこの状況を把握しているらしい。そこまでは分かっても、やはりこの話が向かう先は読めなかった。それだけに、次の言葉は鋭く俺の胸を刺した。
    「……本来であればあのときリンドウの記憶を消してしまうべきだった」
    「記憶を、消す」
     ミカギさんが肯く。その声は氷床のように冷たく、温度が感じられない。
    「リンドウだけが中途半端に彼らのことを覚えている。それがリンドウを痛めつけている。クボウのことは僕たちの責任で、リンドウが辛い思いをする必要はない」
     何の感情も伴わない平板な声色が、冷たく重い部屋の空気を揺らす。
    「この世界の記憶を受け入れれば、リンドウの問題は解決する」
    「みんなのことを忘れて、全部無かったことにするって……そう言ってるんですか」
    「そうだ。覚えているから辛いのだろう、幻覚を発症するほどに」
    「……それは」
     正しくないが間違っているとも言いきれない。今の自分がかつての仲間の幻に生かされているのは事実だ。しかし、その原因も含めて全てなかったことにできれば。最初から誰もいないこの世界に生きていることになっていれば、根となる苦しみごと全てが解決する。
    「遅れてしまってすまないが、リンドウの記憶を少しだけ消して、新しいものと繋いであげよう。それで楽になれる」
     そう言って、ミカギさんはそのまま真っ直ぐ俺の方へ手を伸ばす。その指先から光の球のようなものが立ち上がっていた。最初は気泡のような大きさでつぶつぶと立ち上がっていたそれが、ビー玉程度に、そしてシャボン玉のようにだんだんと膨れていく。その中に幾つもの光景が浮かび上がってゆらゆら揺れる。なす術もなく、目の前に浮かび上がるそれらの想い出を眺めていた。
     高校初日、席が後ろになったフレットに声をかけられたこと。肌の色は変わらないのに海のような目の色が珍しく、綺麗だなと思って見ていた。
     カレー屋に行ったある日、初めてバッジの力を使って時間を巻き戻したこと。塗り替えられた先の世界で黒猫帽子を被った不機嫌そうな女の子と初めて出会った。
     ヒカリエ前の高架下、ノイズに囲まれていた俺たちを助けてくれた長身の男のこと。その男によく似たキャラクターのグッズをリュックいっぱいに背負い込んだ少女のこと。伝説を装っていたヘッドフォンの兄貴肌と、本物の伝説だという優しげな顔つきの青年のこと。それらが光の粒に包み込まれ、ゆっくりと持ち上げられていくのを見ていると急に胸が痛くなった。鷲掴みにされたように、噛み付かれるように食い込む痛み。激しい喪失感が津波のように心を浸す。
    「や、やめてください!」
     無意識のうちに言葉が漏れていた。ミカギさんが不思議そうな目を向けて俺を見ている。理解を超えた事象に戸惑う子供のような表情。立ち上っていた光が止まる。
    「どうして?覚えているから苦しいのだろう」
    「苦しいです……けど、忘れたくはないです」
     友を失った喪失感だけではない、自分のせいで彼らを失ったのだという罪悪感も原因ごと拭い去ってしまえるのならばその方が良いに決まっている。それでも、それを失ってしまったら自分はもはや自分ではなくなってしまうような気がした。フレットと出会わなかった自分、死神ゲームに参加しなかった自分、ツイスターズのリーダーとしての過去を持たない自分。それは今の自分とは異なる曖昧な世界の住人であり、自らそちら側の世界を選択することは今の自分を否定すること — 自殺にも等しい。
     この世界は俺が選択した、俺自身の世界なのだ。幾つもの可能性の中から選択を繰り返し、その最果ての袋小路としてここにいる。もはや過去の出来事の一部は俺の頭の中にしか存在していない。その事実が動かせないのだとしたら、俺の記憶としてだけでも彼らに存在していて欲しかった。
    「覚えていたところで、彼らをこの世に戻すことはできないよ。それでもいいのか」
    「いいんです……もうこの世界に居ないのだとしても、俺の中ではなかったことにしたくないんから」
    「リンドウの心の中にしかいないのだとしても?」
    「それでいいです」
     声が震えている。この選択が自分にとって苦痛であることを知っていた。それでもいい、ずっと痛みと憂いを伴っても構わないから彼らの存在と共にありたいと願った。
    「俺だけでいいから覚えていたい」
    「そんなものなのか」
    「はい……それにみんながいたから、今の俺は歩けてる」
     心の中に焼き付いた彼らが痩せ細っていかないよう、俺は新しい世界を探り始めていた。興味がなかったファッション雑誌に目を通すようになった。ガット・ネーロの店舗に自分で足を運んでみた。数学は得意ではなかったが、努めて多くの時間を割いて数字の列をなぞった。それは最初こそ単なる延命処置だったが、やがてそれ自体が意味を持ち始め、ぐしゃぐしゃに乱れた見知らぬ世界に道をつけてくれた。
    「……不条理だが、それがリンドウの選択なら」
     ミカギさんが手を下ろし、ふわふわと漂っていた光が完全に消えた。
    「ありがとう、ございます」
     絞り出すように礼を言って顔を上げる。やはりリンドウはよく分からないね、と呟く彼の顔からは先ほどの冷たい無表情が消え、代わりに貼り付けたような笑顔でこちらを見ていた。気のせいでなければ、ほんの少しだけ暖かみのようなものが見出せる気がした。
    「僕はこれからも見届けよう、その行く末を」
     さようなら。そう言ってミカギさんは目を細め、手を振る。その姿が光の柱の中に滲み、見えなくなっていった。

     次の瞬間、もといたハチ公前に一人で立ち尽くしていた。この場を離れた時より少しだけ暗くなっており、駅構内から漏れた光が薄くアスファルトを照らしている。
    『おーう、どこ行ってたん?リンドウ』
     後ろから声をかけられた。振り向くと、少し切羽詰まったようにフレットがこちらを見ていた。
    『急に消えたからマジ焦ったんだけど』
    — 分かんない……どこなんだろ
    『え、カミカクシ?か何か?』
    — そんなもんかも
     何だよそれ、まぁいーやハグれなくて良かったわ、とガシガシ頭を掻いている。いつもと変わりないその姿に目頭が熱くなる。彼は目敏くそんな俺に気づき、ええリンドウ何でそんな涙目!?そんな心細かったん?と少し慌てていた。
     心細かったというか、安心したんだよ。おまえのことも、みんなのことも全部忘れちゃうところだった。まだ忘れてなくて、覚えていられて本当に良かった。 — そんな思いは言葉になるにはあまりに長ったらしく、ただ”何でもないよ”とだけ告げた。
     いつかは忘れてしまうのかもしれない。
     十分な時間が経てば彼らは消えて、俺自身もそんなものがあったことをそこまで思い出さなくなって、新しい世界に心を馴染ませるのかもしれない。むしろその方が健全で、幸せなのかもしれない。
     でも今はまだ忘れたくない。彼らが居てくれるうちに、彼らの痕跡を精一杯自分の中に残しておきたい。いつまでも俺の中に残るように。その痕跡がもたらす痛みや哀しみを引き受けることになったとしても、構わない。
    — フレット、
     呼び掛けようとした次の瞬間。その瞬間のことを、多分俺はずっと覚えていると思う。
     一瞬だけ、温度が変わった風が全身を包んだ。
     緑と塩素と焦げたアスファルト — 夏の匂いがした。それは俺に夏休みや入道雲や風鈴、それからフレットと渋谷を漂っていた日々のことを思い起こさせた。マフラーもコートも脱ぎ捨てて走り出したくなるような眩しい日々。決して戻れない記憶が頬を撫でて通り過ぎていく。まるで、別の世界から吹いてきたかのような風だった。
    「フレット」
     風に紛れて自分の声が耳に届く。風は瞬く間に別の世界へと吹き去っていく。その最後の一筋が、ゴウ、と低くくぐもった響きを立てた。それきり周囲の空気が再び冷たくなり、肌を刺した。
    『どったのリンドウ』
     気づけば友人の気配が心配そうな顔つきでそこにいた。曖昧な夕燈の中で不確かな影が揺らぐ。心の中だけで呼びかける。
    — まだ……そこにいて欲しい
     縋る言葉が夏の向こうに届くことはない。それは分かりきっていた。それでも一人では不安だから、隣で誰かが歩いてくれると感じていたかった。形なく揺らぐ霧のような未来に向けて続く一本の道を、もうしばらくだけでも一緒に歩いてほしい。
     彼は静かに応えた。深い青の目が真っ直ぐにこちらを見ている。
    『いるよ。リンドウが大丈夫になるまで、ずっといる』
    — うん
     安心させるような低い声。俺の大好きな声だった。ゆらりとバランスを崩して冷たい場所に迷い込もうとする俺を引き止めてくれた。くだらない会話を共にして、少しずつ少しずつ、いまだに俺の世界を開くきっかけを作ってくれている。遊んでいたい。まだ、もう少し。
    『寒いしそろそろ帰ろっか!』
    「帰るか」
     北の方から木枯しが吹きつけ、新品のマフラーの端がバタバタとはためく。解けてしまわないようにひと回り首に巻き付けて結び目を作った。首の辺りが柔らかな羊毛に包まれ、日溜りのように暖かい。柔らかな灰色の繊維がまるで自分の毛皮のように皮膚を覆い、吹きつける冷たさから肌の中の温度を守ってくれている。
     黄昏が街を黄金色に染めている。金曜日が静かに終わりへと向かう時間、繁華街へ向かう道は憩いを求める人々で賑わい始めていた。その雑踏に混じるように一歩を踏み出す。いつもの帰り道をなぞるように、夕暮れの光の中へ一人歩き出した。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    💗
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    限界羊小屋

    DONE用語
    <キルドレ>
    思春期で成長が止まり決して大人にならない種族。一般人からは異端視されている。
    ほとんどが宗教法人か戦争企業に所属して生活する。
    <戦争>
    各国に平和維持の重要性を訴えかけるために続けられている政治上のパフォーマンス。
    暴力が必要となる国家間対立は大方解決されたため実質上の意味はない。
    <シブヤ/シンジュク>
    戦争請負企業。
    フレリン航空士パロ 鼻腔に馴染んだガソリンの匂いとともに、この頃は風に埃と土の粉塵が混じっていた。緯度が高いこの地域で若草が旺盛に輝くのはまだもう少し先の話。代わりのように基地の周りは黒い杉林に取り囲まれている。花粉をたっぷりと含んだ黄色い風が鼻先を擽り、フレットは一つくしゃみをした。
     ここ二ヶ月ほど戦況は膠着していた。小競り合い程度の睨み合いもない。小型機たちは行儀よく翼を揃えて出発しては、傷一つ付けずに帰り着き、新品の砂と飲み干されたオイルを差分として残した。だから整備工の仕事も、偵察機の点検と掃除、オイルの入れ直し程度で、まだ日が高いうちにフレットは既に工具を置いて格納庫を出てしまっていた。
     無聊を追い払うように両手を空に掲げ、気持ちの良い欠伸を吐き出した。ついでに見上げた青の中には虫も鳥も攻撃機もおらず、ただ羊雲の群れが長閑な旅を続けていた。
    8396

    related works

    限界羊小屋

    DONEフレリン クリア後世界
    ワンライのテーマ「バッジ」
    バッジ操作デモが彼らの撮影動画だったら?というとこからの発展形
    Forget me not.「リンドウと撮ったやつさ、全部消えてた」
     「死神ゲーム」が終わって2日目の朝。早い時間の教室で、リンドウと一つの机に向き合っていた。机の上に載せたスマートフォンは何も変わらない渋谷の風景を映し出している。
    「フレットも?俺も消えてた」
     同意を返される。全く同じ状況らしい。
     本来ならば動画に映っているのは、コートを風になびかせて鮮やかな斬撃を叩き込む新米サイキッカー・リンドウの姿のはずだったのに。

     撮影会を始めたきっかけはほんのお遊びだった。バッジに念を込めることで「サイキック」が発動し、不思議な力で炎やら水やらを出して自在に操ることができる。サイキック能力を使って襲ってくる動物型の「ノイズ」を撃退する。まるで映画の主人公になったように感じて刺激的だった。試しに虚空に斬りかかるリンドウをスマホのカメラで撮影してみると、特撮を爆盛りにしたSF作品の主人公のようにバッチリ決まっていた。UGに来たばかりの頃はそれが新鮮で、豪華なイベントだなどとはしゃぎながらお互いの姿を撮りあっていた。
    2051

    recommended works