ずっと、一緒に「……今日もいい天気だなぁ」
晴れ渡った空を眺めて、暦はうんと伸びをすると屋根の上に寝転がった。のんびり流れていく雲を眺めて、聞こえてくる家人の生活音や、道を行く人の声に耳を傾けるのが、暦のお気に入りの過ごし方だった。
暦がこの家の守り神としてやってきてから、もうどのくらい経っただろう。昔ながらの建築様式のこの家は、多少傷んだ部分があっても、家人によって丁寧に手入れをされて大切にされている。
屋根の上に据えられている自分たちの本体も、時折梯子をかけて屋根に登ってきては、綺麗に磨いてくれるのだ。お陰で、暦の本体はボロボロになることも無く、綺麗に形を保てている。
親から子へ、子から孫へ。そうして受け継がれても変わらない人の温かさが、暦は大好きだ。
今日は、子どもたちが寝坊したらしい。いつもよりバタバタと騒がしく、オカーサンの、お弁当!という大きな声と、やばーい!と叫ぶ声が入り混じって、とても賑やかだ。
「昨日、遅くまで起きてたもんなぁ」
騒ぎを聞きながら、ひょいと屋根の下を見下ろすと、学生服を着た背中が飛び出してくる。
「気をつけてな〜」
聞こえないのが分かっていても、つい声を掛けてしまう。一応、この家の守り神なのだから、別に構わないだろうと毎日声を掛けていたら、いつの間にか習慣になっていた。きっと、家族というのはこう言う感じなのだろうと遠のく背中をぼんやり眺めていると、隣に誰かの立つ気配がして、暦は思わず眉を顰めた。
「毎朝、飽きないな」
これ見よがしなため息を吐く相手をじろりと見上げると、予想通りの男が立っていた。
「楽しいじゃん」
「暇なんだな、キミは」
長い足を見せつけるように組んで屋根に腰掛けた男は、暦の対である愛之介だ。
「暇なのは、自分だって一緒だろぉ」
もぞもぞと身を起こすと、くあぁと欠伸をする。今朝はすっきりと晴れていて、屋根の上からでもすぐ近くの海がキラキラと光を反射しているのが見える。
今日こそは布団を干したいとオカーサンが言っていたから、喜んでいる事だろう。
ゆらゆらと尻尾を揺らしていると、ぐいと引っ張られて思わず悲鳴を上げた。
「何すんだよーっ!?」
「……ふん」
面白くなさそうに鼻を鳴らすと、愛之介はそのまま立ち上がって、屋根からヒラリと降りてしまう。
「どこ行くんだよ?」
「散歩だ」
「ふぅん、いってらっしゃい」
返事もせずに出て行く背中を見送って、なんだよと唇を尖らせた。尻尾が思わず屋根を叩く。
この家の為にと生まれた時から、暦と愛之介は対として存在している。当時の家人の友人が、守り神となるようにと想いを込めて作り出した一対のシーサーが、暦と愛之介だ。暦にとって親のような存在だが、職人ではなく、作り慣れてもいなかった為に、片方が少しばかり大きく、もう片方がすこしばかり小さくなった。
そのせいなのか、こうして霊体の様に本体から離れて姿を現せるようになった時も、本体そのままに愛之介の方が身体が大きかったが、人型に変化出来るようになった時にその差が顕著に表れた。暦は少年体、愛之介は青年体に変化したのだ。それ以来、愛之介はずっと暦の事を子供扱いして馬鹿にしてくる。
暦としては、長い時を共に過ごす対の存在として仲良くしたいと思うのに、愛之介はいつも素っ気ない。
姿に引っ張られているせいか、どことなく考えが幼い暦の事が気に入らないのだろうか。
昔は同じような琉装を着ていたのに、いつからか愛之介は、人型になる時、家人がシゴトに行く時と同じような服を身につけるようになった。暦には似合わなかったので、仕方なく干してあった子供服と似たような服を身につける事にした。結果として、見た目ではかなりの違いが出てしまった。暦と同じ服を身につけるのが嫌だったのだろうか。怖くて聞けないが、そうだったら悲しいと思う。
最近、愛之介の事を考えると苦しくなってくる。耳と尻尾が元気をなくしてぺたりと寝てしまうのを感じて、このままだとダメだと頭を振ってそんな考えを追い出す。
「……俺も散歩いこ」
ぽふん、と音を立てて人型になると、屋根からぴょんと飛び降りる。基本的に暦たちの存在は人からは見えていないが、稀に勘の鋭い人間が居るので、家の外に出る時はなるべく人型に化けるよう愛之介から言われているのだ。
庭を覗くと、オカーサンがせっせと物干しに布団を干している。なかなか天気が安定せずに布団が干せないとぼやいているのを見ていたので、良かったなーと嬉しくなって、弾むような足取りで門を出る。
どちらに行こうかと道を見渡して、キラキラと光る海の誘惑に勝てず、浜辺に行ける方に向かって歩き出す。
一応家の守り神なのであまり遠くへは行けないが、家を出られない訳ではない。それでも、愛之介に比べると暦はあまり外に出ない。外は時代と共に多くのものが変わり、あれもこれも楽しくて魅力的だ。けれど、やはり暦はあの家が好きだった。賑やかに食事をしているところや、朝寝坊してバタバタしているところ、掃除機をかけている時も、洗濯物を干している時も。人の営みは興味深くて楽しくて、時に悲しい別れもあるけれど、どれだけ眺めていても飽きる事はない。
逆に、愛之介は家に居たくないのか、最近はすぐにふらりとどこかへ行ってしまう。
どれだけ飽きないと言っても、人に認識してもらえない暦としては、話し相手となってくれる愛之介は貴重な存在だ。それなのに。
「……あーっまた考えてる!」
考えない、と思っているのに、つい考えてしまう。
人型になってもつい出てしまう尻尾をぶんぶんと勢いよく振って、あーもうっと叫びながら浜辺へ向かって道を全力疾走する。どうせ人には見えないのだから、多少叫んでも問題ないだろう。
風をきって走っているうちに、だんだん清々しい気持ちになってきた。頭もすっきりして、楽しくなってくる。夢中で浜辺まで走ると、いつの間にかそこには広場が出来ていて、暦の見た事がない大きなものが沢山置かれている。
「……公園、かな?」
以前、オカーサンとまだ幼かった子どもが出かける時に、後を付いて行ったことがある。あの時は、確かユラユラと揺れる物や、よじ登って遊ぶ物、高いところから滑って遊ぶ物があった。それよりもシンプルで大きいが、これを使って人が遊ぶのだろうか。
興味を惹かれて、そこに足を踏み入れる。
よく見ると、置かれているものは坂道のように傾斜があって、これを駆け上るのだろうかと見上げた時だった。聞き慣れない音が後ろから近付いてきて、何かと振り向くと板に乗った少年が滑ってきた。
軽い動きで板から飛び降りると、暦の見上げていた物にひょいと登り、その板を足の下に構えたかと思うと、勢い良く滑り降りる。
「あぶなっ」
慌てて避けるが、少年に暦は見えていない。そのまま勢いを殺さずに反対側の坂に突っ込んでいく。
「ちょ……っ!?」
ぶつかる、と思わず声を上げたが、少年は怯まずに勢い良く坂を板で上っていくと、そのまま飛んだ。
「……っ」
ふわり、
まるで、時間が止まったような、一瞬。
太陽を遮るように、重力を無視して飛ぶ少年に、暦は目を奪われた。
******
「……っとにかく!凄かったんだよ!ふわって!ふわって!」
「……いつまでその話をしてるんだ」
「だって!凄かったんだ!」
あの後、どうやって家まで戻ってきたのか。気付いたら、ぼんやりといつもの屋根の上に座っていて。目の前で、愛之介が手のひらをひらひらと振っていた。
その手を握って、凄かった!と叫んだ暦に、愛之介は物凄く面倒なものを見る目をしたが、生憎聞いてくれるのは愛之介しか居ない。逃がさないと手を繋いだまま、辿々しく、けれど勢い良く話す暦に適当な相槌を打ちながら、それでも愛之介が珍しく付き合ってくれるのが嬉しくて、暦の気分は急上昇していく。
「あんなに綺麗だなって思ったの、初めてだったんだ」
興奮して、ほうと息を吐いた暦に対して、愛之介は眉を顰めたまま、何か言いたげな顔で暦を見ている。
「……そうか」
「うんっ」
頷くと、そうか、ともう一度だけ繰り返して、暦の手を解くと、もう良いだろうと自分の本体のある方に行ってしまう。それが寂しくて、暦はその後を追う。
「なぁ、愛之介」
「……なんだ。僕は眠いんだが」
「う……いや、その」
じろりと見られて、用があった訳では無かった暦は言葉に詰まる。
「……えぇと、たまには一緒に寝たいなぁ、とか?」
「……は?」
最近は本体に戻って別々に寝るのが当たり前のようになっているが、顕現したての頃は、一緒に丸まって寝ていたのだ。普段は素っ気なく断られてしまうが、今日ならば聞いてもらえるのではないか。腕を引いて見上げると、驚いたような顔をした愛之介と目が合う。
「……だめ、かな」
「……好きにすればいい」
深い、それは深いため息を吐いて、愛之介が折れた。屋根に座ると、ほらと腕を広げる。嬉しくなってそのまま腕の中に飛び込むと、ごろりと一緒に屋根に転がる。実体がある訳ではないから天候や気温に左右されることはあまり無いが、それでもこうして愛之介と一緒に居ると、ぽかぽかと温かい。
ぎゅ、と愛之介に抱きつくようにすると、宥めるように頭を撫で、それから背中をぽんぽんと軽く叩かれる。昔、よくこうされていたなと思い出して、ついでにオカーサンが子どもを寝かしつける時に同じことをしていた事まで思い出して、複雑な気分になる。
同じ日に生まれたはずなのに、どうしてこうも子ども扱いされるのだろうか。
「……愛之介はさぁ、」
「……なんだ」
寝てしまっただろうか、と思いながら名前を呼ぶと、意外にも反応が返ってくる。今日は機嫌が良いのだろうか。
「いっつも、どこ行ってんの?」
「……適当に、その辺りを歩いてるだけだ」
「なんか、気に入ってる場所とか、ある?」
「……さぁな」
「なんだよ、教えてくれたっていいだろ?」
「……秘密だ」
「けち」
「……寝ないなら、戻るが」
「寝る!寝るから!」
本体に戻ると言われて、それは困ると慌てて目を閉じる。そうすると、また頭を撫でられた。
いつもより少しだけ長く話せた上に、こうして一緒に居てくれるのだから、これ以上を望むのは我儘かもしれない。
「……あいのすけの好きなもの、知りたいのにな」
頭を撫でられるのが心地良くて、うとうとと微睡みながら、ぽろりと本音がこぼれ出る。
昔はあちこち一緒に連れて行ってくれたのに、最近は一人でどこかに行ってしまう。連れて行ってと言って、断られたらと思うと怖くて口にする事も出来ない。
自分と対の存在。ずっと一緒のはずなのに、最近はなんだか遠く感じる。
「……さびしい」
眠りに落ちながら呟いた言葉が愛之介の耳に届いたのか、それを確認することは出来なかったけれど。頭を撫でる手は、いつの間にか止まっていた。
******
ふと、何かが唇に触れたような気がして、目が覚めた。んん、と唸りながら重たい瞼を擦って起き上がりながら、昨夜は本体に戻らなかったのだったかと人型のままの手のひらを見下ろして、ぼんやり辺りを見回す。
「……あいのすけ」
見回すと、昨夜一緒に寝たはずの愛之介は既に居なかった。本体にも戻っていないのは、気配で分かる。
「……また、置いてかれたんだ」
昨日は、久しぶりに昔に戻れたようで嬉しかったのに。やはり、嫌だったのだろうか。膝を抱えて蹲って、じ、と目元が熱くなるのを堪える。
暫くそうしていると、落ち着いてきたのか朝の騒がしさが耳に入ってくるようになって、暦は顔を上げた。今日も寝坊したのか、慌てて駆けていく背中をぼんやりと見送って、自分も屋根を降りて外に出る。
今日は少しだけ雲が厚くて、雨が降るかもなと思いながら、なんとなく砂浜に向けて歩を進めた。
――また、来てるかな。
綺麗に飛ぶところが、また見たい。あんなに綺麗に飛べるなんて、本当にすごいと思うのだ。
けれど。
本当は、愛之介にも見てもらいたい。
だって、すごく綺麗だったから。胸が熱くなって、すごくドキドキした。愛之介も、きっと驚くだろうと思うのに。
「……また、愛之介の事考えてる」
胸がぎゅうと締め付けられて、苦しい。息をしているのも辛くて、しんどくて。
どうしてこんな気持ちになるのか、分からない。
対だから。一緒に生まれたから。他に話し相手になってくれる存在が居ないから。それだけなのに。
――それだけ、だよな?
自分でもよく分からない感情がぐるぐるとして、うまく吐き出せない。それが無性に気持ち悪くて、何とかしたいのにどうして良いか分からない。
のろのろと歩いて、ようやく昨日の公園まで辿り着いたが、昨日の少年は居なかった。
――高く綺麗に飛ぶところを見たら、気持ちがすっきりすると思ったのに。
坂のような形をした物は、高いけれど屋根ほどじゃない。ひょいと飛び上がって、縁のところに着地した。こうして見下ろすと、普通の坂道よりもずっと急で、ここをあの板で降りたのかと思うと、やはりすごいなと胸が弾んだ。
縁に腰を下ろして、ぶらぶらと両足を揺らしてみる。揺らすたびに踵に固い感触が当たるのが楽しくて、コンコン、とんとん、と当たる場所で音が変わるのを楽しむ。何となく刻んでいたリズムが段々馴染んだ調子を刻み始め、それに合わせてふんふん、と鼻歌を口ずさむ。これは確か、朝によく流れている歌だ。オカーサンと観るやつだったと記憶している。
愛之介は鼻で笑っていたが、簡単で覚えやすいメロディと歌詞を、暦は気に入っている。
ふんふん、コンコンとん、ふんふんふーん、コンとんとっ、
飽きるまで、記憶にある歌をいくつも口ずさんでいると、段々気持ちも上向いてきた。
今日は少年も来ないようだし、そろそろ帰ろうかと降りようとして、身体に上手く力が入らない事に気が付いた。
「あれ?」
ふらついた身体を支えようと手をついて、自重を支えきれずに横に倒れ込んだ。
「……あれ?」
焦って起き上がろうとするのに、やはり力が入らずに起き上がれない。
「な、なんで……!?」
右肘を支えにして、左手で身体を起こそうとしてみるが、そのまま倒れ込んでしまう。その拍子にぽん、と変化が解けてしまった。
理由の分からない不調に混乱していると、ぽつ、ぽつ、と目の前の縁の色が濃くなっていく。
「あめ……」
どうしよう。どうすれば良い。このままでは、家に帰れなくなってしまう。家に帰れなければ、自分は、もしかしたら。
――消えちゃう、かも。
顔から血の気が引いていくような、体中から完全に力が抜けてしまうような、そんな恐ろしさがじわじわと這い上がってくる。
暦がここに居る事は、愛之介も知らない。万一探してくれたとしても、見つからないかもしれない。
――どうしよう。
力の入らない前足を何とか動かそうとしても、ぴくりとも動かない。
そうしているうちに、雨粒はどんどん大きくなって、縁の色は完全に濃く変わってしまった。
雨に打たれたところで影響はないが、それでも動けない事に対する不安は膨らむ一方だ。時間をおけば動けるようになるのか、それも分からない。
――こんなの、初めてだ。
最近、ずっともやもやして気持ち悪かったのが、不調として表れてしまったのだろうか。
じわり、視界が歪んで、目元が熱くなる。
――帰りたい。
自分は、あの家の為に存在しているのだ。こんなところで、誰にも見つけてもらえないまま消えるなんて、絶対に嫌だ。
「あいのすけ……」
自分の、対。半身。大切な存在。
彼に気付かれないまま消えるなんて、そんなの、嫌だ。
――会いたい。
「――こんなところに居たのか、ばかもの」
聞き慣れた声がすぐ近くでして、ぱちりと目を開く。
坂の下、横たわる暦を見上げるようにして、愛之介が居た。
「あいのすけぇぇぇ」
情けない声だと分かっていても、思わず声が出た。何をしていると問われて、動けないと告げると、愛之介は眉を寄せながらも小さな体を両手で掬うようにして抱え上げ、そのまましっかりと両腕で抱えなおすと、短く「帰るぞ」と告げた。
――帰れるんだ。
愛之介は公園を出ると、家に向かう道をゆっくりと進んでいく。家に帰れるという安心感と愛之介の体温を感じて、ゆらゆらと揺れる心地良さにゆっくりと目を閉じた。
******
「調子が悪いなら、じっとしていろ」
目を覚まして一番、呆れたといった様子の愛之介に言われて、暦は心から反省した。
「……ごめん」
「……まだ、力が入らないのか?」
「……さっきよりは、動ける気がする」
もぞもぞと愛之介の腕の中で動いてみるが、そこから飛び降りるほどの力はない。
辺りを見回すと、見慣れた屋根の上で。通り雨だったのか、すでに晴れ間がのぞいている。帰ってこれたのだと安心して、ほうと息を吐いた。
「……なんでだろ」
愛之介に抱えなおされながら、首を傾げる。力が抜けていくような感覚は消えたが、そこから戻る様子がない。
「……何か、負担になるようなことがあったんだろう」
「ふたん……」
何かあっただろうかと思い返して、ちらりと愛之介を見上げる。
「言いたいことがあるなら言え」
「……別に」
「い、え、」
「いひゃい」
ふにふにの頬を横に引っ張られて、愛之介が笑顔で圧をかけてくる。一応文句を言ってみるが、言わない暦が悪いと分かっているのであまり抵抗も出来ない。けれど、これが子どもっぽい我が儘だというのも流石に分かる。
またバカにされるのではないかと思うと、どうにも言いにくい。
「良いから、言ってみろ」
「……怒んない?」
「聞いてから決める」
「うぅ……」
言いたくない、と全身で訴えてみるが、良いから言えと鼻を押されて、変な声が出た。この様子だと、言うまでこうして意地悪をされるのだろう。仕方ないと、暦は恐る恐る口を開いた。
「……その、最近、愛之介がよくどこかに行くだろ」
「ああ」
「でも、教えてくれない、だろ?」
「……ああ」
「今朝も、起きたら、居なくて」
「……」
「俺たちは、対なのに。最近、なんだか、愛之介が遠く感じて」
「……それで?」
「……さびしいなって。なんか、もやもやってして、ぎゅってなって、苦しくて」
段々、愛之介の事を見ていられなくなって視線が下がってくる。きっとまた、呆れた顔をしているのだろう。最近の愛之介は、呆れているか、眉を寄せて怒っているか、どちらかだ。
――なんだか、また悲しくなってきた。
改めて音にしてみると、幼い子どものような言い分で、そんな事が理由で調子を崩したのかと思うと、情けなくて仕方ない。こんな有様だから、愛之介に子ども扱いされるのだと、悔しいけれど納得した。
「……ごめん」
「何故、お前が謝るんだ?」
「だって、子どもみたいだ」
「まあ、確かに幼いとは思うが」
そ、と背中を撫でられて、ぴこりと耳が立つ。見上げると、怒っているような、笑っているような表情の愛之介が、暦を見下ろしていた。
「……怒らないの?」
「別に、怒る理由がない」
ゆっくりと繰り返し撫でられて。その手つきが優しくて、何故だか泣きそうになる。
「……まぁ、僕も少し大人げなかったとは、思う」
「え?」
「こちらの話だ」
暦に聞こえるか聞こえないかといったボリュームで呟いた愛之介は、徐に暦の脇に手を差し込んでひょいと抱き上げた。暦の顔と愛之介の顔が同じ高さになって、久しぶりに愛之介の顔を正面から見たな、と、場違いな感想を抱く。暦の夕焼け色の瞳と対になる朝焼け色の瞳が揺れて、綺麗だなと思う。
ちゅ、
「……へ?」
と、不意にその朝焼け色が近付いてきて、気付けば唇に温かいものが触れていた。思わず間抜けな声が漏れた暦に、愛之介が笑う。
「君が、そんなに僕の事を好きだとは思わなかった」
「え?」
「僕たちは、晴れて番というわけだな」
「つがい!?」
対ではなく!?と驚く暦に、何を言っているんだと愛之介が暦のふわふわな身体を愛おし気に抱きしめる。
「対であり、番、だろう?」
聞いたことがないような甘い声音でそう言われて、ただでさえ状況についていけてなかった暦の頭は真っ白になった。
番、というのは、つまり、オトーサンとオカーサンのような関係という事だ。
そもそも、暦は愛之介の事が好きなのだろうか。寂しいと思うのは、愛之介が好きだからなのだろうか。
「う、ううぅぅぅ」
ぷしゅう、と頭から煙を出しそうな暦を見て、呆れたように笑う愛之介は、けれどいつもより温かい。
「まあ、焦る必要はない。ゆっくりと考えればいいさ」
時間は沢山あるからな。
呟いて、暦を縦抱きに抱えなおすと、子どもをあやす様に頭や背中を撫でてくる愛之介に、どこか誤魔化されているような気はするものの、つい尻尾が揺れてしまう。
「……愛之介は、俺の事嫌なんだと思ってた」
「それは……いや、誤解を招く言動があった事は認めよう」
「……嫌いじゃないってこと?」
「まぁ、そうだな」
「なんだよそれぇ」
愛之介の言動で、暦がどれだけ悩んだと思っているのか。前足で愛之介の頬をぐいぐいと押して抗議すると、悪かったと思ってると謝罪とは思えない謝罪が返ってきた。やはり納得はいかないが、尻尾が揺れてしまうのを抑えられないのが悔しいところだ。
「君は……暦は、どうにも情緒が幼いから、言っても仕方ないだろうと思っていたんだ」
「……幼くない」
「どうだか」
混乱している現状を思うと愛之介の言う事も尤もなので、あまり強く言えない。けれど、やっぱりいまいち納得がいかない。
いかないけれど、それよりも気になる事がある。
「じゃあ、愛之介はずっと一緒なんだよな?」
首を傾げて問えば、愛之介は僅かに目を見開いた後、じとりとした目つきをして暦の鼻を押した。びゃ、と声を上げた暦を笑って、横抱きに抱えなおすと、その背中に顔を埋める。
「そうなるな」
押された鼻が潰れてない事を前足で確かめて安心するが、今度は背中に感じる感触が擽ったくてもぞもぞと身動ぎしてしまう。動くな、と項の辺りを柔く噛まれて、ぴゃっと声を上げた暦に、愛之介が笑ったのが吐息で分かった。
「なにすんだよーっ」
「暴れるのが悪い」
「だって、擽ったいし」
「感度が良好で、なによりだ」
「何の話?」
「こっちの話だ」
余裕を感じる愛之介の対応は、やはり面白くない。少しだけ戻った元気でじたばたと暴れて愛之介の腕から抜け出すと、そのまま愛之介の胸に前足を置いて涼し気な顔に近づき、高く整った鼻を齧ってやった。
「……やったな?」
獰猛な笑顔を浮かべて変化を解いた愛之介に、思いっきりやり返されたのは、余談である。