欲しくて仕方のないもの 『明日、ちょっとでいーんだけど会えない?』
そんな連絡が入ったのは、クレイジーロックに関する保守作業を終え、そろそろ休もうかとしていたタイミングだった。
スケジュール帳を見て、夜であればまとまった時間が空けられる事を確認し、簡潔に返信を送る。
業務連絡の如き簡潔さに、我ながらもう少し言葉を添えるべきだったかと悩むが、それよりも気が急いてしまったのだと思うと、年上の癖に余裕が無いなと苦いものを噛み締めてしまう。
宛先である少年から明確に日程の希望がくるのは、珍しい。大体はどちらかが空いてる日をいくつかあげて、その中で都合のつく日をどちらかが返信するのがいつもの流れだ。
それは、学生と社会人であるお互いの生活リズムや環境が合わなかった為に出来上がった流れであり、何かと多忙な忠に合わせて少年が気を遣った結果でもあるので、忠が少しばかり負い目に感じている部分でもある。
けれど、そんな負い目からそっと目を逸らして、少年の好意に甘えるのは、少年――暦――が喜ぶからだ。喜ぶと言うのは正確ではないかもしれないが、年上である忠に頼られているような気がして、悪い気はしないのだと言う。それとなく聞いた際に照れ臭そうにはにかんで答えた少年に、それならばと忠もそこに関しては遠慮する事をやめたのだ。愛情表現があまり得意ではない自分が暦を喜ばせる事が出来る、数少ない事なのだと思えば、悪くない気がした。
そんなやり取りを思い返して、やはり翌日を指定してくるのは珍しい事だと考えていると、スマートフォンが着信を知らせた。ディスプレイに表示された名前に、反射で指を滑らせて応答する。
『――もしもし?』
「……ああ」
自室からなのか、普段より抑えられた声が忠の鼓膜を震わせる。聞き慣れた掠れ気味の声に微かに鼓動が跳ね、それを隠すようにいつも通りを装って返事をすると、ほ、と息を漏らす気配がした。
『遅くにごめん。今へーき?』
「問題ない」
暦に釣られるように声を潜めながら返せば、あのさ、とどこか落ち着かない様子の声が切り出した。
『明日、忠さんのとこ行っていい?』
暦が言っているのは、セーフハウスとして忠が個人的に契約しているワンルームマンションの方だ。最近は、もっぱら彼と会う時に利用する事が増えている。
「問題ない。鍵はいつもの所にあるから、先に到着した時は使ってくれ」
『……ん、分かった』
いつもより歯切れの悪さを感じて疑問を抱くが、聞いて良いものかも分からない。何か言いたいことがあるのだろうかとそのまま待ってみるが、どうにもはっきりしない。
「……明日は学校か?」
『え?あぁ、うん。そう』
「そうか、あまり夜更かしはするなよ」
『大丈夫だって』
「授業中に寝不足を取り戻そうとしないように」
『……はーい』
図星なのか、少し詰まった後に渋々返事をしてきた暦に、思わず口元が緩む。そういう素直な部分が、どうにも可愛くて仕方ないのだと言ったら、一体どんな反応をするのだろうか。
そんな事を考えながら、それじゃあ明日、と通話を切り上げようとすると、あ、と暦が声を漏らす。
「……どうかしたのか?」
『えっと、いや……なんでもない。おやすみ』
「ああ、おやすみ」
結局、はっきりしないまま通話を終わらせてしまった暦に内心で首を傾げつつ、明日の時間を確実に確保する為にスケジュールを組み直す。後日幾らかのしわ寄せが来たとしても、主人に影響が出なければ問題ない。多少無理をしてでも、忠にとっては少年との時間を確保することが最優先なのだ。
若くて未来のある少年には、いくらでも選択肢がある。自分という存在と付き合う事で、その時間や選択肢を奪っているような気になる事もあるが、それでも望んでしまったのだから、仕方ない。
付き合うと決め、恋人という形に納まるまでに、そういった事は散々悩みとおしたのだ。完全に振り切れた訳では無いが、そんな暇があるのならば、少しでもその時間を少年の為に充てたいと思う。
我ながら、随分と入れ込んでいると思う。こんな風に、主人以外の誰かの事を思う日が来るなんて、思ってもいなかったというのに。おかしな出会い方をしたのに、面白い縁もあるものだ。
タブレットを充電器にセットして、ひと息つく。明日の起床時間を考えると、そろそろ身体を休めなくてはならない。夜の予定を考えると少しばかり落ち着かない気分になるが、少年との時間を体調不良で迎える訳にはいかないと、寝支度の為に立ち上がった。
******
「――すまない、遅くなった」
予め伝えていた時間より、一時間以上遅れて玄関の扉を開けた忠を、お疲れ、と笑って暦が出迎えた。
「むしろ、もっと遅くなるかと思ってた」
「いや、流石にそれは……退屈ではなかったか?」
「メンテナンスしてたからへーき。っていうか、ちょっと散らかしてた」
「それは構わない」
短い廊下を歩いて、すぐに部屋に入る。ワンルームなので簡単な寝具や冷蔵庫など最低限の家具が置かれているだけの部屋だが、今はフローリングの床に汚れ防止のビニールシートが敷かれていて、見覚えのあるデッキと工具が広げられていた。
それを慌てて、けれど手早く片付ける背中を眺めながら、不思議な気持ちを抱く。この部屋に自分以外の誰かが居るという状況に、まだ慣れない。慣れないけれど、この広くはない部屋で自分以外の気配がする事に、少しの違和感と、気恥ずかしさと、温かさを覚えるのは、悪くないとも思える。
――本当に、不思議だ。
空いたスペースにカバンを置いて、スーツの上着を脱ぐと、ハンガーにかける。ネクタイを僅かに緩めていると、視線を感じた。ちらりと暦を見ると、こちらを見てぼんやりとしている。どうしたのかと首を傾げると、はっとしたように慌てて動き始めた。そのどこかぎくしゃくした動きに疑問は残るが、まあ良いかと手を洗っていると、あ!と大きな声が上がる。
「なぁ、晩御飯食べた?」
「いや、まだだ」
「良かった!」
忠の隣にやって来た暦がほっと息を吐いたのを見て、また首を傾げる。
「忠さんは座ってて!」
「……分かった」
意図は分からないが、ぐいぐいと背中を押されて、ベッドに腰かける。ビニールシートは片付けられて、見覚えのあるラグとローテーブルがいつも通りの配置に戻されていた。
キッチンを見ると、見慣れたパーカの後ろ姿が冷蔵庫を覗いて何かをしている。
この部屋には調理器具を殆ど置いていないので、食事をするのなら大概弁当を買ってくるか、出前を頼むようになる。とすると、何か用意をしてくれていたのだろうか。
「じゃーん!」
暦が得意げに出してきた料理に、忠は思わず目を見開いた。皿もない事を知っていたからか、紙皿に乗って出てきたのは、唐揚げにフライドポテト、サラダに切り分けられたバゲットと、ちょっとしたパーティのようなメニューだった。
「あと、これな」
紙コップに入れられて出てきたコーンポタージュは、先ほど暦がお湯を注いでいたレトルトのものだが、ほかりしたと湯気が温かい。
「これは、すごいな」
「だろ?っていっても、大体買ってきたやつなんだけど」
「用意してもらってすまなかった。後で代金を教えてくれ」
「いーよ、今日は俺がご馳走するから」
「いや、そういう訳には……」
仮にも年上である自分が、学生である暦に負担をかける訳にはいかないと言葉を重ねようとすると、あーもう、と暦がかぶせてくる。
「いーの!今日は忠さんが主役だから!」
「……主役?」
「そうだよ!なんで主役に奢らせんだよ、訳わかんねー」
「……主役?」
思いがけない単語を思わず繰り返していると、え、と暦が戸惑った声を上げる。
「もしかして、気付いてない?」
「何をだ?」
何かミスをしただろうかと首を傾げると、頭が痛いとばかりに暦が額に手を当てる。
「……マジかー」
「すまない、私は何か失念してしまっただろうか」
以前、約束した事を忘れているとしたら、それは恋人としても大人としても失格だと内心で焦るが、暦はなんど言えない表情で首を傾げる。
「いや、まあ、うーん……なぁ、今日何月何日か知ってる?」
「一一月二二日だな」
「うん」
「……良い夫婦の日、だったか?」
「そっちじゃねーよ!」
思わず突っ込んできた暦に、では何だと記憶を掘り返す。確か、ボタンの日、回転寿司記念日、ペットたちに感謝する日……そういえば、先ほど愛之介様から何か小さな包みをいただいたが、まさかそれだろうか。愛之介様は兎も角、暦とは恋人のつもりだったが、違ったのだろうか……。
思わず長考してしまったらしい、暦が段々と怪訝な表情を浮かべ始めて、内心で酷く焦る。が、焦れば焦る程何も浮かばなくなってきた。
こちらを僅かに見上げるようにしている様は、こういっては何だが可愛らしい。言ったら怒られるだろうと思うと言えないが、蜂蜜色をした瞳は好きな事を話している時はキラキラと明るい色をしているのに、お互いの体温を分け合っている時はぐっと濃く、とろりと蕩ける。その変化は、きっと忠しか知らない。密かに気に入っている部分だ。
いつの間にか違う事を考え始めている忠に気付いているのかいないのか、暦が眉を顰めた。
「なぁ、マジで忘れてる?それともジョーダン?」
「……ヒントを貰うことは」
「ヒントは今日の日付だよ!あと料理!他に何があんだよ!?」
嘘だろ!?と信じられないものを見たという表情を浮かべた暦に、自分は一体何を忘れているのかと考える。日付と、パーティのような料理。プレゼント。
「……あ、」
「わかった?」
「もしかして、私の誕生日……?」
「もしかしなくても、あんたの誕生日だよ……」
疲れたようなため息を吐かれて、心から申し訳ないと思う。
「しかし、君はどこで私の誕生日を……?」
「愛抱夢に聞いた。昨日」
そういえば、昨日はSの開催日だった。最近の主人は、暦とも比較的友好的な関係を築いているらしい。暦は嫌そうにしているが、愛抱夢として振る舞う主人は楽しそうだ。そうか、それで急な誘いだったのか。
「もっと早く言えよって思ったし、俺に教えんのが嫌だったのかなって一瞬悩んだけど、本人がマジで忘れてんだもん。そりゃー教えてもらえねーよ」
「その、すまなかった」
「一応間に合ったし、思い出して貰えたからいーよ」
でも、来年はもっとちゃんと祝うからな、と唇を突き出して言う暦に、自分は一体どんな表情を浮かべていただろうか。
「ああ、楽しみに、している」
「……ん」
照れ臭そうに頬を掻いて、暦はよしと声を上げた。
「じゃ、食べよーぜ。スープ冷めるし」
「そうだな」
キッチンに戻って、取り皿と割り箸を持ってきた暦が、二人分をローテーブルに並べると、両手を合わせる。同じように自分を手を合わせた。
「「いただきます」」
******
メニューの選び方は若干若者向けではあったが、暦と言葉を交わしながら食べる食事は楽しく、そして美味しかった。
後から出てきた小さめのショートケーキまで食べて、二人でまた両手を合わせる。
「ご馳走さま」
「おそまつさまーなんてな」
照れ臭そうに笑う暦に、じわりと胸が温かくなる。
「片付けは、私がしよう」
「いいよ、忠さんは主役なんだから。ゆっくりしてて」
「だが……」
「主役は、ゆっくりするのが仕事!」
そう言われると、しつこく食い下がるのは大人げない。渋々片付けを暦に任せると、手持ち無沙汰になってしまった。仕方なくカバンを引き寄せてタブレットを取り出すと、メールのチェックをする。特に急ぎのメールが来ていない事を確認してカバンに戻すと、ふと、先ほど主人から渡された包みが目に入る。
まさか、プレゼントだろうか。暦がまだ片付けをしているのを見て、そっと包装をといていく。簡単に包装紙で包まれただけのそれはあっさりと開いて中身が現れるが、そのパッケージに書かれた「極薄」という文字を目にした瞬間、包装紙を素早く元通りにするとカバンに押し込んだ。
――愛之介様……!?
今頃、忠の反応を想像して意地悪く笑っているのだろう主人の名を心中で叫ぶ。
いつの間に、どうやって用意したかわからないそれに動揺が隠せない。
「なに、どうしたんだよ?」
ふと、思ったより近い位置で声がして振り返ると、片付けを終えたのだろう暦が忠の隣に座ったところだった。
「な、んでもない」
「ふーん?」
先ほどよりも近付いた距離に、つい意識せずにはいられない。暦とこういう関係になって、肌を重ねた事がない訳ではない。けれど、あまりがっついていると思われたくない面倒な大人のプライド故に、その回数は多くはない。
受け入れる側の暦に負担がかかるから、学生としての生活やスケートに影響が出てはいけないから、そんな建前ばかりを並べてはいるが、その実、自分ばかりが求めていると思われ、更には引かれたり呆れられるのではないかと思うと、あまり強引に事に及べない。
我ながら情けないとは思うが、少しでも余裕のある男だと思われたいのだ。大人というのは実に面倒な生き物である。
今日のやり取りを振り返るかぎり、既に手遅れになっている気がしないでもないが、それでもだ。
お互いの体温を分け合う行為を、暦が嫌がっている様子はない。けれど、やはり恥ずかしさが勝るのか、自分から誘ってくる事は全くと言っていいほど無い。
だが、今日はどうだろうか。自分の誕生日をすっかり忘れていた事を棚上げして考える。現金ではあるが、誕生日ということで、誘ってくる事は無くても受け入れてはもらえるのではないだろうか。
そんな考えを巡らせていた忠の目の前に、突然何かが差し出された。長方形で、大きめのペンケース程のサイズのそれは、綺麗にラッピングされている。
「誕生日おめでとう」
ん、と差し出されて思わず受け取る。
「先ほどの食事がプレゼントではないのか?」
「あれは、お祝いだろ?ちゃんとプレゼントあげたいじゃん」
開けてみて、と促されて、出来る限り丁寧にリボンを解き、包装紙のテープを外していく。暦からこうして何かを贈られるのは初めてだ。緊張か高揚か、微かに震える指先がバレないように、慎重に包装紙を開くと、出てきたのはシンプルな眼鏡ケースだった。
「……眼鏡?」
「ん。ブルーライト眼鏡っていうやつ。度は入ってないから」
「なるほど」
「プレゼント、何がいいか悩んだんだけど。ちぇ……知り合いに相談したら、こういうのはどうかって」
「なるほど」
知り合い、として思い浮かぶ人物のアドバイスに納得して、ふむとケースを開く。シンプルで癖のない黒いフレームの眼鏡は、使い勝手が良さそうだ。
「忠さん、いっつもスマートフォンとかタブレットとか見てるし。目が疲れるんじゃないかと思って」
気に入るかわかんないけど、と自信なさそうに言う暦に、熱いものが込み上げてくる。
「……すまない」
「え、もしかして持ってた?」
「違う。その、君を抱きしめても良いだろうか」
「……へ?」
一瞬眉を下げた後、ぽかんと口を開けて、それから頬をじわりと赤く染める暦を、じっと見つめる。忠の視線を受けて目を泳がせた暦は、一瞬目を瞑ってから両手を広げた。
「……どーぞ」
言われた瞬間、その腕を引いて抱きしめる。首筋に顔を埋めて、ふわりと鼻孔を擽った暦の香りに体温が上がる。
「ちょ、忠さん……?」
「……ありがとう」
ぎゅう、と腕に力を込める。
言葉にならない気持ちを、どう表現すれば暦に伝えられるだろうか。
「大切にする」
「……使ってくれるんだよな?」
「ああ」
「ん、ならいーや」
そっと背中に回された腕が、愛おしい。耳元で嬉しそうに和らぐ声が、たまらない。
まだ放したくはないが、いったい今どんな表情をしているのかが気になって、腕の力を緩める。身を起こして暦の顔を覗き込むと、先ほどよりも頬の赤みが増しているように思えて、鼓動が乱れる。
「……キス、しても?」
「……ん」
短く答える暦の唇を、柔らかく塞ぐ。ゆっくりとその感触を楽しむように触れて、離れて、また触れる。背中に回された腕に力が入るのを感じて、そっと唇を舌でなぞると、びくりと暦の身体が震えた。これ以上は止まれなくなりそうだと本能で感じて、一度身を離す。熟れた実の様に赤くなった頬を見て、その頬に触れると普段より体温が上がっているように感じた。
「……暦」
「あの、さ」
この続きを強請っても許されるだろうか、と名前を呼ぶと、それを遮るように暦が声を上げた。口を開いては閉じ、開いては閉じる暦に、言いたいことがあるのだろうとじっと待っていると、観念したのか潤んで濃さを増した蜂蜜色が忠を見上げる。
「今日、泊まってもイイ……?」
これは、初めてのお誘いではないだろうか。
そう認識した瞬間、思考より先に体が動いた。腰かけていたベッドにそのまま暦を押し倒し、衝動のままに唇を重ねる。
驚いたのか、身体を固くした暦の頭を優しく撫でてやるとゆっくりと身体から力が抜けていく。
柔らかさを十分に堪能して、ようやく唇を離すと銀糸が二人を繋ぐ。ふつり、と切れてしまったそれを名残惜しく思いながら、口を開いた。
「……もうひとつ、欲しいものがあるんだが」
「……なに?」
息も絶え絶えになりながらも聞き返してくる暦に、思わず口元が緩むのを感じる。
今、自分はどんな表情をしているだろう。
「……暦」
熟れに熟れた頬を撫でながら、我ながら熱に浮かされたような声だと思う。
大人の余裕だとか、プライドだとかは、もうあまり役に立たない。
今の自分は、本能に忠実なだけの情けない男だ。
だから、自分の持てる限りの全てを使って、目の前の可愛くて仕方のない年下の恋人を求めて、欲しがる事しか出来ないのだ。
「……どーぞ」
返品不可だからな、と続く言葉を唇ごと飲み込んだ。返品する予定は無いので、問題ないだろう。
先ほどカバンに押し込んだパッケージを脳裏に浮かべ、主人に感謝した事を、暦はまだ知らない。
完