夢の話。 雨が、降っている。
見慣れた山道に、自分は佇んでいる。
夜の山道は暗く、降り続ける大粒の雨で視界は悪い。
何度も滑った道の途中で、ただ一人、立ち尽くしている。
ーー違う。
仮面で狭まっている視界が、急に開ける。その先に、人が倒れていた。
黒い学ランに、鮮やかな色のパーカー。暗がりの中でも映える赤毛が、雨に濡れてやけに艶めいて見える。力なく投げ出された手のひらは、静かに雨を受け止めるだけだ。
普段なら強い感情を向けてくる琥珀色の目は、硝子玉のように虚ろに、ただ空を見上げている。
側に落ちたスケートのウィールが空回りする音が、雨音に紛れて聞こえてくる。
少年の体から赤いものがじわりと滲んで、雨で濡れた地面に溶け出していく。
ーー煩わしい。
雨の音も、ウィールの音も、目の前で赤く染まる地面も、何も映さない目も。
立ち尽くすだけで、何もしない自分も。
雨粒が額を伝って目に入る。歪んだ視界を瞬きでやり過ごすと、幾分ましになった視界には、変わらずぴくりとも動かない少年が映る。が、先程までと変わった点があることに気が付いた。
仮面が。先程まで自分が身につけていた筈の仮面が、少年の顔を覆っていた。
思わず自分の顔に触れると、先程まで確かに身に付けていた筈の無機質な感触が無くなっている。仮面はただ、少年の濁った目を隠すように、そこに在った。
「……あぁ」
つまらない。
動くから面白く、興味深いのに。
どうして、動かなくなってしまうのだろう。
また、失敗した。
******
は、と呼吸を思い出したかのように大きく息を吸って、目が覚めた。酸素を必死に送り出しているせいか、心臓が煩いくらいに跳ね、額を冷たい汗が伝った。
普段より重く感じる体を無理矢理起こして、汗を乱暴に拭う。まだ雨に降られている感覚が残っていて、目の前の光景との齟齬に混乱するが、視界に映るのは見慣れた寝室で、雨の降る暗い山道ではない。
「……最悪、だな」
思わず重くなるため息と共に吐き出して、時間を確認する。忠が起こしにくるまでまだ僅かに時間があったが、寝直すほどではない。
額にかかる髪をかきあげて、愛之介は身支度の為にベッドから出た。
ここ暫く、繰り返し見る夢がある。
悪夢といえば悪夢なのだろう。愛之介からすれば、あの赤毛の少年が出てくる時点で悪夢と言えなくも無い。
愛之介はいつも、クレイジーロックの、あの山道に立ち尽くしていて。目の前には、いつも動かなくなった少年が倒れている。
壊れてしまったのだろうか。誰が壊したのだろうか。
助けるでもなく、愛之介はただそこに居る。ぼんやりと、倒れた少年を眺めている。
自分では無い、自分が愛したいのはスノーであって、この赤毛の少年では無い。だから、これは自分のした事では無い。
なら、誰が?
「……くだらない」
夢に現れるのが、スノーならば良い。
彼ならば、自分の愛を受け止めても壊れたりしないだろう。そうして、二人きりの世界へ没入するのは、きっととても幸せな事だろうと思っていた。
願いにも近いその思いは、けれど、スノー本人によって断ち切られてしまった。トーナメント決勝のあの日、そんなのつまらないとあっさり言ってのけた彼は、とても強くて美しかった。
その眩しいまでの輝きを、いつか手に入れたいと、諦めきれずに手を伸ばしているのに。
何故、あの赤毛がチラつくのか。
トーナメントのリザーブ戦で、愛抱夢として少年に与えた痛みは、行為は、つまらない勝負を盛り上げる為のものであって、愛之介にとっての愛では無い。
スノーの側に当たり前のように居る赤毛に対する、八つ当たりに近い感情も多少あったかもしれないが、間違っても好意的な物ではない。
結果、あの少年は事もあろうに、自分に、愛抱夢に、泥に塗れるという屈辱を与えたのだ。ゴールした後、レースなんて関係なく、立ち直れないくらいに、ボロ雑巾のようになるまで痛めつけてやりたいと言う凶暴な感情を、ジョーの静止があったとは言え辛うじて残った理性で抑えたのは、苦々しい記憶としてまだ新しい。
だから、あんな夢を見るのだろうか。
きっと、そうなのだろう。身支度を整えながら、そう納得する。
だからと言って、繰り返し同じ夢を見るのは不快でしかない。いっその事、夢を再現してしまおうかと物騒な事を考えるが、生憎今はスケジュールが詰まっていてそんな余裕は無い。一日の終わりに、部屋のモニターでスノーの様子を眺めるのが精々だ。
朝食に向かいながら、面白くないと思わず舌打ちをした。
******
息の詰まる公務を終えて部屋に戻ってくると、ネクタイを緩めながらモニターのスイッチを入れる。あっという間にクレイジーロックの様子が映し出され、中央に位置するいくつかの画面が、数いるスケーターの中からスノーを探し出した。
愛之介のよく知るメンバーと楽しげに滑るスノーは、今日も眩しいくらいの輝きでもって、その場に居るスケーター達の目を惹きつけていた。
「素晴らしい」
うっとりとその滑りを眺めていると、画面の隅に赤毛が揺れた。すると、スノーの涼しげな瞳がそちらを向いて、嬉しそうに細められる。
ーーあぁ、鬱陶しい。
そう思ったのは、果たしてどちらにだろうか。
スノーと並んで、彼よりも拙い技術で、なのに楽しげに滑る赤毛をいつの間にか目で追って、それに気づいて歯噛みする。
技術もセンスも才能も無いくせに、当たり前のような顔をして、愛之介が求めるスノーの隣に居る少年。どれだけ痛めつけても、スケートが楽しいと笑う少年。
何故、こんなに苛立つのか。
持たざる者が、どうしてこんなにも妬ましいのか。
「……違う」
妬ましいなど、あるはずが無い。持てる者である自分が、あんな雑魚に対して、そんな感情を持つなんて、有り得ない。
では、何だと言うのか。
言葉にできない感情が、熱の塊になって喉元まで迫り上がってくる。いっそ、それを吐き出してしまえば楽になれるというのか。けれど、上手く吐き出す術も分からず、ただぐっと飲み込む。腹の底に落ちたその熱は消える事なく燻って、溜め込んだそれはぐつぐつと煮えてどろりと密度を増していく。
夢で見た光景が、脳裏をチラつく。
あの光景を再現するのは、きっと簡単だろう。赤子の手を捻るように、呆気なく。あの赤毛は泥に塗れるだろう。
けれど、そうしたところで、この胸は晴れるのだろうか。
画面の向こうで、トリックを決めたスノーに赤毛が駆け寄る。夕焼け色の瞳はキラキラと輝いて、楽しくて堪らないと言わんばかりだ。
「……違うだろう」
拳を合わせて声を掛け合っている二人を画面越しに眺めて、溢れた言葉は無意識だった。
「……僕を見ろ」
どろり。腹の底に溜まって煮凝っていた感情が、溢れ出す。
恐れに震える体を怒りや嫌悪で押さえ付けて、こちらを睨み付けてきた目。岩肌に押し付けて、背中を擦りおろしてやった時の悲鳴が、脳裏によみがえる。
愛してなんていない。愛してなんてやらない。
「……許さない」
一人だけ逃れようなんて、そうはさせない。
愛という名の痛みはやらない。代わりに、どうしてやろうか。
「そうだ、うんと優しくしてやろう」
真綿で包むように、優しく優しく、壊してやろう。
口元を歪めて、目の前の画面に映る無邪気な笑顔を指でなぞる。
夢のように、すぐに壊してはつまらない。じっくり、たっぷり時間をかけて、壊してやろう。
「……加減を間違えないようにしないと、ね」
次は、失敗しないようにしないと。
楽しげに弾んだ声は、静かな闇に人知れず溶けていった。
終わり