「雨彦、風邪をひいてしまいますよ」
穏やかな声にそう呼びかけられて、雨彦はゆっくりと目を開いた。
目の前には雨彦の様子をじっと覗き込む恋人の顔。雨彦と目が合うと、口元に柔らかい笑みが浮かぶ。
「こいつは良い目覚めだな」
「おはようございます。起こすかどうか迷ったのですが、エアコンが当たっていたので……」
「ああ、眠っちまったみたいだな。起こしてくれて助かったよ」
今日はそれぞれ別の仕事が入っていて、クリスとは朝に顔を合わせたきりだった。
八月ももう終わりだというのに、まだまだ蒸し暑い日が続いている。昼過ぎに仕事を終えた雨彦は、すっかり外の暑さにバテて、早々に家に帰ってきたのだ。そうしてリビングのソファに倒れ込み、そのまま眠ってしまったらしい。
「お前さんもおかえり。今帰ってきたのかい?」
「はい、つい先程。外は大分涼しくなりましたよ」
クリスはそう言いながら窓辺へと向かい、バルコニーへと続く窓を開ける。リビングにふわりと風が流れ込んでくるのが心地良い。
バルコニーへと出たクリスの後を追うと、外は日中よりも随分と暑さが和らいだようだった。
「一日中この気温ならいいんだかな」
「そうですね。ですが、もう少しの辛抱ですよ」
雨彦の言葉に小さく笑うクリスの隣に並び、雨彦は目の前の景色に目を向ける。
眼下に広がるのは海ではなく、都会的な街並みだ。
二人で暮らすことを決めて、部屋を選び始めた当初は、クリスであれば海に近い場所を選ぶのだろうと思っていた。けれどクリスが提示したのは、交通の便に優れた、駅の近くのマンションだった。
アイドルという仕事柄、時間も移動も不規則になりやすい。できるだけ苦労をすることがないように、と考えた末の結論だったらしい。本人曰く、目の前になくたって海には行くことができるから、とのことだ。
ロケーションよりも二人で過ごす空間を、と熱心に家具や家電を調べるクリスの様子に、柄にもなく少々舞い上がってしまったのを覚えている。
それでも雨彦は密かに、いつかはクリスが望む海の側に、と思っていた。いつなのかも、実現するのかもわからないその未来の話を、クリスに伝えたことはまだないのだが。
夕日に色づく空は、少しずつ夜を迎えようとしているところだ。街も明かりが灯り始めて、日中とは異なる顔を見せる。
すっかり見慣れてしまった、ありふれたこの景色のことを、雨彦は嫌いではない。
「せっかくだ、酒でも持って来るかい?」
「たまには外で一杯、というのもいいですね」
「よし、ちょいと待ってな」
クリスを残してリビングに戻った雨彦は、その足でキッチンへと向かう。冷蔵庫から冷えた缶ビールを二本手に取って、それからまたバルコニーへ。
雨彦を待つ一人クリスは、外の景色を静かに眺めている。時折風が吹くと、さらりと長い髪が揺れて。
「雨彦、ありがとうございます」
雨彦に気づいたクリスは、そう言いながら振り返り微笑む。夕暮れに佇むその姿に、思わず目を奪われる。このクリスは、今は雨彦だけのものだ。
「雨彦?」
「……いや、もう少し涼んだら、お前さんに触れたいと思ってね」
雨彦の言葉に、クリスは少し驚いたような顔をして、それからほんのりと頬を染めて頷く。
お互いに少し照れを隠すように、手元のビールに口をつけると、ひやりとした感覚が身体に染み込んでいった。