天使を拾った。
しんと冷え切った冬の朝。
前日の夜から朝方にかけて降った、まだ誰にも汚されていない真っ白な雪の中、俺の家の前にそれは落ちていた。
「……酔っ払い……か?」
季節外れのというべきか、真っ白な布を一枚巻き付けたような服。そういう服なのか、うつ伏せに倒れたその背中に布地はない。だがその代わりに、真っ白な鳥のような羽根がついていた。
飲み会の帰りに行き倒れたのだろうか。
「あの、大丈夫ですか?」
この寒さでこの格好だ。
放置するのも忍びなく、露出している細い肩をゆする。その肌は不安になるほど冷たかった。
だがそれよりも、とんでもないことに気が付いてしまった。
「……ついてんな?」
羽根は、肩から背負っているものだと思っていた。しかし実際にはそこにあるはずのショルダーストラップはなく、よくよく見れば肩甲骨のあたりからごく自然に羽根が生えているようにみえる。
最近のパーティーグッズは進化しているのかもしれない。
そう思って、おそるおそる羽根を摘まんでみる。しかしそんな一縷の望みを砕くように、羽根を摘まみ上げれば、ほんの少し皮膚が引っ張り上げられているのが見えて背中から取れる気配はない。
一体どうしたらいいんだ。
目の前にいるものをどう認識したらいいかも、どう対処したらいいのかも分からない。
雪の降ったあとの早朝の住宅街は、静まり返っていて、まだ誰も通る気配がない。考えあぐねていると、それはぴくりと動いた。
「うう」
小さな声とともに身じろぎする。その様子を、ごくりと見守った。
うつ伏して見えなかった顔がゆっくりとこちらを向く。新雪にも負けないような白い頬だった。長くて黒い睫毛が震えて、海の色をした目が開く。
俺と同じくらいか、若いくらいだ。
やっぱり酔っ払いではない、と思ったが打ち消す。童顔なんてこの世に吐いて捨てるほどいる。
いっそ、この際未成年飲酒でもいい。羽根は酔ってうっかり何かでくっつけてしまったのだろうと思いたい。
頼む。酔っ払いであってくれ。
「……」
ぼんやりとした視線が俺を見る。
そして。
「……おなかすいた……」
それだけ言い残して、それは再びぱたんと倒れた。
第一発見者になってしまった以上さすがに放置するわけにはいかなかった。
「……ほい」
部屋に連れ帰り、目を覚ましたそれに、つい昨日、妹が冷蔵庫の中身を見て「やっぱりー!」と叫びながら置いていった冷凍のミネストローネを解凍して渡す。
「……ありがとう」
真冬に布きれのような服一枚は寒かったのだろう、さっきまで寝ていた俺の毛布を肩からかけて、ほっと息をついている。その姿だけみれば、酔っ払いというよりもまるで家出してきた未成年のように見えた。
後ろ側の毛布が、羽根でこんもりと盛り上がっていることを除けば。
とりあえず、本人に何者なのか聞き出さねばなるまい。
そう思った時だった。
「やっぱり黒崎は善人だね」
「……は?」
野菜たっぷりのミネストローネをおいしそうに飲んで、それはにこりと笑った。
「……俺の名前知ってんのかよ」
発せられた言葉は、初対面の相手からかけられるものではなかった。一体なんだ、と思う間もなくそれは何故か得意げな態度でぺらぺらと喋り出した。
「黒崎一護、十九歳、大学生。今の大学は第二志望だ。七月十五日生まれ。家族は父親と双子の妹が二人。大学進学を期に一人暮らし。告白されたのは六回。その半分が君がその女の子を助けたことをきっかけにしてる。二回付き合ってみたけれど、どちらも結局ちゃんと好きになれない、という理由で君から別れを切り出してる。それから」
「待て待て! お前何モンだよ。きもちわりーな!」
「気持ち悪いとは失礼な。僕は天使だ」
「はあ?」
「だから天使。この羽根が見えないのか? それとも馬鹿か? 成績も悪くないし、単位だって十分足りているのに」
ふふんと得意げな態度を崩さずに言うが、もはや俺は冷静ではいられなかった。
「羽根は毛布で今見えねーよ! ってかそういう問題じゃねえ!」
「じゃあ何が問題なんだ」
「全部だよ全部!」
自らを天使と名乗った上で、ストーカーかと思うほどには俺の情報をやたらと熟知している。あやしいどころの騒ぎではない。
「……まず、お前やたら俺のこと知ってるみてーだけど、どうやって知った」
警察に突き出すも頭に入れつつ、本腰を入れて聞き出すことにする。
けれど、俺の声色が変わってもそれは、特に気にした様子もなかった。
「どうやっても何も、人間界に来るにあたって事前調査したに決まっているだろう」
「……だからなんで事前調査してんだよ」
天使だの人間界だのの言葉は一旦無視することにする。そんなものは後で嘘だと分かるに決まっている。
「君の恋人探しを手伝いに来た」
スプーンでミネストローネの具材を掬い上げながら、まるでなんでもないことのようにそれは言った。
「ハイ?」
「君はとても善人だ。第一志望の大学に受からなかったのは、受験日の朝に、事故に巻き込まれた人を助けたせいで、試験の開始時刻に間に合わなかったからだ」
わけのわからないことを言う、と思っていたら次に出てきた言葉は俺を更に混乱させた。
「…………え」
それは、これまで誰にも言ったことのない話なのだ。
あの日の事故は結構大きくて、俺は車の中で動けなくなっていた人を確かに助けた。それについてもちろん後悔はしていない。
けれど、せっかく大金を払って受験させてくれた親父にも、「頑張って」とお守りをくれた妹たちにも、言い出せなかった。
だからそのことは、俺だけが知っていることだった。
なのに目の前の妙にきれいな顔をして真っ白な羽根をつけた何かは、あたかも当然のようにその話を持ち出した。
「それ以外にも、何かしらトラブルを見つければ君にどんな予定があっても助けに入るし、その上君は、その善行に見合うだけの強さがある。人間界の天然記念物とでも言っておこうか」
「……………」
「そんな君に恋人がいないのはかわいそうだ、と神様が哀れんだ。それで、君の恋人作りを手伝うように、と僕に命令が下されたってわけだ。感謝しろ」
「お前一体……」
俺の混乱をよそに得体のしれないそいつは、やっと満足したのかカップをテーブルの上に置く。コトリとやけに日常を思わせるのんびりとした音がした。
「これだけ説明したのにまだ何か分からないことでもあるのか?」
「何もわかんねーよ……」
何もかもが分からない。
ストーカーにしても情報を知りすぎているし、天使の羽根は何故かこいつの気分にあわせているかのように、毛布の下でもぴこぴこと動いている。
天使なんて非現実的なものを認めたくはないが、こいつがどうも普通じゃないのは確かだ。そんなものにどう対処すべきなのか分からない。
「……大体俺は、カノジョ欲しいとか思ってねえぞ」
かろうじて分かったところだけに返事をした。
現状には似合わない返答だったが、とにかく少し前に別れたばかりで、むしろしばらく恋人はいいやと思っているのだ。
「じゃあまずは君が恋人が欲しいって思うようになるところからスタートだね」
「よけいなお世話だって。っつかもう、詳しいことを聞くのも面倒くせーから、それ飲み終わったなら家に帰れ」
だんだんと面倒になってきて、俺はひとまず出て行ってもらうことにする。
考えてみれば、今のところ何か被害を受けたわけではない。やけに俺のことを知っていても、それはただ俺の前でミネストローネを飲んでいるだけだ。
帰らせて、もうひと眠りすれば変な夢だったのだと思えるだろう。
「そういうわけにはいかないんだ。僕、任務達成するまで帰れないし」
「は?」
「君がちゃんと恋人と幸せになるのを見届けるまでが任務。それを達成するまで天界には帰れない。そういう決まりなんだ」
「……待て。お前家は?」
「人間界にはないよ」
「ないって」
「だから、しばらく君の家に住もうと思ってる」
どうしたらいいんだ、とぐるぐると考えていると、「ごちそうさまでした」とそいつはミネストローネに向かってのんきに手を合わせている。
もしかして俺は、とんでもないものを拾ってしまったのだろうか。