Flutter 困ったことになった。
夜の繁華街の路地裏。
目の前の、やたら縫製の悪い、黒崎曰く「流行り」の服を着た大学生らしき三人を見て、僕はごくごく冷静にそんなことを考えた。
右の男はまるでキノコみたいな重めの黒髪だ。街中に結構いる髪型だから流行りなんだろう。
左の男は、上下ベージュの色合いの服だ。シルエットが悪くて、なんだか作業着みたいに見える。
中央の男のジャージの袖口の糸はほつれている。きちんと処理をしていないからこんな風に糸が出てきてしまうのだ。気になってしまって直したい。提案したらさせてくれるだろうか。
「いーじゃん。ちょっとその辺のお店入るだけだって」
ジャージが袖口も気にせず、へらりと笑った。
……直させてくれるわけないか。
溜息をついた。
「それとも、わざとこんなところに連れて来た?」
「わざとと言えばわざとだけど。君たちが考えていることとは違うと思うよ」
喋ると、目の前の空気が白くなる。
コンクリートの建物に囲まれた灰色の路地裏は、表通りと違って薄暗い。だから、近くの建物群のピンク色のネオンも良く見えた。そもそもこの建物の表はなんだかちょっとファンシーなお城のようになっていた気がする。もう子供じゃないから、僕だってその建物がなんのための施設なのか分かっている。
仕方がない。人目のつかなそうな路地裏は、ここしかなかったのだ。
「そういうムズカシー話は分かんないや。お店に入るんじゃなくて、この建物に入るってことでよくない?」
キノコが言う。
「………………」
どうやら黒崎より頭の悪い男たちは、僕の言いたいことをこれっぽっちも理解してくれない。それどころか、徐々に距離を詰めてくる。
できれば穏便にすませて、袖口を直して終わりたかったな。
僕は黒崎と違って、短気ではないのだ。だから十分に時間をかけたと思う。北風が吹いて、コートの奥まで冷たさが入り込んできてもがまんした。でも、これ以上時間をかけると、もっと面倒なことになるのだ。
手袋をはずすのはいやだな。とすれば、足でなんとかするか。
そんなことを考えていたら、ぶわりと空気が揺れた。もちろん、それに気づいたのは僕だけだろう。その揺れは、フルスピードでこっちへ向かってくる。
しまった。
どうやら時間をかけすぎたらしい。
これから先のことを考えて、僕はもう一度大きく息を吐いた。
事の次第は、つい十五分ほど前にさかのぼる。
僕は、駅前で黒崎を待っていた。
年末は何かと物入りで、バイト帰りの黒崎と待ち合わせて一緒に買いに行く約束をしたのだ。
街はすっかりクリスマスムードだ。ランドマークでもあるぴかぴか光るイルミネーションを背に、待ち合わせ場所の広場で、一足早く駅についたことを連絡する。
時刻は十六時四十三分。
待ち合わせは十七時だ。どこかに入っても大して何もできない時間なので、あきらめて持ってきていた本を広げる。
その時だった。
「おねえさん」
随分近くでそんな声がした。嫌な感じの声だったが、一度は気にしないことにする。案外、こんな風に声をかけられるのを待っている女性もいるのだと、僕は最近知った。
「ねえ、おねえさんてば」
でも、どうやら今回は違ったようだ。
返事がないようで何度も声をかけているらしき様は、聞いているだけでも気分が良いものではない。
「ねえってば」
止めに入ろう、と読み始めたばかりの本から顔をあげる。
と、何故か僕の前に男が三人立っていて、目が合った。
「……?」
「あ、こっち見てくれた」
一体なんだ、と思った途端ジャージを着た男が目を細めた。その声が、さっきまで「おねえさん」と呼んでいた声と同じだ。
不思議に思って僕の両隣を見る。どちらも誰かを待っているのだろう男性だった。
じゃあ一体誰に呼び掛けているんだ、と思ったが答えはすぐに分かった。
「おねえさんを呼んだんだよ」
僕があたりを見回したのに呼応するように男が喋った。
ここまで来たらさすがに分かる。
これは僕を呼んでいるのだ。
とはいえ、分かっても理解し難い。
「……悪いけど、お姉さんじゃないんだ」
あまり良い気分はしないが、仕方なく声を出す。
するとさすがに分かったのか、男たちが一歩引いた。
「……マジで?」
作業着が目を丸くする。
「マジでも何も、見れば分かるだろう」
背だって人並みにあるし、間違えるような体型はしていない。服装だって普通だ。
一体どこに間違える要素があるのか。
心外でもあるし、不快でもある。
ひとつ良いことがあるとすれば、僕を女性と間違えたことでこんなやつらに声を掛けられる女性が減ったということだろう。
「悪かったって」
「……分かったなら、用は済んだだろう。家に帰ると良いよ」
謝罪など特に求めていなかったので帰宅を促すと、男たちは何故かお互いに意思を確認するかのように目をあわせた。
「……けど一目惚れしちゃったんだよね。お兄さん、暇なんでしょ?」
そして次に出てきた言葉は、何故かこの不毛なやり取りの続行を告げるものだった。思わず眉間に皺が寄ったのが自分でも分かる。
「暇な人間がここにいるわけないだろう」
「暇そうじゃん」
「人を待っているのは暇とは言わないよ」
「でもその人が来るとは限らないじゃん」
「来ないことはないな」
「俺達と来る方が楽しいと思うよ」
「他人を女性と間違えて声をかける失礼な人たちが僕を楽しませられるとは到底思えないね」
「つべこべ言ってないでさぁ」
いい加減に苛ついたのか、ジャージが本を持っていた僕の手を掴んでくる。
さすがに人の目も気になって来たし、例え僕が解放されたとしても、こいつらを野放しにするのも危険な気がしてきた。
仕方がない。
彼らは気が付いていないだろうが、ごく当たり前に僕の方が強いのだ。
「……とりあえず、場所を移そうか」
軽く手を払ってそう言うと、この状況でどうしてそんな風に思えたのか、男たちはやたらポジティブに笑った。
―――で、今に至る。
目の前には、そろそろ焦れてきたのか苛ついた態度を隠そうともしない男たち。後ろからは巨大な霊圧。
きっとみんな、僕のせいにするのだろうけれど、どう考えたって僕が一番苦労している。
「悪いけれど、君たちのようなモテない男に付き合っても、良いことなんて何もなさそうだから、辞退させてもらうよ。駅前で他人に声をかけないといけないような人間が、セックスが上手いとは思えないからね」
とにかく、さっさと終わらせようとわざと煽る言葉を投げる。そして案の定簡単に、男たちは表情を変えた。こういう手合いは、何故か自分たちが僕より上だと思い込んでいるのだ。
「てめぇ……」
そしてすぐに手が出る。
ぬるいスピードで向かってくる拳を、軽くしゃがんで避けて、足で膝を狙う。とりあえず今日明日くらい動けなくなる程度でいいか、と頭の中で考える。
小さい頃からそれなりに体術の基礎は叩き込まれている。一般人相手ならば、ちゃんと考えてやらないと、殺人犯になってしまう可能性だってあるのだ。
「ぐぇ」
膝を蹴られたキノコが鈍くて汚い声をあげてうずくまる。その光景を想像すらしていなかったのだろう、残りの二人がわずかに慄いたのが見て取れた。
その時だった。
「石田!」
近づいていた霊圧の正体が明るい表通りから姿を現す。男たちを見ている僕からは姿は見えないが、荒い息と焦ったような声でその表情は手に取るように分かった。こういう時だけ、迷いもせずやってくるから困る。
「ほら。待ってる人、来ただろう。どこにいるか連絡もしてないのに勝手に。そういうやつなんだ」
黒崎の声を無視して、目の前に話しかける。
だけど彼らは聞いてもいない。やってきた黒崎がどう見たって彼らより強面で、自分たちじゃ相手にならないと判断できたからなのだろう。正直に言うと、そういう意味で黒崎の顔と体型は羨ましい。
そして黒崎も僕の話していることなど聞いちゃいない。
「勝手にこいつを変なトコに連れこんでんじゃねーよ!」
連れ込んだのは僕なんだけどね。それに、黒崎には僕の前にキノコが倒れているのが見えているはずだ。
「テメーらどうなるか分かってんだろうなァ?」
黒崎の指がゴキゴキと鳴る。
振り返って見ると、ここにいる誰よりもガラの悪いやつがいる。
「ヒッ」
うわぁ、と思っていると恐れをなしたのか、動ける作業着とジャージがまずは前のめりに僕たちの横を通り過ぎて行き、後を追うようにキノコがほとんど四つん這いで逃げて行った。
拳を振るわなくても一発だ。
途端、路地裏は静かになる。
遠くに繁華街のざわめきと、パトカーの音が聞こえた。
「石田、大丈夫か?」
黒崎が後ろを一度確認してから、僕の隣にやってくる。まるで壊れ物を扱うかのような態度だった。だから、僕はさっさと片付けたかったのだ。
「何で来たんだ」
「何でって」
「まあ、来ても良いとしてもだ。状況は見たら分かるだろう。放っておいても僕が彼らを倒せることくらいは理解できるだろう?」
冷静に言ったつもりだったが、声に苛立ちは出ていたかもしれない。黒崎が少し躊躇したのが見てとれた。
「……」
「言っておくけど。君に護られるのはごめんだよ」
黒崎はいつもそうだ。
今回みたいに大したことないと分かる時でも、何故かやってくる。大抵はひとりで解決できるし黒崎が来た方が面倒なことになるので、大人しくしていて欲しいのにそういうわけにはいかないらしい。今日だって、たまたま彼らが小心者でさっさと逃げてくれたから良かったけれど、大ごとになっていたら多分、僕ひとりより黒崎がいる方が解決が手間になっていただろう。たとえば、警察の事情聴取とか。
「……そーいうつもりじゃねーよ」
少し間があって、黒崎が答えた。
「じゃあなんなんだ」
「……マジで聞いてんのか、それ」
「そうだけど」
そう言うと、黒崎はビルとビルの間の細長い空を見上げた。ネオンの光るこの場所では、星も何も見えないだろうに。なんなら空より下でHOTELの文字がぺかぺかと光っている。それに気づいたのか、黒崎はすぐに気まずそうに顔を元の位置に戻した。
「俺、オマエのカレシなんだけど」
「……? そうだ……ね?」
「だから、護るとか護らないとかそういうんじゃなくて、フツーに心配って話と、あと、」
今度は視線が右に左へと動く。どっちを見ても、お世辞にもきれいとは言えないビルの壁と、その壁をつたう薄汚れた何がしかの管と、室外機しかない。
「……カッコつけてーの」
黒崎が言うのを静かに待っていたせいか、その言葉はぽんと僕たちの間のど真ん中に現れて、それから空気に溶けていった。
瞬きを繰り返したが、もちろん何も見えるわけがない。
ただ、息を吸ったらまだどこかに残っていた黒崎の言葉が空気と一緒にすとんと身体に入っていった気がした。
カッコつけたかったのか。
思い返されるシーンに、その理由をつけたらすべて納得がいってしまった。
妙な納得感と、それくらいで絆されるものかという苛立ちがあるのに、それでいて不快ではない。
「……今更僕相手にカッコつけてどうするんだい。君が見た目ほどカッコよくないことは分かってるよ」
「さくっと失礼なこと言うな」
「だってそうじゃないか」
「そうじゃねえ! ってか、そうじゃねえように、思わせたいって言ってんだってば! あーもう何言わせてんだ」
「……まあ、頑張るといいよ」
途端黒崎の声だけで騒がしくなった路地裏を立ち去るべく、僕はくるりと背を向けた。じゃり、と古い砂交じりのアスファルトが音をたてる。
「あのなあ」
「黒崎。いつまでもこんなところにいても仕方ないだろう。買い物に行くんだろう」
「行くけど」
「じゃあ行こう」
そそくさと少し俯きがちに僕は歩き始める。
今はちょっと、顔は見られたくないのだ。
さっきまではずしたくなかった手袋は、なんだかはずしても良いような気がしている。
「覚えてろよ。その内ぜってーそう思わせてやる」
後ろの方で、そんな声が聞こえた。