夜でもないのに、目の前が真っ暗になったようだった。長い廊下にずらりと等間隔に並ぶ扉は、全て何の部屋か知っているはずなのに迷路に見える。
今あったことは果たして真実なのだろうか。
思考がストップしている。脳がそれ以上考えてはいけないと警報を出している。
ずるりと真っ白な壁に背中を預ける。そうやって、何かが過ぎ去るのを待とうとしたがブーツを履いた足の内側から身体が冷えていく一方だった。そのまま、どのくらいの時が過ぎただろうか。目の前をひらひらと動くものに気づいて、一護はようやく顔をあげた。
「おーい、生きてるかー」
視界に、暑苦しい顔と分厚い手が映って顔を顰める。
一護の騎士団の制服の上からマントを羽織った軽装とは違い、全身が鋼の鎧で覆われている。
「……親父かよ」
「んだよ、反応薄いなー」
今は自分の父親の、能天気な声がひどい騒音のようにすら思える。静かにしていたいわけでもないが、相手にしたい気分でもない。
こう見えても一護の父親・黒崎一心は、公爵家が独自に編成している騎士団の隊長を務めている。一護よりもよっぽどこの家の事情に詳しいはずだった。
「今、構ってる気分じゃねえんだ。……分かるだろ」
今しがた一護が聞いた話を、一心が知らないわけがない。その上での態度に、一護は苛立ちを募らせた。
「俺だって、そんな顔してるオメーに構う気はありませんよーだ」
「じゃあなんなんだよ」
一発殴りたい気分にもなるが、八つ当たりなのは分かっている。しかも、鎧を殴ったところで自分が怪我するだけだ。
今は放っておいてくれ、という意思表示で不機嫌な声を出しても、一心は気にした素振りさえ見せない。
「ちゃんと用事があるんですぅ」
「……用事?」
茶化すような言い方だったが、さすがにこの状況で嘘は言わないだろう。
少し冷静になってみれば、そもそも昼前のこの時刻一心が屋敷内にいることも珍しい。普段ならば、敷地内で騎士たちを集めて日課の訓練を行っているはずだった。
それをやめてまで、用事があるのだとすれば雨竜に関わる話以外にない。
「公爵様がお呼びだぜ?」
一護の胸中を読んだかのごとく、一心は至極真面目な顔をして言った。
公爵の執務室の扉はどの部屋より大きく重厚で、それだけで威圧感があった。何度か訪れたことはあったが、その前に立つだけで蛇に睨まれたような気持ちになる。だが、この家一番の権力者は、今の一護にとって希望でもあった。ノックをしてしばらく待つと、中から「入れ」と声が聞こえた。
「失礼します」
重たい扉を開けると、それに似つかわしい豪奢な部屋が現れる。作り付けのダークブラウンの家具はすべてこの屋敷が建てられた何十年も前に領内一番の職人に作らせたものだ。執務室という特性上書類などが机に積まれているのが常だったが、大抵は執事や侍女たちによってそれなりに整えられていた。しかし今日は、床にこそ散らばっていないものの様々な本や書類が机の上に乱雑に置かれている。
その机を前に、この屋敷の主でありこの公爵領だけでなく帝国内でも大きな権力を持つ石田竜弦は、今にも部屋ごと破壊しそうな顔つきで座っていた。室内には僅かに煙草の匂いがしている。
つまり今置かれている状況は、悪夢でもなければ雨竜の悪い冗談でもない。
「雨竜から話は聞いているな」
それに追い打ちをかけるように竜弦が切り出した。
「……本当だったんですね」
「雨竜がこの部屋から婚約を求める書類を見つけて、勝手に同意書を王室に送った」
「……」
思わず息を飲んだが、納得のいく展開でもあった。
「大方、自分が行かなければ領地や領民が危機に陥るとでも思ったんだろう。浅はかな考えだ」
この公爵領は帝国の南の端に位置する。
隣国との国境があるこの地域は、元々雨竜の祖父が隣国との戦争で大きな功績を残したことから与えられた領土だ。今でこそ戦争は過去のものとなったが、国境の防衛や、国境沿いの森に時たま現れるモンスターの討伐任務などもあってその軍事力は高い。そもそも石田家が強い魔力を持つ家系であり、魔法の扱いに長けている。更に帝国内では比較的暖かい地域で、観光業も盛んだった。
つまり力も金も備えている公爵家は、皇帝にとっては頼もしい存在であると同時に危険な存在だった。いわば、人質としての婚約を迫ったのだろう。それを理解して雨竜は婚約を受け入れたのだ。
「婚約を断ったくらいで潰れるような治め方はしていない」
断れば、皇帝にたてついたとみなされなくはないだろうに、竜弦は嘲笑うように言い切る。そして手のひらに収まる小さな魔法具で煙草に火をつけた。
人質といえど、曲がりなりにも皇帝との婚約だ。例え何人かいるうちのひとりであろうと、無下には扱われないだろう。それでもあまりにも急すぎたし、何よりも今年の秋から雨竜は魔法学専攻の大学に進学する予定だったのだ。影で騎士団長に親馬鹿と笑われている最強公爵でなくても、小さい頃から一緒に育ってきてうっかり恋愛感情を抱いてしまった護衛騎士でなくても、これが本人の意志ではないことは明白だった。
「だが、同意書にサインして送ってしまったものは、どうにもならん」
閉めきられた部屋に煙が浮かんで、つんとした匂いが満ちていく。その昔、一護がこの匂いを初めて嗅いだ時咳込んだことも、それ以来煙草の匂いは苦手なことも竜弦は知っているはずだったが気遣う素振りもみせなかった。
ただ、その目の下に疲れた跡が見えて、それを不満に思うことすらできなかった。
「……それでも、何か方法はないんですか」
それでもなお、一護は縋るように尋ねた。事の詳細を話すためだけに呼び出したわけではないはずだ。
「……ないこともない」
そして、それを待っていたかのように竜弦が一護を一瞥した。
「雨竜自身が、婚約を破棄したいと言えばいい。環境が合わなかった、気が変わった、何でも良い。貴族同士の婚約破棄なんてそう珍しいことでもないからな。相手が皇帝だろうが望まぬ結婚ならそれを盾に破棄すれば良いだけのこと。雨竜が否と言えばこちらはどうとでも動ける」
「………それは」
最初に、とても無理だ、と思った。次いで、その無理を頼まれているのだと気付く。
あの頑固者の意志をどうやって変えたら良いのか見当もつかない。その昔、雨竜が乗馬習いたいと言い出したことがあった。その頃はまだ一護ですら練習中で、周囲の人間が全員止めたのに夜中に厩舎から勝手に馬を持ちだして、一護より早く乗りこなしてしまった。他にもやると言ったら聞かないエピソードは枚挙にいとまがない。
「可能性は低いだろうが……、私よりは貴様の方が可能性がある」
どう考えたって無茶ぶりだ。
けれどそれを指摘したところで状況は変わらない。
「どうする」
「……やります」
勝算などないのに、一護はほぼ反射的に返事をした。他に方法がないというならば、やるしかない。
別に、両想いになろうなどと望んでなどはいないのだ。ただ、こんな勝手な結婚には納得がいかない。それに何もできずに落ち込んでいるより、やることがある方が幾分か気が楽になる。
「期限は指定しない。帝都までの護衛も頼まれていたな。帝都に入るまで……いや、雨竜が城に入った後でもかまわん」
竜弦はまるで最初から答えは分かっていたかのように話を進めた。既に視線は一護の方ではなく、散らかった書類に向いていた。
「あいつの意志を変えるまで戻って来なくて良い。ただし定期的に連絡はするように」