cookie十六時を過ぎれば、校内はつい三十分前までの喧騒が嘘のように静かだった。校庭からは熱心な体育系の部活のランニングやら模擬試合やらの掛け声が響いている。俺はぼんやりとその様子を窓から眺めていた。特に何をするわけでもないが、人を待つというのは案外暇なものなのだ。待つついでに開いてみた参考書と問題集は、結局あまり進んでいない。
そういえば、石田の家の冷蔵庫に、もうお菓子のストックが少なかった気がする。帰りにコンビニでも誘おうか。
そんなことをつらつらと考えていると、ふと甘い匂いがした。
「あのー……、すみません」
同時に声をかけられて振り向けば、見知らぬ女子生徒が二人、おどおどと教室の前で俺の方を見ていた。
「黒崎先輩、ですよね?」
「……そうだけど……」
返事をしながら、頭の中で石田はあとどれくらいでここに来るだろう、と考える。
二人に見覚えはない。先輩、と呼ばれたからには一年か二年なのだろう。一人は頬を紅潮させどこか不安そうな表情で手にはきれいにラッピングされた袋を持って、もう一人は後ろから彼女の肩にそっと手を置いている。
緊張しているのは分かったが、申し訳ないという気持ちよりも先に、石田が来る前にこの状況を終わらせたいという気持ちが勝った。
二人組は、教室内に俺しかいないことを見て、遠慮がちにこちらに向かってきた。
「今日、調理実習でクッキーを作ってて」
「悪いけど……」
「その、い、石田先輩に渡してもらえませんか?」
「あ?」
想定外の言葉に、つい低い声が出て二人はびくりと身体を震わせた。
そうだった。
あいつ、結構モテるんだった。
本人の俺以外への人当たりの良さと俺の外見からか、俺に伝書鳩をさせようとするやつはいなかった。けど、少し前までは啓吾に石田宛にプレゼントが渡されたり、石田自身が校舎裏に呼び出されたり、なんてことはよくあった。
「……あいつ受け取らねーぞ」
そう、石田は受け取らない。
最近は、石田が頑なにプレゼントも好意も受け取らないことが広まったらしくて、やっとそういうことが減ってきたところだ。
「……だから、その、黒崎先輩に渡してほしくて」
つまり今目の前にいるやつは、それを知らないで頼んで来たのか、それとも知っているからこそ、俺から渡せば石田も受け取るだろうと考えてきたのか、どちらかだ。
後者だとすれば、それだけ観察して考えた上でのことだろう。
「……やだね」
だけど、観察だけじゃ分からないこともある。
最初のうち断りきれなかった石田に受け取らないように強く言ったのは俺だ。
どんなに考えて来たのだとしても、俺に頼んで来た時点で結果は決まっているのだ。
「誰に頼んだって結果は同じだと思うぞ」
それを敢えて教えてやる義理はない。
「あいつ、付き合ってるやついるから。しかも結構束縛つえーからムリムリ」
正直、恋人がモテるというのは複雑なのだ。誰かに好かれるというのは悪いことではないはずなのに、恋心を抱くやつなんて一人でも減って欲しい気持ちが勝る。
わざと冷たく言って、バッグに荷物を詰めて立ち上がった。
恨むなら、俺と付き合っていることを隠したがっている石田を恨んで欲しい。
「つーわけで、あきらめろって」
「待……」
2人組を抜き去って歩き始める。制止の声は聞かなかったことにした。クッキーを渡したかった方はきっと落ち込むんだろうけれど、一緒についてきてくれる友人がいるなら大丈夫だろう。
教室を出て西に傾く太陽の日差しが差し込む廊下を曲がると、途端に外から聞こえてくる音はふっと遠ざかった。でも、蛍光灯の明かりが続くその先に、しゃんと背筋を伸ばして歩いてくる姿が見えた。
「黒」
気づいたのはほぼ同時だった。
「石田」
歩みを速めて隣に並んで、石田の進行方向をくるんとひっくり返す。もう石田の進行方向の先にある教室に用はない。
ついでに細い肩に腕をまわすと、「わぁ」という声があがった。
「かえろーぜ」
「教室で待ってるって言ってなかったか?」
「いーだろ、別に」
「いいけど……」
眼鏡の奥の濃紺の瞳が訝し気に細められ、俺の腕を見て、それからため息をついた。でもそれだけだった。知らない間にできていたささくれに絆創膏を巻かれたような気分だった。
肩に顎を乗っけると至近距離で香ってきたいつもの石鹸の匂いが心地良い。
「なあ、今日クッキー作ってやろうか」
「はあ? いらないよ。大体君、作ったことあるのか?」
「前調理実習で作ったぞ。大丈夫だろ、多分」
「……絶対ダメなやつじゃないか!」
「それならそれでお前がなんとかしてくれるよな」
「僕を頼るな!」
「でも食べ物は無駄にしたくないだろ?」
「……君、クッキー食べたいだけだな?」
「うお」
そう言って、石田はぱしりと俺の腕と頭を払った。それもなんだか嬉しい気がして、つい笑うと、石田は「調子に乗るな」と眉を吊り上げた。