呼び捨て御免 囲炉裏の灰を掻き回しながら、思いついたように杉元が言った。
「そういえば鯉登少尉ってさぁ、最近月島軍曹のこと『月島軍曹』って言わないよな」
鯉登が主張の強い眉毛をひそめた。話題の月島軍曹は厠に立ったところで、今はちょうどこの場にいない。
「藪から棒に何だ」
「いや、樺太に着いたばかりの頃とか、スチェンカの時はまだ月島軍曹って言ってたのに、サーカスの後くらいからか?ずーっと呼び捨てにしてるだろ」
「へー、ちゃんと月島軍曹って呼んでたんだ?俺聞いたことないかも」
白石が両眉を上げて意外そうにする。亜港で合流してから少し経つが、いつも呼び捨てにしているような気がしていた。すっと鯉登は目を細めた。
「簡単なことだ。お前たちは月島のことを何と呼んでいる?」
「月島軍曹」
「月島軍曹」
「月島軍曹」
「「月島ニシパ!」」
杉元、白石、アシㇼパが同じ言葉を繰り返し、チカパシとエノノカが元気に声を揃えて答えてから、
「谷垣ニシパは?」
とチカパシが隣の谷垣に答えを求めた。谷垣の目が、俺も言うのか、と言いたげな躊躇いを見せたが。
「……月島軍曹」
出てきたのは皆と同じ言葉である。
我が意を得たりとばかりに鯉登がふんと胸を反らす。
「ほらな」
「いやだから何なんだよ」
苛つく杉元へ、鯉登は小馬鹿にしたようなため息をついた。腕を組んで、優越感たっぷりといった顔で説明する。
「この中で月島を月島と呼べるのは私しかおらんだろうが。ということで私は私の権利を存分に行使している」
「はあ?」
「あぁ~……」
怪訝な顔になる杉元の隣で、逆に白石は訳知り顔になった。
(特別だって主張したいのね。)
にやにやと頷く白石をおいて、逆に鯉登が杉元に言い返した。
「私からすれば、お前のアシㇼパの呼び方のほうがわからん」
「あァ?アシㇼパさんて呼ぶのに何か文句あんのかよ」
「エノノカは?」
「エノノカちゃん」
「違うではないか。何故エノノカさんではないのだ」
「それは……アシㇼパさんは命の恩人で、狩りのやり方を教えてくれた師匠みたいなもので……」
「ほほぉう」
「とにかくすげーんだよ!アシㇼパさんはさ!」
「感謝……いや尊敬の念からということか?」
「二人ともそのへんにしな~?アシㇼパちゃんの顔がすごいことになってる」
杉元と鯉登が振り向くと、白石が親指で自分の隣を指し示した。隣にいるアシㇼパはというと、頬をどんぐりでいっぱいにしたリスのように膨らまし、ぷるぷると震わせている。
「えっ、どうしたの?アシㇼパさん」
「ナンデモナイッ」
早口でプイッと横を向いたアシㇼパを、おろおろと心配そうに杉元が見やる。なぜアシㇼパの顔が少し赤いのか、杉元だけがわからないらしい。
鯉登は顎に手を当ててその光景を眺めながらぶつぶつと言った。
「ふーむ。月島さん……と呼ぶのも有りか?」
「気色悪いのでやめてください」
「キエエッ」
背後から聞こえた低い声に、吃驚した鯉登が体勢を崩してドタッと床に手をついた。冷ややかに見下ろす月島にしどろもどろになりつつ反射的に弁解しだした。
「いや、違う、これは決して悪い意味ではなく」
「わかっています。……そのまま、普段どおりに呼んでもらっていいので」
目を伏せて月島は鯉登の隣に座った。鯉登はどぎまぎしながら、様子を窺うように、少し首を傾げた。
「普段どおり……?」
「月島と」
短く答えた月島の横顔を、珍しいものを見る目でまじまじと鯉登は見回した。やおら杉元たちのほうを振り向く。
「おいッ、お前ら聞いたか!」
「気色悪いって?」
「そこではないッ!」
杉元とまたしても不毛な言い合いを始めた鯉登の陰で、うんざりとした顔の月島が横を向いた。