Graphium doson 「俺なら君にそんな顔させない」と言うことが出来たならば、どれだけ良かったことか。
秋の夕暮れ。風がぴゅうと吹き抜けていく中、目の前で彼女はぽたりぽたりと涙を溢す。目が腫れ、制服の袖がひたひたとする程となる結末。いつかはこの日がやってくることは、疾うに知っていた。しかしながらそれを阻止する魔法を持ち得てはいなかったのだ。
「源一郎、あのね、私、浮葉さんに、振られちゃった」
嗚咽を堪えながら、彼女は単語をひとつひとつ丁寧に紡ぎ出す。濡れた瞳からは、自分達に向ける太陽のような輝きが消えていた。
自分の主が彼女に対して向ける感情は、間違いなくプラスの感情だった。だが、それが恋心だったかと問われると、正直なところ分からない。それでも彼女の心が主に拐われていることに気付いていた。彼女が主を見つめる眼差し、浮かれるような声色、そして赤らめた頬。挙げ出したらきりがない位、彼女は主に夢中だった。
自分でも気付く彼女の慕情に、察しの鋭い主が気付かなかった筈がない。恐らく、いつかはやってくる彼女からの愛の囁きを、どのようにして躱すかを事前に備えていたことだろう。それが偶々、今日、このときだったということだ。
「――……」
かといって、まさか、彼女が泣きついてくるとは夢にも思っていなかったのだ。勿論彼女を宥める言葉は用意していないし、即興で慰めるような流暢さも持ち得ていない。況してや、震える彼女の身体を抱き締め、「俺にしておけばいい」と言えるような伊達男でもない。今の自分に出来ることは
「……朝日奈、これを」
制服の内ポケットから使っていない白のハンカチを抜き、彼女の目の前に差し出した。だが、彼女は顔を上げることも儘ならない程にぐしゃぐしゃだった。
意を決し、右手を握り締める。
「失礼」
彼女の前に跪くと、止めどなく流るる涙を拭う両手の手首を掴み、それをすっと下ろした。我に返った彼女の瞳に、自分の姿を映し込ませる。彼女には、自分の姿は如何様に捉えられているのだろう。
「今だけでも、君に触れることをどうか許して欲しい」
彼女の頬にそっとハンカチを添える。白の布がじわりと滲み、灰色に変わった。
「俺は、君の笑顔が好きだ。だから、心が落ち着いたら、またもう一度笑って見せてくれないか」
精一杯の想いを告げると立ち上がり、彼女の小さな身体を両腕で包み込む。拒絶されたらそれまでだと思っていたが、彼女は抵抗することなく、再びさめざめと泣き始めた。自分の制服の胸元が、彼女の涙の染みを作っていく。
きっと彼女は、自分の言葉が、彼女が主へ向ける感情と同じものから紡がれたものだと気付かないだろう。だが、今はそれでいい。彼女の瞳に再び光が差し込まれるのであれば。
東の空が夜を知らせにやってきた。この闇はきっと、彼女の泣き顔を包み隠してくれるだろう。それでも、今だけは、自分の身体で、彼女を守りたいのだと、両腕に力を込めた。