『白は鳥』 外はほのかに明るい夜だった。
譲介の前には杖をつく保護者の背中。川原の長い土手の上、白線仕切らぬ道のど真ん中を歳上の男は悠々と歩いた。前方からの歩行者が杖に気づいて脇に寄る。彼と外で行動する時、譲介の目は、見知らぬ人々の気負わぬ気づかいを発見した。
例えば落としたものを拾ってくれる。例えばドアを支えてくれる。親切が発揮される対象の傍らに制限なく動けそうな若者が控えていようと。はじめの時は僕がこの人のツレだと映らないのだろうと思った。ツレを認めた目はすぐにそっぽを向くだろうと。見ないふりの意識すらなく、見ないことができるのが連中だ。譲介にとって親切とは欺瞞の言い換えであった。余裕のあるヤツが弱者を見下して、感謝を求め、己を知らしめるために振るう力。けれど時を繰り返し、人間の一部は当たり前に他者を気づかうのだと十八歳の少年は学ぶに至った。
それは目の前の背中を支える杖のようなもの。決して同行の肘を頼ることのない彼の陰から、彼に代わって、道を開けてくれた相手に譲介はぺこりと頭をさげた。
それは、足を急がせながら帰宅の遅れを電話の向こうに詫びるスーツ姿、一日の出来事をあれもこれもと並べる幼な児に頷く年配者、怒りと涙にまみれた友人への注目を遮りながら寄り添う学生、草のにおいに鼻をつっこむ犬を待つ飼い主、サッと走り出た猫の前でキュッと停まった自転車の形をしていた。
もし今ここで誰かが殴られでもしたら、道にたたずむ親切たちがどっと押し寄せて、暴力を止めるだろう。たとえ殴られたのが若くて頑健そうな男の自分であってもと考えて、譲介は息苦しくなった。
僕は弱くない。
前だけを見つめる。出会った頃から変わらぬ独立独歩の白い外套を。
彼は、ドクターTETSUと呼び慣わされる男は、譲介を庇いはしなかった。金に困らない日々、年齢も法律も跨ぎ越して人体を支配する医術を授けてはくれても、拾った子どもに親愛を見せず、返報もまた求めなかった。
はためく白さが目を焼くたびに譲介は、やはり彼が通わせてくれた高校の記憶が蘇る。医大の門をくぐる鍵にはならない詩歌の時間、しかし眠気の瞼はこじ開けられ、あの人のことだと瞬く間に悟った。白鳥は、
その辺に散らばる、普通のひとびとに染まずただよふ白さが夜にひらめく。
彼は弱くない。
安堵と同時に、感情の昂りを譲介は恥じた。
だいたい場所が悪いんだ。右下にちらりと目をやる。暗さにひたるグラウンドを過ぎた所だった。初めて一也に圧倒された場所。一年前、高校三年生の四月、保護者に拾われた時から二年間、その俊器を聞かされ続けた黒須一也とともに救命活動をおこなう羽目になったのだ。サッカーボールを胸に受け震盪を起こした心臓を一也はてきぱきと現世に繋ぎとめた。手柄を誇らず、感謝を鼻にかけず、正確な方法で、当たり前に。
以来、負けが込んでいる。嫌気のさした己を反対側に振り向ける。白く丸く浮かびあがる影が目を惹いた。家々の明かりで光る満開の桜。きれいだなと感じた譲介の意識は、橋のたもとで左折して、角度のきつい坂道をずんずんくだる背中に引き戻された。
ふもとに着いた足が止まる。十五分は歩いた。休憩だろうか。そもそも何故いつもの車を使わないのか。行くぞと一言、いつもの唐突さに流されて、駐車場を無視するのでどうしたことかとは思いつつ、常に意味がある保護者の行動に黙従した今、
十五分ぶりにTETSUが口を開いた。
「飯は?」
「済ませました」
「そうか。オレはまだだ」
ついでに夜食でも買えと話を閉め、コンビニの入り口に吸い込まれていった。
川のほとりに煌めいて夏は人より虫が集う電飾看板を譲介は仰いだ。えっ。
まさかこれが? 家の近くにもコンビニが在るのを知らないのか? ここにしか売っていないものが食べたかったのなら仕方ないが。確かに車を停めるスペースはないから歩いて来るのは妥当だがじゃあ僕をお使いに出せばいいのに。なんでわざわざ、十五分もかけて。
先に帰ってやろうか。叛乱の芽など一顧だにしない背中が奥に消える。譲介は自動ドアにぶつかる勢いで入店を決めた。
落ち着きはらった腹で通りすがりの棚の手前から春雨スープをもぎ取ると、ツレを置き去りにして早やレジに並ぶ男に追いついた。デパ地下でいくらでも高級な寿司を買える財布を渡される。客をよなげる闇医者と連れ立って、仕事の疲労にじませた大人の列に並ぶ状況は、妙に譲介をそわそわさせた。こうして二人そろって“日常”にまぎれる経験は無かった。会計の順番が回ってくる。カウンターに差し出された商品名をそっと窺う。幕の内弁当430円。
どこでも買える。
財布をあつかう、内心のざわめき開けた手つきの隣に串団子のパックが追加された。レジ横の売り場で見つけたようだ。〈お花見に最適!〉と、手書きの宣伝が譲介にウインクした。
おつりは募金箱へ、財布は持ち主へ、帰途は住宅にはさまれた路地へ。往きに見下ろした桜並木を通りぬける。結局気まぐれなのだと譲介は疑問を解いた。負け犬と蔑みながら僕を拾った時のように。会計の終わり際にふと団子を欲したように。ドクターTETSUともあろう者がまさか花見に子どもを連れ出すはずもなかった。桜を見たいならひとりで見に行くだろう。この時間分、譲介の勉強は遅れるのだ。大学浪人中の身に保護者が課したものは合格だけで、それは譲介の願いと等しかった。
弁当を電子レンジに、薬罐をガス台に任せ、緑茶のしつらえを運んだ食卓の端には、桜色の客が一枚ちょこんと座っていた。袋か服に付いてきたのだろう。それよりも、譲介の座席側にまるごと寄せられた団子のパックが気にかかった。レンジに呼ばれて卓を離れながら、コートを掛けた椅子にもたれる背中を睨む。食べる気がないのに買ったのかと糾すのも悔しくて(答えは決まっている)、温めた夕飯を無言で給仕した。
弁当の蓋を剥がして差し出せば気が利きすぎだと”感心”され、その蓋に団子をひとつ載せやれば若ぇくせに食が細いなと鼻を鳴らされたが、一也ならと、比べられはしなかった。
一也なら、余裕で一パック完食したであろう。同じクラスで過ごした高校時代、午前に弁当を昼に学食を使う姿を譲介は目撃し、やや呆れたものだった。
さて本日消費期限の団子の残りは二本。緑茶も淹れた。このくらい食べきれるさと挑んだ甘じょっぱさを、うまいと思い、好みではないと思った。
選り好みできる潤沢さは譲介の成績と引き換えである。医者に成りてぇんなら先ず学校で一番くらい取れるよなと焚きつけられた炎は赫々と燃えて、二年の間、ドクターTETSUを満足させた。引き取った甲斐があったぜと言わしめた。しかし去年、火勢は衰えた。彼に提出する成績表に初めて一本線以外が印字された。譲介が一也と机を並べた学び舎は県内有数の進学校だった。学業に秀でし者はただ一也のみにはあらず。首位からの陥落をTETSUは怒らなかった。次だなと言った。挽回できなかった。そしてとうとう一也は合格した志望校から譲介は落ちた。それでもTETSUは怒らなかった。次だなとまた言った。
次とはいつだ。
いつまでこの人は僕を家に置いてくれるんだ。二回目の浪人を許してくれるのか。大学六年間? 就職するまで? 開業したら? それともずっと? あの車にいっしょに乗って、大金を払える客たちの御用を聞いて回り、失敗のできない仕事を、ずっと?
無理だ。
僕は一也じゃない。
譲介はねばつく塊を呑み込んだ。食べ進めるほど団子は難物と化した。串の先端を横に倒して白きに噛みつく。頬にたれが付着する。不快だった。拭いてもどうせまた汚れる。とにかく食べ終えてしまおうと、軽くなった串を口の前から外した間隙に、TETSUの指がすべり込んだ。
頬を肌がかすめ、べたつきを広げる。
引いた指先をこすり合わせ、取れねえなと立ち上がり、薬罐の残り湯で湿らせた布巾を持って来てくれた。譲介は礼を述べ、適温の布を顔に当てた。えっ?
驚き、うろたえる口許をほかほかの陰に隠す。ついさっき、一瞬だけ、譲介に触れた指が花びらを摘まんだ。
「昼間だったら外で食べたんだがな」
「――花見だったんですか?」
「あ? 桜の生えてる場所に寄っただろうが」
「花見だったんですか……」
「なんだと思ってたんだよ」
鼻をぬける笑いは答を求める響きではなかったので、譲介も安心して唇を結んだ。
固くなるぞと示された二本目に手をつける。声の抑揚ごと誦じられるドクターTETSUの冒険譚の中に、先代のドクターKなる人と花見に出かけた話はなかった。そうと確言できるほど繰り返し聞かされた思い出の、現し身である一也にTETSUが著しく目をかけ、必ずKの称号を継ぐ男だとあたたかな期待を寄せようと、今日の花見の相手はひとり譲介だった。
僕が一也でないことで、僕だけが知る光景をもらえた。
もっとちゃんと桜を見ればよかったと譲介は思い返して、団子をするりと呑み込む。食べつければ好みの味だった。
対面ではTETSUが湯呑のふちに五指をかけ、口許をおおう仕草で中身を傾ける。飲みにくいだろう不思議な持ち方は、しかし譲介には見慣れたものだった。
見慣れるだけの時間をともに過ごした。「いつまで」は分からなくても、「いつから」は覚えていた。
だから譲介は串を横に倒し、ちいさくちいさく団子を齧った。ゆっくりと噛みしめる。
気まぐれな鳥を引きとめるためこの夜に。