ベルゼブブにはわからない トムズ・ダイナーの定番メニューと言えば、ハンバーガーもしくはホットドッグとポテト。だが、おれの一番のおすすめはパンケーキだ。二段重ねの黄金色に焼けたふかふかの生地、見た目通りの温かな香り。たっぷりの合成バターとシロップをかけて、準備完了。ナイフで四分の一を切り取って、湯気の立つそれを口いっぱいに頬張る。スポンジからシロップとバターが染み出し、バターの風味と甘い香りが鼻腔へ抜ける。コーヒーで一度リセットして、また次のひとくちへ。飲み物は気分次第で、濃縮還元オレンジジュースやミルクでもいい。
《なあV、いいだろ?》
狭いブース席の向かい側から、ジョニーが耐えかねたように言った。
《無茶はしねえって約束するから》
《おまえの約束ほど信用ならないものもないな》
おれはパンケーキをもぐもぐやりながら頭の中で答えた。前に体を譲ったときは酷い目にあった。記憶は断片的で、アルコールに胃も頭もすっかりやられていたし、タバコの吸いすぎで喉がいがらっぽかった。要は好き勝手に羽目を外されたってこと。そしてただでさえ体調が芳しくない今、もう一度やろうなんて気概も理由も持ち合わせちゃいなかった。
《デジタルゴーストなんだから腹は減らないだろ。他人の体だからって空きっ腹に酒ばっか流し込みやがって。ウェアの処理にだって限界があるんだ。自分のせいじゃない二日酔いで目覚める立場にもなってみろ》
《調子にのりすぎたことは謝るよ。けどな、今回は違う。呑みたいんじゃなくて食べたいんだよ》
《おれが食べれば体は満足。おまえも味がわかる。それでいいだろ》
《それだけじゃ足りねえんだよ! それにおまえとおれじゃ好みが違う……》
おれはジョニーの抗議を無視して、そばを通りがかった馴染みのウエイトレスを呼び止めた。
「追加、いいかな?」
「いつものね。コーヒーは?」
「ああ、もらうよ。ありがとう」
ウエイトレスは空になったカップへコーヒーのおかわりを注ぎ、店主兼シェフのトムへ注文を伝えに行った。
《いいかV、食べるってのは味覚だけじゃない、五感を使うんだ。食感に匂い、噛んで飲み込んで腹に収めて。そういうのを全部ひっくるめて『食べる』ってもんであって……》
《講釈垂れるわりに主食はヤニと酒だろ。好みだ? おまえだってダブルAは美味かったって言ってたじゃないか》
《それはそれ、これはこれ、だ。あとピザにはタバスコをもっとかけるべきだな。なあ、頼むよ。自分の体で実感したいんだ》
「だれの体だって?」
腹立たしさが極まって、つい声に出してしまった。ひとつ向こうのブースでバーガーをがっついていた男がちらとこちらをみやったが、それ以上気にすることもなく食事を続けている。頭のおかしなやつも、ホロコールで見えない相手と大声で話しているやつも、傍からしたら大差ない。ナイトシティの日常風景。
今回ジョニーがハンドルを握りたいと騒ぎ立てている理由は、人間の生理的欲求の一つ、『食欲』を満たすこと。生死を別つタイムリミットに迫られている状況を思えば、実に些細で取るに足らないもののように思えるが……しかし肉体を持たないってのは、空腹を感じない一方で、むしろ食べることへの懐かしさや恋しさが募るのかもしれない。ヤニヤニとうるさいのもそれと同じことだろうか。
そんなことを考えていると、間もなくベーコンエッグが運ばれてきた。料理油の芳ばしい香りが漂う。カリカリに焼いたベーコンに、目玉二つのサニーサイドアップ。目玉にナイフを入れると、ぷつりと膜を割って半熟の黄身が溢れ出てくる。完璧な焼き加減で仕上げてもらえるのは常連に許された特権だ。白身を切り分け、とろとろの黄身と一口大に割ったベーコンを包む。口に放り込むとベーコンが砕け、サクサクとした歯ごたえと塩気にまろやかな卵が絡む。ふわふわあま~いパンケーキの付け合せとして申し分ない。
《わかってる、おまえの体だ。でもなんの楽しみもなしに生きるってのは、生きてるなんて言わねえだろ?》
おれは返事の代わりに盛大な溜息をついた。ジョニーのしつこさに。そして自分の押され弱さに。途端に伝わってくるジョニーの嬉々とした感情が腹立たしい。
《起きたときにゲロまみれになってたら、二度と代わってやらないからな》
Vは食いもんに無頓着だ。口じゃああ言っちゃいるが、おれ以上に見境ない。パンケーキにはシロップをかけすぎだし、ジャンクフードも好んで食べる。好き嫌いがないこと自体は悪いことじゃないが、かと言ってけして舌が肥えているとは言い難い。なんでもかんでもウマイウマイと喰いやがる。あの焼き鳥モドキですら。
前に屋台で食った焼き鳥は、およそその名で呼ぶには相応しくない代物だった。見た目だけは『つくね』のように見えるが、串団子かってぐらいデカいし無駄に香辛料が効きすぎている。塩であれタレであれ、食材の味を損なわない程度の味付けと、炭火焼きの香ばしさを楽しむのが焼き鳥ってもんじゃねえのか? ついでに言えば、『ねぎま』や『もも』に『かわ』、そうした代表格の品目すら無いのに焼き鳥屋の提灯を下げていることも気に食わない。少なくともおれは、前にツアーで日本へ行ったときに現地の焼き鳥を食ったから、本物がどんなもんか知っているつもりだ。だからこの件についてだけは、あのアラサカの駄犬に同意できる。あれは、焼き鳥じゃない。しいて言うなら鳥の串焼きだ。
しかしこの腐れサイトシティでは、あのモドキ日本食が一般的なようだ。日本食と言えば寿司も大概だ。養殖のネタが悪いとまでは言わねえが、そこらの屋台で出るようなのは酢飯が妙にパサついてるか水っぽいか、わさびも西洋わさびで辛いばっかりだし、おまけにナイトシティ仕様にカスタマイズされた変な海苔巻きまで登場する始末だ。
中華は幸いにしておおよそ原型をとどめているが……今回はパス。わざわざハンドルを握ったからには食べてみたいものがあった。
ラーメンだ。
おれはジャパンタウンが名所、桜花マーケットへ向かった。日系の地区だから、少なくとも他の地区に建つ店よりは期待できそうだ。そしてこの店にしたのにはもう一つ理由がある。〈SAMURAI〉初ライブのハコの跡地に立つ以上、まずいラーメンを出されていたんじゃなんだか悔しいような気がして、機会があればその味を確かめなきゃならんと思っていたのだ。
店先に足を踏み入れた時点で、周囲の様々な臭いに混じって出汁の香りが鼻をくすぐった。よし、最低ラインをクリアだ。下手な店じゃ出汁ってものを用意してないことすらあるからな。
おれはカウンター席に腰を下ろし、メニューをずらっと眺めた。定番の醤油、味噌、豚骨、塩。サイドメニューにはギョーザと炒飯、アルコール類。なるほど、期待できそうだ。
少し迷って、おれは決めた。
「味噌ラーメン一つ」
焼き鳥と同じく、日本へ行ったときに食べた思い出の一品だ。ラーメン自体は中国発祥らしいが、ジャパナイズされたそれは全くの別物だった。実際食べたのがどんなだったか記憶に怪しいが、とにかくうまかったことは覚えている。
店主の親父は「あいよ」と愛想なく答え、トレーから麺を掴み取った。ザルに入れ、沸騰した湯の中へ入れる。茹で上がるのを待つ間にラーメン鉢に何種類かの調味料と味噌を入れ、出汁で溶く。あっという間に茹で上がった麺を湯切りし、そっと鉢へ流し入れる。トッピングは塊肉の薄切り(確かチャーシューって名前だ)に、ネギ、海苔、メンマ、ゆで卵。最後にレンゲを添えて、おれの目の前に到着。
「味噌ラーメン、おまちどおさま」
湯気とともに食欲を誘う香りがおれの顔を包む。最低限のトッピングはシンプルイズベスト。ネギと海苔の香りがいいアクセントだ。細麺が浸るスープは細かな脂が輝き、その下で味噌が雲母のように揺らめいている。
「イタダキマス」
日本式の挨拶をして、おれは箸とレンゲを手に取った。
まずはスープから。口に入れた瞬間にわかる――うまい。浮いている油もしつこさはなく、思いの外あっさりとした出汁と味噌味にコクを足している。次に麺。細麺を箸で持ち上げ、勢いよくすする。細いながらもしっかりとしたコシがあり、スープとの相性も抜群だ。値段からして予想するに、さすがにトッピングは外注だろう。だが、肝心のスープと麺の邪魔にはならない味だ。
ものの五分とかからず麺も具も無くなり、残ったスープまで飲み干す。鉢をテーブルへ戻すと、店主がじっとこちらを見つめていることに気が付いた。
「何だ?」
「いや……あんた、うまそうに食うねえ。よほど腹を空かしてたんだな」
「飯を食うのは久しぶりでね」
「そうかい」と店主はニヤッと笑った。冗談だと思われたんだろう。
ついがっついてしまったせいか、ちょっと物足りない。追加でチャーハンとギョーザも注文した。おれの食いっぷりに気を良くした店主は「特別だ」とギョーザを一個おまけしてくれた。もちろんこれも美味かった。ナイトシティもまだ捨てたもんじゃないかもな。
帰りがけ、Vのためにギョーザ一パックを持ち帰り用に購入して、店をあとにした。おれのじゃなくてVのエディーでになっちまうが、どうせあいつは気にしない。またウマイウマイと言って食べるところが目に浮かぶ。また近くまで来たときは、Vにこの店を勧めよう。
さてシメの甘味はどうするか。舞い散るサクラのホロを見上げながら、おれはタバコを取り出した。