晴れのち雨、傘はない チップスロットの不具合に、おれはジャッキーとともにヴィクター・ヴェクターの診療所を訪れた。原因ははっきりしている、昨日の仕事のせいだ。
依頼内容は、依頼人提供の暗号鍵チップを用いて、とある金庫から中に入っているものを盗んで来いというもの。金庫は骨董品かってほど旧世代の代物だったから、目的の中身は権利書とか機密文書とか、相応の人間の手に渡ればヤバいブツぐらいのもんだろうと軽視していた。侵入は簡単だった。一番の障害は金庫自体だった。古すぎるが故のというか、今どきのウェアじゃほとんど対応していない、あまりに原始的なカウンター型デーモンが仕掛けてあったのだ。幸いにしてその矛先はおれではなく、暗号鍵のチップへと向かった。異変に気づいておれはすぐに接続を切り、チップを引っこ抜いた。スロット周りにちょっとした火傷を負いはしたものの、ロースト脳ミソになる事態は避けられた。それで結局その場じゃどうにもならんと判断して、クソ重い金庫ごと目標を担いで現場を後にした。フィクサーを通じて依頼人とどうにか折り合いをつけ、報酬の半分はせしめたから及第点ってところだろう。あれをどうにかしたいなら本職のテッキーを雇うなり物理で押し切るなりする他ないと思う。
……というおれとジャックの解説半分、愚痴半分を聞き流しつつ、ドクター・ヴェクターはやれやれと首を振った。
「これで済んでラッキーだったと思え。これだから安物は……スロットは取り換えだ。もうちょいマシなのを入れるからな。金? そんなもん払えるようになってから気にしろよ」と、いつもの調子で。
ほどなく処置もおおよその目処がついたところで、「じゃあ、あとは頼むな」とジャッキーはミスティとデートへ繰り出した。凸凹の後ろ姿が連れだって診療所を出ていくのを見送る。大柄で兄貴肌のジャッキーに小柄で可愛らしいミスティ。例えるならスモウレスラーと妖精?(スモウレスラーほど肉付きはよくないけど、ジャッキーの髪型はチョンマゲを意識したものに違いない)、美女と野獣?(大昔のアニメなら見たことがある)、とにかく雰囲気は正反対もいいところなのに、本当に似合いのカップルだ。
「そんな寂しそうな顔するなよ」
振り返ると、ヴィクがサングラスの向こうでニヤニヤ笑いを浮かべていた。
「置いてかれた子犬みたいだ」
「そんなんじゃ……まあ、羨ましいのは否定しないけどさ」
「おまえさんだって、相手になってくれるやつの一人や二人はいるだろう?」
「一晩遊ぶだけの相手なら両手に余る。連絡先も知らないけどな」と、おれは十本指を立てた手をひらめかせた。もちろん、その十本にも余りにもヴィクは入ってない。入れる予定もない。
先生は呆れた様子で肩をすくめ、施術用グローブを外した。トレーから軟膏のチューブを手にとって、おれのうなじへ薬を擦り込む。少しだけ痛みを感じたが、くすぐったさのほうが勝っている。治療とわかってなけりゃ変な気分になりそうだ。
「それならV、おれとデートするか」
そう、変な気分に――なに? "ヴィクター・ヴェクター"と? "デート"?
「昼飯もまだだし、診察予約も入ってない。もう閉めちまっても構わんだろう。開けておいてミスティの仕事を増やすのもな。まあ、おっさん相手じゃ楽しくは無いかもしれんが……」
「する!」
一瞬のうちに頭を駆け巡った『今日の髪型は大丈夫かな』『適当なパンツ履いてた気がする』『実は聞き間違いでは?』……などという思考のあれやこれやを押しやって、おれは食いつくように返答した。ヴィクは少し驚いた様子で瞬きし、そして笑みを浮かべて首に下げていた聴診器を外した。
「じゃあ、行くか」
リトルチャイナは今日も犯罪と金とネオンその他有象無象で溢れている。ミスティの〈エソテリカ〉の真向かいがけばけばしい外観のストリップクラブだってのも思うところがないでもないが、きっとこの店の踊り子たちもヴィクの世話になっているんだろう。
「このあたりには慣れたか?」
「うん、少しは。まだナビ無しじゃキツいけど」
半歩前をゆくヴィクの横顔をちらちら見ながら、おれは有頂天が表に出ないよう必至で自分を抑え込んでいた。気を抜くとどうでもいいことを際限なく喋り続けるか、スキップでもしてしまいそうで。ひょっとしたらヴィクはおれの緊張を見抜いているかもしれないけれど、それならそれでいい。デートがデートという意味ではなく、単に"一緒にぶらつこう"という意味でも構うものか。
「そこの屋台の焼きそばは旨いぞ。ジャッキー第二のかかりつけだ」
「そういや、おまえさんちの近くにいるフレッドってのには会ったか? まだ? ならおれから話を通しておくよ。格闘家仲間でな。トレーニングするなら機材を使わせてもらうといい」
「トムズ・ダイナーはおすすめだ。早朝から開いてるし、ファストフードの中でもまともなもんを出してくれる」
「そこの路地には不用意に近づくなよ。よくメイルストロームの連中がたむろしてるから」
「一番近い服屋はそこだな。おまえさんの好みに合うかはわからんが」
などなど、ヴィクはツアーコンダクターよろしく近所を案内してくれた。普段は診療所にこもりっぱなしのくせに、おれが思う以上にこの界隈に詳しい。でもまあ、長年ナイトシティに住んでいることを思えば当然っちゃ当然か。
ヴィクおすすめのトムズ・ダイナーで昼食を済ませ、屋台で買ったアイスを舐めつつ南へ向かう。途中、「そこを入ると、かの名高い〈アフターライフ〉だ」とヴィクが路地を指さした。一見さんお断りの、腕利きの傭兵たちの集いの場。今はまだ手が届かないが、ジャックと仕事を続けて、いずれ常連として堂々とその席に着きたいものだ。
やがてワトソンとシティ・センターを隔てる川のそばへたどり着いた。ふと、まだ日も高いのに辺り一帯に影が落ちていることに気づいた。空には暗雲が垂れ込めている。街頭スピーカーからラジオパーソナリティがのたまうには、『グッドアフタヌーン、ナイトシティ! このあとの天気は下り坂、降水確率百パーだ。世の中絶対なんてないなんて言うけど、これに限ってはマジだ。でも夕方には止むから、天然シャワーを浴びたいやつは今のうちに服を脱いで外へ出ろよ! ただし、ご近所さんに通報されないようにな!』
そうこうしているうちに一つ二つと路面に暗い染みが落ち、まもなく"天然シャワー"が降り注ぎ始めた。道行く人々は歩みを早めるか屋根の下に避難するか、あるいは濡れるがままにするか。準備のいい連中は手持ちの傘を広げて路々に花を咲かせている。
「あんなに晴れてたのにな」
「ああ。どうする? どこか適当なバーにでも入るか?」
そんなこと喋っている間にも雨脚は強まり、おれたちも慌てて庇の下へと駆け込んだ。
ヴィクを振り返ると、濡れたシャツが肌に張り付いて分厚い胸板やら腹筋やらが透けてすげえセクシーだった。眼福眼福、とそれをじっと見ていると、「よせやい、穴が空いちまう」と笑われた。
おれがちょいちょい色目を使っているのはヴィクターも気づいているだろう。でも、いつだって難なくかわされてしまう。だからおれも安心してカマかけることができた。もしかしたらもしかすると、泣いてすがれば一回ぐらいヤらせてもらえるかもしれない、けど、それはきっと命取りになる。
雨脚は弱まったり強まったり。しばらく止む気配はない。どうしたものかと辺りを見回すと、露店で売られているビニール傘が目にとまった。
「傘でも買おうか?」おれはヴィクにたずねた。「あんたに似合いそうだ」
それでそのへんのチンピラをボコボコにしてそうだ。返り血に濡れたヴィクとビニ傘、絵になるだろうな。もちろん、ヴィクなら拳だけでも十分だろうが。
「そう言われてもな、傘なんて買ったことねえよ」
「おれもないけど。ほら、記念にさ」
「記念?」
おれとヴィクのデート記念、なんてさすがに恥ずかしくて言えず。おれは店員にエディーを送金し、淡いブルーのビニール傘を手に取った。
「ヴィクター・ヴェクター、初めての傘記念に」
フム、とヴィクはおれが差し出した傘を受け取った。小気味いい音を立ててそれを開き、具合を確かめるようにくるりと一回転させる。そして傘を体の前で差すと、おれの肩に手を添えて体を引き寄せた。
「肩幅でかくて悪いな。そっち、濡れないか?」
クソ、どこまで紳士なんだ。おれはうつむき加減に小さく頷き返すことしかできなかった。濡れた路面に険しい顔のおれと、ニコニコのヴィクと、傘の色を透した空が映る。青空だなあ、なんてバカみたいなことを考えながら、おれはヴィクを置いて駆け出したくなるのを堪え、歩調を合わせて足を動かした。
この日は久しぶりの大雨が降った。
診療所は地下にあるため、出入り口は外の階段を伝ってきた雨水の侵入を許していた。排水口が設けてあるおかげで、室内の被害は大したことはない。予報では小一時間もすれば弱まるとのことだが、予報とは往々にして外れるものだ。もし排水溝すら溢れるようなら土嚢か何か置いたほうがいいかもしれない。
一瞬大きくなった雨音に、おれはモニターから顔を上げた。出入り口のドアが開いたのだ。こんな天気に転がり込んできた患者か、あるいはミスティか、しかしその姿は一向に現れない。代わりに床に伸びる人影が目に入った。警戒心を抱く間もなく、それが見慣れた友人の背格好だと気づく。
「V?」
まさか動けないほど状態が悪いのだろうか。立ち上がって出入り口まで向かうと、濡れ鼠と化したVが戸口に立っていた。水分を含んで重くなったジャケットが、少しばかり肩からずり落ちている。
「何してる、入れよ」
「いや、大した用じゃないんだ。ツケを払いに来た」とV。
「ツケ? キロシのならこの前完済したろう?」
「もっと前のやつ」
もっと前。おれはこの半年のことを振り返ってみたものの、たった半年だというのに思い当たるフシが多すぎるということだけ思い出した。そうしている間にも、Vは相当の額のエディーを振り込んできた。
「じゃ、おれ行くから」
「V、待て」
おれは咄嗟に引き止めた。外はたいして寒くもないのに、掴んだ手首は冷たい。それが血の通わないインプラント仕込みのせいなのか、こいつの体が冷え切っているせいなのかはわからない。おれは少し迷って、口を開いた。
「この天気だ、雨宿りしていったらどうだ?」
「遠慮しておく。あんたの仕事場をびしょびしょにしたら悪いし」
「気にするこたぁねえよ。普段から血だなんだで汚れることのほうが多いんだ、知ってるだろ」
「うん、まあ……でも時間が無いんだ」
そんなことは知りたくないほど知っている。これ以上何を言って引き止めればいい? そもそも引き止めるべきなのか?
おれは視線を彷徨わせ、目に入ったものに答えをなすりつけた。
「じゃあ、ほら、傘を貸してやるよ」
Vはおれが指さした先、隅に立てかけてある青いビニール傘をちらと見やり、珍しいものを見たとでもばかりに眉を持ち上げた。
「……いや、気持ちだけ受け取っておくよ。こうも濡れてちゃ変わらないしな」
「風邪をひくぞ」
「ああ、それもいいかもな」
ただひたすらに雨を浴びるVは、全身でそれを感じ取っているようだった。肌を打つ雨粒、アスファルトから立ち込める埃っぽい空気、街全体を包むホワイトノイズ。
重くなった前髪や鼻先からから雫を滴らせつつ、Vは出し抜けに小さく笑った。
「最近さ、すげえくだらないことが惜しいんだ。死ぬことを前提に生きてるからかな。頭ン中じゃそれと逆のことをしてるやつが居座ってんのに。でも考えてみれば、誰だってそうなんだよな。"生きてりゃ死ぬ"、当たり前のことなのにさ。なんか笑える」
そう言ってクスクスと笑い声を立てるVは、その実、泣いていたのかもしれない。雨に濡れそぼってわかりにくいだけで。
「ならおまえさんは、おれが死ぬことを考えたことがあったか?」
「そういや無いな」とVは目をぱちくりさせた。「……そうだな、きっとあんたは、あと少なくともウン十年は生きて、ヨボヨボのじいさんになってから死ぬんだ。ミスティやあんたの世話になった連中に見守られながらな」
「そこにおまえもいてほしいと思わないわけがあるか?」
握った拳が震えるのがわかる。我ながら意地悪な問いだ。でも本心だった。だからこそ滲んでしまった怒りに、後悔はない。
Vは怯んだように唇をこわばらせ、おれから背けるようにして空を見上げた。そして再びこちらを振り返り、くしゃくしゃの笑顔を浮かべて言った。
「いいなあ、それ」
雨が降るたび、おれはこの笑顔を思い出すだろう。