グッドコーポナイト「あ」
「あ」
シティセンターの路地裏で、Vとジャッキーはそろって声をあげた。ジャッキーはひと仕事終えたばかりで、さて一杯やろうかと雑居ビルから出てきたところであった。一方のVは皺だらけのスーツ姿で、壁にもたれて座り込んでいた。この街では道端に転がる行き倒れはもちろん死体すら珍しくはない。それがよく知る背格好ではなかったら、ジャッキーは気にも止めなかっただろう。
「よう、ジャック。ええと、マジか、偶然だな」
Vは歯切れの悪い口元へ手をやった。だがその口角についた傷を見逃すジャッキーではない。それに目元の痣や白いシャツに散った赤褐色の染みまでは到底隠しきれるわけもなかった。
ジャッキーは親友の前に屈み込んだ。
「誰にやられた?」
低く問う声にVの目が泳ぐ。その視線が主に向けられていたのは、ナイトシティの夜に煌々そびえ立つ某高級ホテルだ。当然、アラサカ社傘下のものだろう。
「おいおい、天下のアラサカ様が荒事とは穏やかじゃねえな。どんなヤベえ取引してんだ?」
ジャッキーとてこうした施設が企業間の密会や、いわゆる枕営業に使われることを知らないわけではない。企業戦争然り、取引が暴力沙汰に発展すること自体はありふれているとして、しかしこうした目立つ場所では珍しい。たいていは人目をはばかるような場所で、なおかつ表沙汰にならぬよう根回しされているものだ。Vもその下支えとしてそれなりに訓練を積んでいるはずだが、この様子からしてかなり手酷くやられたと見受けられる。
するとVはまたも視線を外へ投げ、「あー」とか「うー」とか無意味な引き伸ばしをしてから、ようやく口を割った。
「いや、そういうんじゃなくて……まあ、通常業務の一環だよ。営業活動のさ」
「ああ?」
「ほら、世の中そういう趣味の野郎もいるだろ? 今回は当たりどころが悪かったっていうか、合意の上っていうか」
「だからって、そんなザマになっていい理由なんか無いだろ!」
打って変わったジャッキーの剣幕にもVは怯んだ素振りすら見せず、ただ疲れたように肩をすくめた。
「仕方ないだろ。お上に逆らおうものなら良くて減給、最悪クビが飛ぶ。ちょっと休んでから出ようかとも思ったけど、延長料金は経費で落ちないからな。なけなしの寸志からさらに天引きされたんじゃ大赤字もいいとこだ」
「トラウマは? 社員特典で加入してんだろ?」
〈トラウマ・チーム〉は名の知れた救急救命サービス企業だ。顧客に生命の危機が迫ると、必要とあらば鉛玉を使ってでも救出する。契約料金が高いことでも有名だが、大企業アラサカの正社員ともなれば福利厚生に含まれているはずだ。
「一時的に通知機能をオフにしてたんだ。あの制服は好きだけど、ヤってる最中に踏み込まれるのは勘弁だな」とVは笑みを形作ろうとして、傷の痛みに頬を引きつらせた。
ジャッキーは依然として険しい表情でVを見下ろしている。Vは言い訳めいたものを言おうとして口を開きかけ、しかし出てきたのは小さなため息だった。やっと申し訳無さそうに眉尻を下げる。
「なあブロダー、そんな『助走をつけて殴りに行く』みたいな顔すんなよ」
「違うぜブロダー。これは『ショットガンでそのタマ吹っ飛ばしてやる』の顔だ」
「変わんねえだろ」
二人は同時に笑いだし、Vは痛みに少しうめき声を混じえた。
ジャッキーが差し出した手を取り、Vは腰を上げた。が、強く引っ張られたわけでもないのに半ばジャッキーを押しのけるような形で前へよろめき、向かい側の壁面へと手をついた。そのままえずいて嘔吐し始める。ジャッキーは黙ってその背をさすってやった。
数分もすると落ち着いてきたようで、Vは無言でサムズアップを掲げた。大丈夫だ、と言いたいらしい。それが強がりだとジャッキーはわかっていたが、もっと深刻な状態ならばそうと言ってくる。そのあたりの分別はつくのだから余計に始末に負えない。
ジャッキーはVの体に腕を回して一気に担ぎ上げた。肩の上から情けない悲鳴が聞こえたが、構わず歩き出す。ふと漂った情事の残り香にVのものではない香水の匂いが鼻を突いて、その足取りは意図せず荒くなった。
「ちょっと、痛えんですけど」とV。
「おうおうコーポラット様は繊細だな。お姫様だっこしてやろうか?」
「キャーすてき抱いて」
ジャッキーは棒読みで返すVの尻を鼓を打つように一つ叩き、そしてキャブを拾うべく表通りへと向かった。
社宅アパート前に着くと、ジャッキーはVに肩を貸しつつ部屋まで向かった。エレベーターを降り、立っているのもやっとといった様子のVの手を取って生体スキャナーにかざす。その手首が以前より細くなり、おまけに拘束の跡であろう赤黒い筋が一周していることに気づく。うっ血の幅からしてベルトかネクタイか。それに酒とサプリメントまがいの薬を主食とする日々が続いているのだろう。もはや腹立たしさを通り越して悲しくなってくるが、指摘したところで優先順位を変えるような人間ではないこともよく知っていた。
玄関をくぐってすぐ、リビングへと続く廊下には壁に沿って段ボール箱がいくつか積み置かれている。昇格に伴い引っ越しをしたときの荷物だ。手狭なワンルームからセミスイートを思わせる部屋へグレードアップした。ただし、それも一年以上前になる。いまだに片付いていない、と言うより、段ボール箱をそのまま収納として使っているらしい。注意しても、当人は「大した量じゃないし」「会社にいる時間のほうが長いから」などと言って歯牙にもかけない。仕事のこととなればあれこれと気の回る人間だが、いざ自分の身の回りとなると途端に無頓着になるのだ。
うっすら埃を被ったダンボール箱のわきをすり抜け、ジャッキーはまずバスルームへVを連れて行った。眠たいのか具合が悪いのか、ぼんやりとしたままのVを便器へ座らせ、バスタブに泡入浴剤を入れて湯張りを待つ。その間、ネクタイを外そうと悪戦苦闘しているVの手を払って代わりに外してやり、テキパキと衣服を脱がせていった。首や胸、背中に大腿部、ありとあらゆるところに付けられたうっ血や浅い切り傷が布を一枚剥ぐ度に次々と露わになり、ジャッキーは思わず青筋を立てた。むしゃくしゃした感情のままに脱がせた衣類を籠に放り込んでいると、Vが「皺になる」とぼやいて眉をひそめた。ジャッキーは無視した。
今度こそお姫様だっこをして、筋張った体をバスタブの中へ下ろす。傷に染みたらしくまたも呻き声があがったが、表情はだいぶ穏やかになっていた。
「お湯加減はいかがでしょうか、コーポラット様?」
「んー、くるしゅうない」
「そいつぁようござんした」
ジャッキーはスポンジを手に取り、Vの体を洗い始めた。こうして介抱するのは今回が初めてのことではない。酔いつぶれて吐物まみれになったり、あるいは休日なのに連絡が取れない場合はたいてい疲れ切っていて動くことすらままならないような状態だ。そんなとき、こうして風呂に入れてやることもしばしばあった。
手間ではあるが、自分にすっかり身を預けてくるペットを相手にしているようで悪い気はしない。むしろ、どこの馬の骨とも知れない人間との情事の跡にまみれたままにしておくことのほうがいたたまれない。ジャッキーはいつもよりも丁寧にスポンジを滑らせていった。
「なんかやらしい気分になってきた」とV。泡で見えないが、彼の股間は少しばかり兆しを示しているのだろう。
「あのな……」
「仕方ないだろ。こっちは痛めつけられてばっかりだったんだから。あーほら、なんだっけ、据え膳食わぬは生き恥?」
「そんな重い据え膳、食う気も失せるって」
ジャッキーとて男だが、さすがに怪我人相手に手を出す気はない。だから一つ昔話を語って聞かせることにした。
「そういや前回の仕事でな」
「そういやって何がだよ」
「まあ聞けって。工業地帯で標的とチェイスしててな、それでやっこさん生コンクリートのプールに落ちちまったんだ。浮かんでこねえしもういいだろうと思ったんだが、依頼人は死体の写真を見ねえと報酬は無しだって言うんだ。仕方ないからどうにか標的を取り出して、でもコンクリまみれで誰だがわかりゃしねえ。洗ってやったんだが、そいつの顔は真っ赤に焼け爛れてて、何というかちょっとグズグズになってた。ホースで水をかけると……」
「わかったもういいって」
この野郎、と不貞腐れたVが中指を立てる。ジャッキーはその中指を握ってクツクツと笑った。
体を洗い終え、次は頭に取り掛かる。シャンプーを泡立てながらわしわしと揉むように洗う。やがてジャッキーの低い鼻歌が浴室に響き出した。Vは目を閉じ、夢現に漂いながらそれに耳を傾けた。
体が温まったおかげで体力も持ち直したのか、Vはあくびをしつつも自力でバスタブを出て身支度を始めた。ジャッキーは先にダイニングルームへと戻り、キッチンカウンターの上のウイスキーをグラスに注いだ。それをちびちびやりながら、ほとんど空の冷蔵庫から賞味期限がギリギリのミルクを出して温め、ケースの底でカチカチになった砂糖を砕いて加え、仕上げにほんの少しウイスキーを垂らす。
Tシャツに下着だけをまとったVがやってきて、ジャッキーが持つウイスキーのグラスに手を伸ばした。
「おっと、おまえはこっちだ」ジャッキーはその手をするりとかわし、マグカップを手渡した。
「何これ」
「ウェルズ特製ホットミルクでござい」
「えー……」
Vは不平を漏らしつつ、カップから立つ湯気に顔を寄せた。甘い香りに、後味のようなアルコールが鼻腔をくすぐる。一口すすり、ほうと息を吐いた。
「うまいだろ」
「うん」
「よし、それ飲んだらさっさと寝ろ」
そう言ってジャッキーはVの背中に手を添え、寝室へと押しやった。そこにある家具と呼べそうなものはやけに立派なクイーンサイズのベッドとナイトテーブル、そして相変わらず片付いていない段ボール箱がいくつか。にも関わらず、ファイルやらタブレット端末やらがその上を所狭しと散らかしていた。
ジャッキーはベッドの上からそれらをどかし、Vを座らせた。簡単に傷の手当てをし、念のためエアハイポを一本打っておく。できれば馴染のリパーに診せたいところだが、Vは滅多なことで他人を信用しないし、今のように判断力が鈍っているときは特にそうだ。親友の紹介であろうと、頑として首を縦に振らないだろう。
手当が終わると空になったマグを取り上げ、横になるように促す。大人しく従ったVの体に上掛けを引き上げた。
「そっちも仕事上がりだったんだろ。手間かけて悪いな」
「いいってことよ。それよりちゃんと休めよ。つっても、どうせ明日も出社なんだろ」
「半休は取れた。すごいだろ、あのクソ上司から勝ち取った今月初の休みだぜ」
「ツッコんでほしいのか?」
「ツッコみたいの?」
ニヤリと笑うVの額をジャッキーは軽く叩いた。「じゃあまたな」と踵を返そうとしたところで、ジャケットの端をぐいと引っ張られた。
「なあ、泊まってけよ」
「ヤらねえぞ」
「わかってる。一人寝が嫌なんだよ。それに寝過ごしちまうかもしれねえし……な、朝飯奢るからさ?」
ジャッキーは断ろうとして、結局はこちらを見上げるVの目に屈した。捨て猫か何か、小動物を彷彿とさせる目だ。そんなことだから嗜虐心を煽るんだ、と言ってやりたいところだが、うまいこと茶化されるのがお決まりの流れだ。
「肉食いてえな」とジャッキー。
「朝から重いな。わかったよ」
「デザート付きで」
「デザート付きで。ディール?」
「ディール」
ジャッキーは渋々を装ってうなずき、ジャケットとブーツを脱いでVの隣へ横たわった。Vの方から手を出してくるのでは、とほんの少しばかり警戒していたが、彼は言葉通りただ寝たいだけらしく、ジャッキーの胸元に身を寄せて丸くなった。その仕草に、ジャッキーはしばらく前に出会った猫のことを思い出した。
あの大きな瞳をした無毛の猫は、今でこそ地域猫としてリトル・チャイナの片隅をのさばっているが、当時はガリガリに痩せこけ降りしきる雨に震えていた。ひとまず温めてやろうと懐に入れると、野良としてせめてもの意地か、手足を突っ張って爪を立てていた。それから人肌に膝を折り、丸くなってまどろみ始めるまでそう時間はかからなかった。
あの猫、ミスター・ブライトマンよりはよほど扱いにくい、けれど誰より忠実な親友を腕に抱き、ジャッキーも目蓋を下ろした。