玲たる金糸の指通り シマボシが料金を手渡して商品を受け取ると、青年は帽子を取って礼を言った。
「はい、確かに代金、受けとりました。いつもありがとうございます」
「こちらこそ」
シマボシが、イチョウ商会のこの商人と出会ってから数ヶ月ほどが経っていた。髪の長い青年は、代金を鞄にしまった後、何か考え込むように下を向くと、シマボシの方を向いた。
「いつもお世話になります。アナタが買ってくれるおかげでクビを免れてるところあるんですよ」
「それはキミが仕事をさぼりがちだからだろう?」
「なんでそれを」
「ギンナンさんが愚痴を言っているのを聞いた」
それを聞いてウォロは笑った。
「……まあ、それは置いておいて、そのことについて個人的にも何かお礼したいなーって思って。どうですか?」
シマボシは、彼のその口調になんとなく計算高さを感じた。今までもこうやって、女性の顧客の人気を得てきたのだろう。しかし、彼の提案は魅力的だった。ひとつ、試したいことがある。
「そうだな、じゃあ明日の夕刻、湯浴みをした後に私の宿舎の部屋に来てくれないか」
「はい、お安いごよ……って、はぁ?!」
ウォロは素っ頓狂な声を上げてシマボシの方へ眼をやった。
「ええ……アナタって印象とは違って結構そういう……まあ、行きますけど」
「ああ、待っている」
ウォロは帽子をかぶりなおして、幌の方へと歩いて行った。シマボシは彼を見送り、部屋に戻る。
彼が来る前に準備をしておかなければならない。
「ジブンの髪の手入れをしたい、ですか……」
「先に湯浴みを頼んだのはそのためだ」
「……本当にそれだけですか?」
「そうだが、やっぱり駄目だろうか」
「い、いえ、そんなことないです……すみませんね、なんか」
訳の分からないことを言っている男を座らせて、シマボシは道具箱と、湯の入った桶を彼の隣に置いた。
以前から、この行商人の美しい髪の毛に惹かれていた。見目によく気を使っているらしく、結ってある状態でさえよく手入れされた髪の美しさが手に取るように分かったのだ。髪をおろせば、どれほど美しいのだろうか。触ればどれほど滑らかなのだろう。ずっと、それが気になっていた。
「じゃあ、さっそく触ってもいいか」
「はい。お願いします」
シマボシは、いつもよりも軽く結い止められている結い髪に手を触れ、髪の中に見えないように隠れていた生成色の髪紐の結び目を解いた。
ぱさりと広がった長い金髪は、薄明るい中でも窓からの僅かな夕日に照らされて光沢を見せた。想像していたよりも彼の髪の量は多くなかったが、長さは背の高い彼の腰ほどまであり、床についてしまいそうなほどだった。指を絡めれば、するすると指の間を金の髪の毛が落ちて行く。
シマボシは箱から目の荒いブラシを取り出した。
「まずはこれを使う」
一応頭皮に当てるものだ。ウォロに手に持ったものを見せると、彼はブラシの毛を一本押した。
「良い品ですね」
「大まかな埃などはこれで落とすんだ」
シマボシは彼の髪の中程を左手で軽く掴み、頭頂から順にブラシをかける。
しゅっ、しゅっ、と、全く引っかかることなく硬い毛束は髪を通り過ぎて行く。
「君は髪を良く褒められるんじゃないか?」
「男の髪なんて褒める人はいませんよ。そういえばアナタは短髪ですね」
「ああ。手入れが大変だからな」
確かに、女性として長い髪に憧れないことはないが、今は仕事が忙しく、毎晩髪を時間をかけて梳くようなことはしたくない。
「シマボシさんなら伸ばしても似合うと思いますよ」
「櫛や簪を売りつけたいだけだろう?」
「ふふ、ばれちゃいましたか」
悪びれた様子もなく彼は楽しそうに言って、再び黙り込んだ。
大方髪の毛にブラシをかけ終わり、シマボシは道具を箱の中にしまう。そして、手拭いを取り出して、桶に入れた湯に浸した。桶の上で手拭いを絞り、水がぽたぽたと落ちる。
「髪なら洗ってありますので湯を使う必要は……」
水音を聞いたウォロが振り返ったため、シマボシは黙って彼の前に手を広げ、小瓶を見せた。
「ああ、花油ですか」
彼はすぐに気がついた。花弁から絞った油は、古来より髪に艶を出すためによく使われている。
「これを湯に少し溶かしてあるんだ」
シマボシは暖かい手拭いをウォロの髪の毛に当てた。髪を逆立てることのないように、慎重に上から下に、表面から奥に、水分を染み込ませるように手を動かす。
しばらくそうして、シマボシは手拭いをそばに置いた。水気を含んだウォロの髪の毛を、指先でそっとすくって眺める。
「……あの、シマボシさん、どうしました?」
動きを止めたシマボシの方をウォロが不思議そうに振り返ったため、慌ててシマボシはその手を離す。
まさか髪に見惚れてしまっていたなど言えなかった。
「す、すまない、少しぼーっとしてしまった」
シマボシは早口でそう言って、手元にある別の乾いた手拭いで、水分を軽くふき取る。
次は最後の工程だった。
「最後に、櫛を使わせてほしい」
そう言って、シマボシは手元の道具箱を開けた。もう一つ、小さな桐箱を取り出して、蓋を開ける。
昨日用意した、花油をしみ込ませた布をそっと捲れば、一本の櫛が現れる。シマボシが部屋の奥から引っ張り出してきて、彼の髪に使うために準備していたものだ。
シマボシがそっと箱から櫛を取り出して掌の上に置くと、ウォロはそれを覗き込んで言った。
「これはかなり良い櫛ですね」
櫛は確かに高級なものだった。そののつやつやとした焦げ茶色の表面を眺めながら、シマボシはぽつりぽつりと呟く。
「故郷にいた頃、私がヒスイ地方に行くと知った友人がくれたんだ。しばらくは私が使っていたんだが、髪を切ってしまってからは数年間使っていなかった」
「故郷、というと……そういえば、シマボシさんはどこから来たんですか?」
「ホウエン地方だ。ここよりずっと南にある」
「それはさぞかし暖かいところなんでしょうね」
シマボシはウォロの髪に櫛を立てた。そのまま、すっと髪を梳いていく。なんどか他愛のない話をしたが、しまいにはそれも無くなった。部屋の中に二人分の呼吸音と、髪の毛を櫛が通る僅かな音だけが響く。
いつの間にか日は沈んでいて、窓から差し込むのは夕日から月明かりに変わっていた。月光に照らされた金髪には、昼とはまた違った儚げな美しさがあった。
櫛が通るたびに男の美しい長髪は、一本一本が広がり、そしてまた纏まって落ちる。さらりとしたそれを何度も櫛で梳けば、花油が少しだけ髪に浸み込んで、一層金色の髪は光沢を増した。
「……綺麗だな」
思ったことが口に出てしまっていたことに気が付くのに、少し時間がかかった。弁解だの言い訳をしようとして口を開こうとしたが、その前にウォロが前を向いたまま言った。
「ありがとうございます」
てっきり茶化されるだろうと思っていたため、驚いた。
シマボシはそれには答えず、ただ櫛を動かし続ける。
しばらくそうしたのち、最後の一束の毛先まで櫛をするっと通し終えて、シマボシはついに櫛を箱に置いた。
「これで全部だ」
全て終わってしまったことに、何となく寂しいような気分を覚えながらも、シマボシは呟いた。ウォロが振り返る。
「ありがとうございます。実を言うと、最初はそんな提案されたことに驚いていたんです」
ウォロはそう言って、口元に手を当ててくすりと笑った。
「たまには人に髪を梳いてもらうのも良いものですね」
シマボシから見て、ウォロはあまり本心を見せない男だ。いつも何かを隠しているような、何かを企んでいるような顔をして笑っている。それでも、先ほどの彼の言葉が偽りではないのだろうということは、シマボシにも十分に分かった。
「こちらこそ感謝する」
わがままに付き合わせてしまった自覚はあったが、シマボシは充足感を覚えていた。
彼の表情は、すぐにいつもの商人らしいわざとらしい笑みに戻る。
「では、また欲しい商品があれば、何なりとお申し付けくださいね」
「ああ。よろしく頼む」