夏の夜空に「『花火より、アナタの方が綺麗ですよ』……少しベタすぎる気もしますが、これで練習は十分でしょう」
浴衣の襟を整えながら何度口に出したか分からない言葉をもう一度繰り返した時、机の上に置いておいた携帯電話が鳴った。散らばった財布やらなにやらの中から慌てて携帯電話を拾い上げる。
「もしもし?」
「私だ。そろそろ駅に向かおうと思っているんだが、そちらの準備の様子はどうだ?」
「もうほとんど完了です。今から駅に向かいますね」
「分かった。じゃあまた後で会おう」
簡潔にそう告げて、電話の相手――シマボシは電話を切った。一見普段と変わらない彼女の口調の節々に楽しげな気配を感じ取り、ウォロは上機嫌で携帯や財布を小物入れに放り込んでいく。
シマボシがこの地方に引っ越してきてから、初めての花火大会だった。案内するという名目で彼女を祭りに誘い、オッケーを貰えたのはつい二週間前のことである。前々から彼女に片思いしていたウォロにとっては絶好の機会であった。そして、これを機に告白をしようと計画している。
祭りのクライマックス、最後の花火を二人で見上げるときのことを考えると自然と頬が緩んだ。
「っと、そろそろですね、時間」
時計を見ると、すでに出発の時間だった。待ち合わせ場所、最寄りの駅に向かわなければならない。
普段はあまり利用者の人数が多くない駅ではあるが、今日は人が多く、ウォロと同じように浴衣に身を包んだ人々も何人も見かけた。
待ち合わせ場所、駅前の広場に目当ての彼女の姿を見かけて、ウォロは駆け寄った。
「すみません、待たせちゃいましたか?」
「いや、今来たところだ」
「……浴衣、お似合いですね」
青色のシンプルな浴衣は、彼女らしくてとても良く似合っていた。彼女は普段から露出の少ない服を着ているが、今日も首元が黒色のハイネックで隠れてしまっていたのは少し残念だった。しかし、他の男の視線を気にしなくて良いという点ではウォロにとって都合が良い。
彼の言葉を聞いたシマボシは小さく微笑む。
「ありがとう。そちらも、よく似合っている」
彼女はさらりと褒め返した。
折角だから、と引っ張り出してきて、ネットや本の情報で何とか着た浴衣を褒められ、ウォロは驚く。
「えっ、その、ありがとうございます。初めてなんですけど、上手く着られていますか?」
「初めてなのか? 相変わらず器用だなキミは」
赤くなった顔を見られたくなくて、ウォロは目を逸らした。
「そろそろ電車来ますし、行きましょうか」
数駅先で下車し、祭りに向かうらしき人について会場に向かえば、夕日に照らされた道に、屋台の明かりがいくつも並んでいるのが見えてくる。
「まだ開店準備中の店もありますね」
屋台の間を歩くと、様々な食べ物の良い香りが漂ってきた。
「こんなにたくさんの出店が」
「お祭り、あまり来たことがないんですか? 小さい頃とか」
「幼い頃は近所の祭りに参加させてもらえなかったんだ」
シマボシの実家は厳格な家庭だったと聞いているから、祭りに連れていってくれるような家族は居なかったのかもしれない。
いつもはあまり見せることのない、きらきらした目であたりを見回す彼女の隣を歩いているだけで幸せだった。
「何か食べますか」
ヨーヨーや射的にも興味を示しているようではあったが、やはり普段から食べることが好きなシマボシらしく、目線の先は専ら食べ物の屋台に向いていた。
「だが、種類が多くて選べないな……」
「別に一つに絞らなくてもいいじゃないですか」
そう伝えると、シマボシの顔がぱっと明るくなった。
正直に言おう。物凄く可愛い。
「……そ、そうだな! じゃあまずは、あれはどうだろうか」
そう言った彼女は、早速焼きそばの屋台を指さした。
二人が祭りの会場に来てから二時間後。
花火大会の間だけ河原に並べられた簡易ベンチに並んで座り、ウォロは目の前を流れる川を眺めている。日はすっかり落ちてしまっていた。
二人の周りにもベンチがいくつか置かれていて、カップルらしき組み合わせが何組もいた。少し前までのウォロなら、自分たちもカップルのように見られているのかと思って喜んでいただろうが、自分でも今その余裕がないことは分かっていた。
「ウォロ」
突然呼びかけられ、ウォロは慌てて隣に目を向けた。
「は、はい! 何でしょう」
「……大丈夫か? 顔色が」
「いえ! 物凄く元気ですから!」
気づかわしげにシマボシが顔を覗き込んできたが、首を横に振った。
「よければ食べるか?」
そういって彼女は、使っていなかった方の爪楊枝をたこ焼きに突き刺して、ウォロの口元に近づけた。
「ありがとうございます」
「……美味しいか?」
「はい、もちろん」
「……! それは良かった」
シマボシは嬉しそうな声で述べた。ここに来たときは少し緊張していたらしい彼女も今ではすっかりと空気に染まって楽し気だった。そして、その隣には空になった食べ物の容器がいくつも積まれている。
「せっかくだから、屋台の食べ物を沢山食べたい」
最初に買った焼きそばを食べ終えた後、彼女はそう言った。
己の胃袋の限界を悟ったウォロは早々に自分の分を買うのを諦めたが、シマボシは新しく食べ物を手に入れるたびにその一部を彼に分けてくれた。シマボシでなければもちろん断っていたが、美味しいと伝えると嬉しそうに顔が綻ぶ彼女に対して断れるわけがなかった。
目の前の空を見上げれば、いつの間にか上がり始めていた花火はクライマックスに差し掛かっている。
彼女に伝えようと思って、何度も練習したあの言葉を伝えるには今しか無い。口を開きかけたが、思い直してウォロは黙り込んだ。食べ過ぎで胃の調子が限界の今、格好よく決められる自信は無いに等しい。機会は待つべきだろう。
しかし、何も言えないままに最後の花火が空を飾った。いつの間にか食べ終えていたらしいシマボシが、容器を袋に片づけながら空を見上げて呟く。
「綺麗だな……」
もちろんそう言ったシマボシの姿は綺麗に違いないのだが、ウォロはただ「そうですね」と返して、彼女の見上げる方を見つめる。花火は皮肉なほどに美しかった。
「送ってくれてありがとう」
「気にしないでください、ちょっと遠回りするだけなんで」
シマボシの住むアパートの部屋の前で、彼女は錠に刺した鍵を回した。祭りの会場の喧騒も、ここまでは届かない。扉の開く音を聞きつつ、ウォロはぐるぐると様々なことを考えていた。
もし、あの時練習の通りの言葉を口に出来て、そして彼女がそれを拒絶しなければ、今、もしかしたら家に上がらせて貰えたのではないか。いや、流石にそれは手が早すぎる。別にすぐにそういうことをしたいわけではないが、多少期待してしまっていたとしても許されたい。
(でも結局、言えなかったな……)
少し落ち込んでいると、シマボシがドアノブに手をかけたまま振り返る。
「その……今日は、本当にありがとう」
とても楽しかった、と続けて、少しはにかんだように彼女は微笑んだ。その表情を見ると、落ち込んだ気分が少しずつ晴れていく。
結局、ウォロの理想通りの展開にはならなかったが、それでも彼女が祭りを楽しんでくれたなら、そして、その手助けを自分ができたのなら、それ以上に嬉しいことは無い。
「こちらこそ、今日は付き合ってくださってありがとうございます。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
想いは、また別の機会に伝えることにしよう。