ホワイトデーの話「同じものを返すのは芸がないってのは分かってるんですけど、もう全然売ってなくて…!」
三月十四日、午後九時。夕食を終えた後、ゆっくりと茶でも飲もうかというタイミングで、唐突に差し出された紙袋の意味が分かるまで数秒。思えば、帰宅してからのウォロは今までやたらとそわそわしていた。一月前にシマボシが渡した物の、いわゆる「お返し」だということは理解できたが、彼の言葉の意味は分からない。机の上に置かれた濃い色合いの紙袋にプリントされたロゴを見れば、近くの駅の地下にある、最近話題の店のチョコレートであることはすぐに分かった。
「悩んでたら結局、今日まで何を返すか決められなくて、仕事終わりに買いに行ったらこの店のチョコレート以外の洋菓子が悉く売り切れに……」
「そんなこと気にしなくて良い、ありがとう」
「シマボシさんが気にしてなくてもジブンは気になるんです……」
そんなことで落ち込むなんて、と呆れた。が、それだけお返しにこだわりを持っていてくれたと考えれば、喜ばしいことなのかもしれない。シマボシは何故か冷静に、そんなことを考えていた。
ただ、目の前でぐだぐだと落ち込まれていては、せっかくの美味しいお菓子が台無しだ。何か良い方法がないかと思案して数秒、良い手を思いつく。
「椅子に座ってくれないか。バレンタインのチョコレートもそうだったから、今日も一緒に食べよう」
断る隙を与えぬように早口で告げて、椅子を引いて彼を半ば無理矢理座らせる。シマボシは箱を開けて、チョコレートを口に含んだ。
「……美味しい」
「お、お口に合うと良いんですが」
さすが有名店の物であるだけあり、味はすこぶる良く、飲み込んだ後も、箱の残りの艶々とした粒を眺めてしまった。全部食べてしまいたい、という欲が一瞬だけ頭をもたげたが、慌ててその考えを振り払ってもう一つ、チョコレートを取り出す。シマボシが菓子に対する素直な感想を口にしても、案の定ウォロはまだ落ち込んだ様子だった。
「ウォロ」
「どうしましたか?」
「こっちを向いてくれ」
それだけを伝えて、唇にチョコレートを一つ、咥える。少しだけ体を屈め、彼の顎に指を添えて上を向かせる。いつもとは逆の身長差を少し面白く感じつつも、そのまま唇を近づけた。
咥えたチョコレートを舌で、恋人の唇の間に押し込む。
突然のことに驚いて目を瞬かせながら混乱しているウォロから顔を離して、顎に手を添えたまま声をかけた。
「食べて」
一呼吸おいて、ウォロが口の中のそれを一度噛んで飲み込んだことが、喉の動きを見てわかった。
「どうだった、キミが選んでくれたものが美味しくない訳がないだろう?」
顎から手を離して軽く笑いかければ、目を合わせて間も無く彼は机の上に突っ伏した。
「味なんて分かる訳ないじゃないですか、勿体無い……」
口ではそんなことを言っているが、本気で嫌がっているわけではないことは十分に理解できる。そこそこ心の機微を理解できるくらいには、彼と長く関係を続けている自信はあった。
顔を伏せていて表情を見ることはできないが、髪の掛けられた形の良い耳が、真っ赤になっているのは見て取れた。その姿が可愛らしく思えて、もう少しだけ彼を揶揄ってやりたい気分になる。
チョコレートを一粒手に取って、傍にしゃがむ。頬に手を添えると少しだけ腕の間から覗く目と目が合った。顔を少しだけ上げて何か言おうと口を開きかけた男の口にチョコレートを、その粒の中程まで指先で押し込んだ。
「私にも、もう一つ食べさせてくれないか?」