無題観音廟の事件から、春が巡ってこようとしていた。
今年度は、年若い金氏の宗主である金凌が座学にやってくる事が決定されていた為か、
雲深不知処の警備が強化されていた。
「姑蘇藍氏からは、藍思追と藍景儀が警護に当たる事にする。
思追はともかく景儀には、座学での勉強が再度必要と判断した」
藍啓仁が、書簡を広げながら姑蘇藍氏の同門たちに報告をする。
呼ばれた二人は、立ち上がり拱手をする。
小双璧と謳われている二人が、金氏宗主の護衛に当たるというのはなかなかの待遇であった。
金光瑶が起こした今回の事件の確執を、姑蘇藍氏は持っていないという通告でもある。
ただ、景儀は座学での勉学について眉を寄せていた。
何もこんなに大勢の前で言わなくてもいいじゃないか……と不貞腐れていると、隣の思追に背中をぽんぽんと叩かれる。
「藍先生、ほかに護衛はいるんですか?」
挙手をしながら、質問をしたのは含光君の道侶である夷陵老祖だ。
姿は変われども、彼の態度は昔から変わっていない。
じろり……と、藍啓仁が睨みつける。それから、息を吐いてほかの書簡に手を添えた。
「蘭陵金氏からは数名、雲夢江氏からは二名の予定である」
藍氏の会議は、いろいろと議題を変えた。終りを告げたのは、二刻ほど過ぎた頃だった。
魏無羨が部屋から出ようとすると、一人の男が藍啓仁の側に駆け寄るのが見えた。
脈を計っているようにも見えて、隣にいる藍忘機に声をかける。
「藍湛、藍先生は具合でも悪いのか?」
「……」
じっと叔父と男を見つめてから、藍忘機は魏無羨の腕を引っ張って連れ出した。
人目がなくなる所までやってくると、藍忘機は小さく息をついた。
「……兄上が、閉関なされておいでだから、叔父上にいやおうなしでも負担がかかる」
「……」
「鬼腕の一件から体調も崩されていたし、治療や閉関を成されたが……心労がたたっておいでなのだろう」
叔父への負担は、自分も追い打ちをかけている事を藍忘機は解っていた。
ずっと昔から魏無羨との事で、姑蘇藍氏は多少なりと一枚岩ではなくなっていたのだ。
そのうえ、いまだに藍思追の事でも藍啓仁には長老たちから執拗に責め立てられている。
「年の近い景儀だけでなく、思追も警護に当たるのは……あの子が藍氏にとって害にならないと証明するためでもあるんだ」
「は?どういうことだ?」
「温寧と行動をするようになったり、君と共にいる事で思追の出生が問題に上がっている」
「……」
はぁ…と小さく疲れたように藍忘機は、ため息をついた。
「昔、私たち宗家は嘘をついた」
「……お前らが?」
「うん。あの子を守るために」
意外だったのは、叔父だった。
知り合いの子だと言って、自ら側に置いて育てた。
藍忘機が、面壁を行った三年間。兄の藍曦臣と共に、二人で育ていてくれたのだ。
温氏の最後の子だと、知っていながら……。
「それで、今はその嘘がばれかけてるってか」
「……うん。姑蘇藍氏では、いまだに温氏に対する憎悪を抱く者もいる」
「それは、どこの世家でも同じだろう」
夷陵老祖を嫌悪する者も少なくないけれど、
含光君や藍氏宗家に囲われているからこそ魏無羨は自由奔放にふるまえる。
藍思追も、ずっとその立場だった。
今、その足場が崩されそうとしており、それを守るのに必死になってくれているのだ。
「温氏に憎悪を抱く筆頭に、藍悠瞬の祖父なんだ」
藍悠瞬、藍啓仁の側で補佐役などをこなしているが本来彼は藍氏の医師であった。
宗家に次ぐ分家であり、藍忘機の次に宗主になる立場を赦された人物だ。
藍忘機は、十数年前に不夜天にて藍氏に牙をむいたことによりその立場をはく奪されていた。
つまりは、藍曦臣がこのまま復帰せずに引退すれば彼こそが姑蘇藍氏の宗主となる。
彼の両親は、温氏に襲撃された時に青衡君と沢蕪君を守った時に死んでしまったらしい。
藍悠瞬の祖父であり藍啓仁の叔父であるその人は、藍思追と魏無羨にとっては危険人物となりうる。
「……藍先生は、どうして杏林医聖を側に置いてるんだ?」
藍悠瞬は、藍思追にとって危険極まりないだろう。
自分の失態かもしれない、己はいいけれど……あの子が危なくなるのは、イヤだ。ぐっと拳に力が入る。
そのこぶしに、藍忘機の白いけれどしっかりとした指が添えられた。
「大丈夫、師兄は何があっても叔父上の味方だから」
「じいさんに逆らえるのか?」
「うん……」
こくりと頷く藍忘機は、少しだけイヤそうな顔をした。
「生まれた時から知っているけれど、あの人が叔父上の側を離れたのはほんの数年だけだ」
「年単位で離れたことあるのか、あの腰ぎんちゃく!?」
それでよく生きて居られたな?!と、魏無羨は驚いた。
藍悠瞬と今世でも親しくない魏無羨であるが、藍悠瞬が藍啓仁を誰よりも慕っているのは知っていた。
なんせ座学の時から、ずっと藍啓仁の側にいて補佐役をしているのだ。
お前、いつ杏林医聖なんて号を貰えるほどに勉強してたんだ?!と思えるほどに、働いていた。
藍啓仁に命じられたら頬を染めて、二つ返事で全てを終わらせていた。
断袖なんじゃないか?と聶懐桑と噂をしていたくらいだ。
「金光善の娘と婚姻を結んでいたんだ」
「まじか?!」
「うん。確か、魏嬰が夷陵にいた頃だったかな」
一年か二年ほどで、戻ってきたけれど……と藍忘機は付け足した。
それでも、魏無羨にとっては驚く事だったのだ。
「叔父上が、彼を迎えに行ってからずっと側に置いている」
それはまるで―――……藍忘機は、魏無羨を見つめた。
己が、魏無羨に固執するような感覚に見えて仕方ないのだ。
けれど、二人にとって互いに天命じゃないのは確かだった。
「それだけで、信用しろって?」
「……思追の事も、手伝ってくれた」
「へぇ?なんでだ?親の仇の温氏だろ?」
魏無羨は、嫌味を込めて口に出す。
昔から、温氏すべてが世の敵だとばかりに言われてきた、聞かされてきた。
自分と江氏の間に、亀裂を入れた価値観の相違だ。
「……自分の仇くらい、分別はつくわな」
声がする背後を振り向くと、呆れた顔をした藍悠瞬が二人を長い前髪から見据えていた。
「先生がお呼びや。行きぃ」
不機嫌そうに蘭室を示すと、藍悠瞬はその場から立ち去った。
******
数日後、雲夢…蓮花塢に、魏無羨はいた。
「俺が引率してもいいのか?」
「あいにく、俺も梓観世も仕事が入ってる。主管も別の用事があって、引率できる状態じゃない」
はぁ…とため息をつきながら、雲夢江氏の明星である江晩吟はこめかみに手を添える。
彼の隣に控えている男は、江晩吟と同い年で魏無羨の弟弟子にあたる人物・梓観世。
雲夢江氏と眉山虞氏に代々仕える従者の間に生まれた江晩吟の従者であり
江氏の末席であるが主管の妹の夫という立場である。
本来なら従者と主の血筋との婚姻は、憚れるものだ。しかし、大恋愛の末に五年ほど前にようやく婚姻を結んだ。
その為、主管の補佐官でもある。
「大師兄、引率と言いましても我が子二人だけです」
江氏に座学に行けるほどの公子は、まだ生まれていない。
「梓豪には、座学ができるくらいの子供がいるのか?」
結婚して五年しか経ってないはずなのに、年齢が合わない。
指折りをしながら聞くと、梓観世は穏やかに微笑んだ。
「妻と結婚する前に、引き取った子たちです。歳は十六と十四。
長子は、梓花色。次子は、梓流離と言います」
年齢から思い返せば、不夜天の時とその後に生まれた子供だろう。
つまり、親がいなくて梓観世が引き取ったのだと推測できた。
「ほら、出てきなさい」
扉に声をかけると、不機嫌そうな少年とおどおどした少年が現れた。
ぶはっと吹き出しそうになる、いいや吹き出した。
実は隣にいた藍忘機すら、驚きのあまり普段より少しだけ目を丸くしていた。
それは、そうだろう。あまりにも梓観世とは似ておらず、知り合いにそっくりだったのだ。
むすっとした顔をしながら、梓花色は迎えに来た大人二人をにらみつけた。
「……僕、雲深不知処になんて行きたくない」
「花色。何度も話し合ったでしょう」
「なんで、お父さんや宗主から離れなきゃいけないのさ!それも、お嬢様のお守りで!!」
「花色!」
今まで我慢していたのか、イヤだ!と泣きそうな顔で言い張る梓花色は、藍色の瞳をしていた。
兄の袖をつかみながら、父親を見上げて涙を浮かべる少年。
「お、おとうさんは、僕が、泳げないからよその子にするんだぁ~」
「泳げないだけで、よその子にするわけないでしょう?!」
「じゃあ、おにいちゃんに比べて頭が悪いからだぁ」
「お兄ちゃんは特別頭がいいだけであって、お前は平均ですよ!」
泣いている梓流離は、金光瑶や金子軒にどこか似ているが非なる子供であった。
普段穏やかな梓観世が、慌てながら泣き叫ぶ子供を抱き上げた。
梓流離をなだめながら、梓花色を説得している。
「江澄、江澄……」
「なんだ」
「もしかして、すっごく訳アリな子供たちか?」
魏無羨は、義弟に話しかけると大きく頷かれた。
「藍先生曰く、あれら二人は阿凌の従兄弟だそうだ」
「ええ……」
「俺も梓観世も、最近になって初めて知った」
「どうりで阿凌と相性が悪いはずだ」と、江澄は再び大きなため息を再びついた。
年頃の近い子供を二人も育てている梓観世は、蓮花塢での金凌の世話係と教育係でもあった。
また子供たちと一緒に遊ばせてはみたが、梓花色とはいつも口論になり梓流離はすぐに金凌に泣かされていた。
一緒に行動させるには、相性が悪すぎて金凌の従者にも推薦できない。
「江宗主」
「なんだ、含光君」
「……もしや、梓花色の父親は……」
「ご推察の通りだ」
名を言わないが、彼らの中には一つの結論がつけられていた。
一人はふくれっ面のまま一人は泣きっ面のまま、梓兄弟は雲深不知処へと旅立っていった。
見送っていた梓観世を、江澄が横からつつく。
「寂しくなるな」
「そうですね」
「……」
「ですが、あの子たちが帰ってくる頃には……妹か弟が生まれているはずですから、しっかりしてもらわなければ困ります」
穏やかに告げる梓観世は、父親の顔をしていた。
それから、ふっと小さく息を吐いた。
「あの子たちは、遅かれ早かれ選ばねばならないでしょう?」
「……」
「江氏にとどまるか、金氏か藍氏か……聶氏に旅立つかを」
******
雲深不知処に春が来て、座学が始まる季節。
梓花色の背には、金凌と弟がいた。
金凌を抱きしめるように梓流離は、おどおどしながら兄越しに不敵に笑う金氏を見つめていた。
「それが、自分たちの宗主に対する態度かと聞いている」
ぎろりと藍色の瞳で睨みつけられた、金闡はたじろぐ。
「礼儀を重んじるはずの金氏が、宗主に対してこのような態度ではそこが知れているな」
「なに?!従者の子のくせに」
「それがなんだ?僕の父は従者だが、江宗主に仕える事に誇りを持っている。
義母のお陰で地位は安定したと言えるが、仙師としての実力はお前たちよりもはるかに上だ」
バカにされるいわれはない。そんな言葉で、自分たちが梓観世の子供である事を恥じる事などありはしないのだ。
「お前たちが、父の修為を超すことなんてありはしない。そして、僕にすら敵わないだろうさ」
それはうぬぼれではなく、事実である。
実際、梓花色は金闡よりも修為も霊力も高い。知識量も藍氏の内弟子と匹敵すると言われていた。
「宗主というなら、他家のやつらに頼ってばかりなのはどうなんだ。
いつもいつも、藍氏の二人や欧陽公子と一緒。いないと思えば、お前たち二人のどちらかと一緒じゃないか」
金闡の言葉に、梓花色は笑いがこみあげてしまった。
まるで自分たちを頼らない金凌に対して、嫉妬しているように聞こえる。
「っはん!顔を合わせれば、馬鹿にして敵対するようなやつと思追兄たちを比べるのはどうかと思うよ?」
お前も顔を合わせるといつも喧嘩してるけどな……と背後から、無言の圧力を感じるが、この際無視だ。
というか、なんで金凌を庇っているのだと思う。
最初は、金凌なんて無視をしようと思った。けれど、同じ金氏でありながら宗主でありながらいつも一人だった。
それが、ひどく腹立たしかった。
金凌が、独りだと気づいたのは梓流離で泣かされてるくせに近づいた。
だから、仕方なく梓花色も金凌に近づいた。
それで改めて気づかされたのは、金氏がバカだという事だった。
―――そして、金凌が独りだったという事に気づけなかった自分はもっと愚かだった。
『花色。阿空。勉強ができても、修為が高くても、大切な事を見落としては意味がない』
父の声が、梓花色の脳裏に響く。
父は、多聞五眼と呼ばれるほどに多くの言葉を聞き様々な視点で物事を見据える人であった。
江宗主の従者であり主管の補佐官でもあるが、雲夢江氏として恥じぬ人だった。
三毒聖手、五悪救世と並ぶことができる人。
「雲深不知処は、争いを禁じてますえ…公子等」
ふあぁとあくびをしながら、少年たちの間に入ってきたのは白い衣だった。
手には医療箱を持っており、黒髪の長い前髪から覗く藍色の瞳は夜のようにほの暗い。
「子供らの喧嘩に、大人が口挟むのもなんやと思たけどな。
家の前で喧嘩されるとうるさくて寝れんのよ」
家の前と言われて、少年たちはあたりを見回した。
けれど、林があるだけで家も庵も見当たらない。結界で隠れているのだろうか?
「けが人は、おるん?」
「居ません」
問いかけに首を横に振ると「ならよかったわ」と、けだるい姑蘇の口調で言う。
「へぇ……梓流離がおるから、誰かの骨の一本か二本は折れとるかと思たけど」
弟の名が上がり、金闡たちの目がおどおどしている梓流離に集まる。
「流離は、理由もなく人を攻撃しません。
それも自分より弱い奴を相手にするなと、父にきつく言われています」
この場で一番年下で、おどおどしている弟はこの場で体術や剣術が一番強いのだ。
しかも体は、頑丈でちょっとやそっとの衝撃では怪我をしない。
代わりに水に浮かぶことができずに、雲夢では泳げない修士として笑われているのだ。
「金公子は、違う場所やったから知らんやろうけど……梓流離は、蛇妖の首をへし折って退治したんや。
喧嘩を売るなら別なのにしとき。
ああ、別なのに喧嘩吹っ掛けとったな」
あざ笑う様に告げると、金闡は眉を寄せた。
「公子に一つだけ教えたるわ。この子がいくら気に食わんかて、自分の家の宗主ならお前の主やぞ」
笑っているのに、笑っていない。底冷えするような霊力が、その場を支配していく。
「お前ら、親に何言われて育ったかは知らんけど……
金氏の膿になって吐き出されたくなけりゃ、どうしたいのか自分の頭で考えることやな。
まぁ、好きな子ぉいじめて注目されたいみたいやけど?
そんなんで好意勝ち取れると思うな」
男は、金闡の額を人差し指で軽く押した。
ふらっと後ろに倒れると、地面に尻もちをつく。
背中にいたはずの金凌が、金闡に駆け寄ったのが梓花色の目に写る。
さっきまで敵対してたのに、その相手に駆け寄るだなんて……手を伸ばしかけて、だらりと落とす。
「やりすぎです、杏林医聖!」
金凌の口から出た号に、梓花色は目を見開いて男を見上げた。
―――この人が、実の父……。