大好きで仕方がない犬
夜狩の帰り、江澄は姑蘇へ向かうことにした。前々からしつこく魏無羨から雲深不知処へ来る様に言われていたのだ。
要件を尋ねても教えないものだから無視していたが、流石にここまで無視すると次会った時に何をされるかわからない。どうせ帰ってもまた執務に追われて外に出る機会を作るのは難しい。
いくつか寄り道の理由を並べながら御剣していたが、少し先の空で稲妻が走る。先程から雲行きは怪しかった。
しかし予想以上に変化が早い。次第にぽたりぽたりと江澄の頬に雨粒が落ちる。
(田舎め……どこか雨宿りできる場所はないのか)
山道の中、小さな民家を見つける。この辺りは人が住み着くほど、穏やかな地形ではないためこれ以上探しても時間を食うだけだろう。ここで雨宿りさせてもらうことにした。
「あ……」
「…阿澄」
家の軒下には先客がいた。今、江澄が一番会いたくない人ーー藍曦臣だった。彼とはいわゆる恋仲である。
しかし義兄のように周囲の目を気にせず乳繰り合う様なものではない。お互い宗主同士だ。自分の評判や噂はそのまま家や弟子達び影響する。
江澄は墓までこの秘密を持っていく覚悟であったが、藍曦臣は違う。彼は二人の事を世に明らかにしたい。それだけでなく、自分が宗主を退き江家に嫁がせて欲しいと懇願した。
以前からその件ですれ違うことはあったが、先日の清談会後についに口論になってしまったのだ。
雨は次第に強まるが、江澄の脚はぴたりと止まってしまった。ここで帰ってしまうのも負けた気がするし、さらに溝が深まってしまう。それに江澄とて、ずっと恋人と喧嘩したままでいたいわけではないのだ。
しかし素直に歩み寄れないのが江晚吟なのである。
「阿澄、おいで」
そして、そんなところも愛おしく感じるのが藍曦臣なのである。彼は雨も気にせず、門の手前で立ち尽くす江澄を迎えに行く。
「あっ……」
「こんなに濡れてしまって可哀想に」
江澄の頬に張り付く髪をはらう。それだけなのに江澄はビクついてしまう。
「あ、貴方まで濡れてしまう」
「では私と雨宿りに付き合ってくれるかな」
返事をする前に腕を握られ引かれていく。軒下は大の男2人が肩を並べるには少し狭かった。隣の彼は誰よりも心も身体も知っている相手のはずなのに、先日の口論のせいでどう接すればいいかわからない。
気まずい時間が流れる。あまりに苦痛でここで世間話でもできれば、そこから話を持っていって素直に謝れたかもしれない。
江澄は脳内で必死に言葉を選ぶが、溢れてくるのは皮肉ばかりだった。雨のせいもあり自分の卑屈さが嫌になる。
「……寒いでしょう。声は掛けたのですが誰もいない様でして、せめてもう少し雨が和らいでくれればいいのだけれど」
「ここで構わない」
ーー気遣いありがとう。その細やかな気遣いが好きだ。言葉にしてやれなくてすまない。
「ですが寒そうだ。手を貸してごらん」
「いらない」
ーー貴方まで冷えてしまう。嫌だ。悔しくて情けない。
「ならせめてもう少し側に寄ってもいいかい」
「それも駄目だ」
ーーこれ以上、貴方を側に感じてしまうと堪えていた涙が止められなくなるんだ。
雨で隠しきれなくなってしまうくらいに、声を上げて惨めに泣きついてしまう。
「そう……なら仕方ない」
「別れるつもりか!?別れてなんかやらないからな!愛らしく甘えられる恋人がよかったか。悪かった可愛げのない男で!でも貴方をこれ以上愛してしまうと、もう貴方を離してやれない。俺は誰よりも蓮花塢が大切で、それでも貴方も大切で……俺が貴方を愛してしまうことで二つも失ってしまうのが怖い……」
雷の様に激しかったが、言葉尻はか細く弱々しいものだ。
吐露した思いは江澄がずっと醜く汚いと隠していたものだった。大切なものを失う事を恐れているなんて弱い自分を知られたくなかった。
そして、それ以上に江澄も藍曦臣を譲れないくらいに愛している事は隠していたかった。恋と呼ぶには相応しくないくらいに独占欲と執着が入り混じっていたからだ。
藍曦臣が自分以外に優しく微笑むのも、藍曦臣が自分以外のことを思って憂うことも、藍曦臣が自分以外を慈しむことも許せない。そして何よりこの思いを知られれば、自分は藍曦臣を諦められないと気付いていたのだ。
「悪かった。今までありが……なっ!なんて顔してるんだ」
俯いていた顔を上げると、藍曦臣は真っ赤になっていた。泣き喚いた後の江澄にも頬の赤らみが伝染してしまうくらいに。
「嗚呼、阿澄なんて意地らしい。こんなに熱烈に愛を告げられたのは生まれて初めてだ。ずっと愛されているか不安で、だからといって先日は貴方に当たってしまいすみませんでした」
「はぁ!?」
濡れた体なんて厭わずに藍曦臣は江澄に抱きついて離さない。
はじめこそ必死に抵抗していたが、愛しい人に抱きしめられて拒めるほど江澄は強い男ではないのだ。それに思いを口にして恥ずかしくどこかに隠れたかった。江澄は愛しい人の腕に隠れた。
「ねぇ? お兄ちゃん達って好き同士なの」
甘い情人の逢瀬を子どもの無邪気が遮る。
ここのうちの家の子だろう。まだ文字の読み書きもおぼつかないくらいの男の子どもが2人を見上げていた。
「あ……」
いつまで抱きしめあっていたのだろうか。雨はすっかり止んでいた。
子どもは両手いっぱいに果物を持っていた。使いの帰りなのだろう。両親が側にいなくて幸いだった、と江澄は胸を撫で下ろす。離れようとすれば藍曦臣は代わりにとばかりに手を重ねてきた。
「おい! 子どもの前だぞ」
「ねぇ!? どうなの!」
「どうなんですか? 江哥哥」
「曦臣!」
藍曦臣は普段見せない悪戯な笑みを浮かべる。自身はずっと弟という立場だった江澄は胸がこそばゆくて仕方がなかった。
「うーん……」
藍曦臣の期待の眼差しが突き刺さる。ここは素直に答えてやればいいかと思ったが、意地悪された後なのでどう返してやるかと頭を悩ませる。
「犬だな」
「犬!?」
「わんちゃんなの? でもこのお兄ちゃん人間だよ」
「そうだ。確かに人間だが犬みたいに優しくて可愛くて俺に従順で……この人が大好きで仕方がないんだ」
藍曦臣は江澄からの真っ直ぐな想いに胸を押さえた。そして確信した。この恋人を世界中に自分のものだと知らしめようと。何が何でも果たさねばならない。
そうしないとこれ以上、彼に惚れてしまう可哀想な人を増やしてはいけない。自分がいる限りその想いは果たされることはないのだから。
「阿澄!私も、私も貴方が大好きです。愛してます」
「大好きなのは犬のことだ!!」
「それでも嬉しいです。さあ雲深不知処へ帰りましょう」
「やめろ!腰を引くな!自分の剣に乗らせろ」
取り残された子どもは何処までも騒がしい二人を見えなくなるまで見送っていた。