柔らかな宝物 ハデスの館において、眠りの神であるヒュプノスの仕事は基本ステュクスの泉の監視と、ハデス王への謁見者の管理である。
勿論その他にも諸々の仕事を抱えている。タナトスやヘルメスより送られてくる死者数のリストアップ、カロンが送ってきた死者の整列、ハデス王への謁見者の書類作成と整理などなど……すべてを彼一人が行っているわけではないが、それでも本来「居眠り」する暇もないほどの仕事を抱えている。
なので、時としてヒュプノスも持ち場となる謁見の間を離れることがある。特に書類整理は廊下の真ん中では行えない。場合によっては執務室を使う事が多く、その時も瞬間移動を使うのが常であった。
だから「たまには歩いて行こう」などと本当に、本当にただの気まぐれだった。だがその気まぐれのお陰で、かの神は普段目にしない光景を見ることとなる。
(……あ、お兄ちゃんとザグ君。)
謁見の間から西に抜けて執務室へ向かう廊の終わりはステュクス川に面するテラスになっている。そしてそこは、彼の兄神が次の仕事へ向かうまでの羽休めをしている定位置だ。死の気配が漂う上に、西の廊の明かりは他の区画よりも薄暗い分、亡者もあまり近づかないエリアであった。
だが、最近はそうでもない。ある時を境に、死の神の隣には冥府の王子が共に立っている事が多くなった。はじめ、ザグレウスはタナトスに対して地上の事や彼の職務の事について尋ねている様であった。だが、回数が増えるにつれ、少しずつ二人は「並ぶ」様になり……そして、ある時を境に「寄り添う」様に変わった。それからだろう。西の廊に漂う死の気配に、刺々しさが消えて、かつての静寂なる死の姿に戻ったのは。
周りの亡者達は「女王が戻り、王子の素行が落ち着いたので、死の神もようやく心落ち着けたのだろう」と噂する。ただ、ヒュプノスの見解は少しばかり違う。
(……今日も笑ってる。)
ヒュプノスは声に出さず呟く。廊下の隅に目に入ったのは、タナトスとザグレウスが談笑する姿だ。ザグレウスは「いつもの様に」楽し気に、時に大げさに手を広げ会話を楽しんでいる。そしてその隣に佇むタナトスは……その眉を柔らかく下げ、琥珀の様な瞳をほんのりと溶かし、その唇に優しく弧を描いて……ほんの少しばかり微笑んでいた。だが、その僅かな変化は遠くからでなくとも気付けるものは少ない事だろう。
ヒュプノスには、この二柱だけが胸中に抱いている思いがどんな感触か、具体的には分からない。ただ自身が「眠り」という肉体より魂に近しい感覚を司る神だからだろうか? ほんの数秒、二神の視線が交わった瞬間、その「感触」は近くでそれを見ていたヒュプノスにもなんとなく伝わってくるのだ。
それは時にふんわりと柔らかくて、かと思えばツヤツヤと輝いて眩しい。ただ共通して暖かで、でもどこかこそばゆくて……。
(この「ふわふわ」は何なんだろう?)
ただ、自分だけが知っているその感覚について、ヒュプノスはいつもの様に軽率に口に出すことは無い。ヒュプノスはこの二神が好きだ。タナトスは敬愛すべき兄であり、ザグレウスは唯一ともいえる自身を邪険にしない友である。その二神が、お互いにお互いが「好き」なのだ。そこから生まれる感情の触り心地が心地よくない筈がない。
(ま、二人が幸せそうなら僕はそれでいいんだろうなぁ。)
手のひらに収まりきらないふわふわした気持ちを抱えながら、ヒュプノスもまた一人にっこりと微笑む。綿花の様なふんわりとした白い髪の合間から、蜂蜜の様に濃い黄金色の瞳をゆったりと瞬かせ、遠くで寄り添う二柱を嬉しそうに見守る。
その柔らかな「感触」は、眠りの神だけが触れることが出来る、優しい宝物だ。