閻魔帳のきれはしには(1)
待ち合わせは、やっぱり駅前かなあ
ベタなのは分かってるよ! でも後に来る僕が気になって、その後ろ姿がどこかそわそわしてるの、きっとかわいいなって思うんだろうな
◆◆◆◆◆
『KK
今日午前11時。渋谷駅北側に集合。』
凝り固まった肩を回しながら、ネオンが薄まりゆく都会の路地を暁人はゆったりと歩いていた。長期の仕事が終わって漸くまともな寝食にありつけると思えば、心も穏やかになる。
こんな職業なので、どうしても一日の行動が普通のそれとは大きくずれ込む時がある。今日はそういった日で、数日掛かりの依頼を何とか終わらせたときには、すっかり空が白み始めていたのだ。
自分の名前をした空を背にしながら、暁人は連絡のためにスリープモードにしていたスマホを起動させた。そこに表示される、送り主と簡素な一文。暁人が首をひねるのも無理はない。めったに文字でのやり取りを行わない人物から突然こんなものが来たら、誰だって困惑するだろう。自分がいない間に向こうで何かあったのかもしれない。それにしても……メッセージ? 凪いでいた心情の波が僅かに揺れて―――まあいいか、と持ち直した。暁人が暁人たるゆえんは、この微妙な状況に対しての構えがやたら大きいことである。波乱万丈な生い立ちのせいで大概のことは受け流せるようになった結果だった。
「『了解 何か必要なものとかある? 補充してくるけど』…と
これでいいかな」
送信、を押してからやはりどうしても気になってしまい、そのまま右上にある呼び出しボタンに手をかけた。何度かコール音が鳴るも全く出る兆しが見えないので、諦めて電話を切る。
暫し立ち尽くしていたが、再び歩き出す。
KKがいるなら大丈夫だろう―――この前提の擦り込みも、暁人たらしめている要素の一つなのは言わずもがなである。
何の気なく了承してしまったが、自宅に帰るとそれなりの雑務が暁人を待っていた。
家事自体は麻里もできるが、例えば僅かに積もった埃を気にしはじめるともうどうにもならない。長らくお預けだった浴室のカビ取りや網戸の掃除を軽く行って、そこから風呂に浸かりひと寝入りする頃には約束した時間まであと1時間を切っていた。
「うっそでしょヤバ!」
疲れた体はいまだ休息を求めているが、なんとか叱咤しながら身支度を整える。強く後ろ髪を引かれながら駅に着く頃には、すでに約束から15分も過ぎていた。
端的に言う。暁人はとんでもなく焦っている。
KKは割とこういう取り決めごとに厳格なのだ。以前ちょっとしたことで口げんかした時、『オマエが前回の依頼が終わった後の打ち上げで約束したんだぞ』なんて手帳を開きながらはっきり言われたことがあった時はさすがに引いた。自分の生活態度は悪いくせに、なかなか勝手なところがあるよなあと思う。本人には言わないけれど。その中でもこと時間には厳しいので―――これは仕事の特殊さも関係している―――一分の恐ろしさを、暁人はバイトよりKKから学んだと言っても過言ではない。汗を流して間もないのに、既に別の意味で背中からじわりと滴るものがある。おそるおそる駅の出入り口の柱から、そっとロータリーを覗く。付近にいた人々が、都会特有の興味もなさそうな様子だったのが救いだった。明らかに不審者である。
「(……あれ、い、いない…?)」
霊視は気付かれる気がしたので肉眼で確認したが、いつもの黒い上下はどこにも見当たらない。ほっとするのが自分でも分かった。さっさと移動して、あたかもずっとここにいましたよとでもいうように手扇でパタパタと仰いだ。とはいえ、日ごろから厳しい相棒が遅いだなんて珍しい。そうか、KKにメッセージとか送ったほうがいいかもしれない。
「ええっと……『KK大丈夫? 何かあった?』、と…よし」
送信するも、そこからしばらく返信はなかった。あまりにも不安なので、時折スマホを開いては仕舞い周囲を見回してみたり、とにかく緊張していた。それから五分きっかり経った頃。
暁人にしか分からない強い糸が、腕にするすると巻き付いた。
「ぅわ……っ!」
「よう」
死角からの不意打ちとこの聞き覚えのある声。KKだった。このところ背後から襲われることが減ったので、完全に警戒を怠っていた。おそらく、仕事が板についてきた自分への戒めだろう。
「ごめん、気を付ける…」
「はあ? 何でオマエが謝ってんだ、遅れたのはオレのほうだろ?」
「う、うん…」
とてもではないが、自分も遅れてきたとは言えない。ますます縮こまる暁人にKKは困惑したが、スマホの画面を見てすぐに気を取り直した。なんだろう、何か違和感がすごい……
「まあいい とりあえず飯食うか」
「あ、うん」
すでに食べるところを決めてしまっているようで、KKの足取りはしっかりしている。そういえば水さえ飲むのも忘れてきたなと暁人が気づくのと、残暑の厳しさに体がエネルギーを欲しがりだしたのはほぼ同時だった。
(2)
ランチは簡単なものにするかな
その方がディナーに予算回せるし、よりよく感じるかなって! ああでも“カワイイ”感じ?っていうのかな、そういうのを出来たら感じられるようにしたい
例えば? …もう古いかもだけど、パンケーキとか? この頃おかず系もいっぱい増えてきたし、見た目がいいよね
◆◆◆◆◆
目の前の建物とここへ連れてきた人物を、暁人は何度も見比べてからおもむろに腕組みした。
ショーケースのサンプルと看板の情報からどう見てもパンケーキ店なのは分かるが、意図がまるで分からない。
「(僕の何かを試されてるのかな…?)」
「オイどうした、行くぞ」
「へぇっ?!」
正直恥ずかしい、と言われながらさりげなく引かれた右手に心臓が跳ねる。思わずKKを見るが、本人は内心考えていることなどおくびにも出さず飄々としているようにも見えた。確かに堂に入っている方がいいのは理解しているが、こんな、こんな、KKと手をつないで……
「何食うか決めてるか?」
「はぇっ、え、えぇぇま、まだ…」
「…ふふっ、さっきからどうしたんだよソレ」
流行りか?なんて背を軽くたたかれながら優しい顔で言われて、暁人は目を回しっぱなしだ。自然と解かれた手に、もうちょっとこうしたかったなと名残惜しさを覚えつつ席に着き、メニュー表を見てふと閃く。
「っていうかここ、めちゃくちゃ有名店だよね?!」
「今更気付いたか、おせーよ」
「いやちょっと色々あって…」
内装を見るほど実感する。過去に何度も雑誌やテレビで紹介されたようなところで、当然ながら今でも盛況である。麻里に連れて行けと何度かせがまれたが、忙しさゆえに断っていたところでもある。あの後何も言ってこないが、誰かと行ってしまっただろうか。
「さっさと決め、……いや、別にゆっくり選べよ、メシは逃げねえから」
「う、うん」
見開きに顔を隠しながら百面相をしていたのがバレていたらしい。KKに促されてもう一度隅から隅まで吟味し、鮮やかさが目を引く写真を指した。
「じゃあ、このミックスフルーツのやつにする」
「ん、わかった ……すみません、」
そのまま流れるように店員を呼び、言葉少なに注文していく。そのスマートなさまをぼうっと見つめながら、暁人の頭の中はかつてないほど回転を続けている。なんでこんなことになったんだ? そもそも二人で依頼をするときは、いつかドラマで見たような張り込みスタイルが主だったはずだ。それこそ寝食さえ忘れて相手の動向をうかがってばかりの、ハードなもの。もしや、依頼が関連しているのだろうか。たとえば、
「こういうのが趣味だったりするの?」
「趣味、っつーか……まあ、喜ぶって話じゃなかったか」
「そうなんだ」
なるほど、どうやら何らかの対象がこういったものが好きで、とりあえず満足してもらったうえで浄化してもらおうという話だろうか。過去にも何度かこういう"お願い"はあったので、それならKKの行動にも頷ける。
「ちなみに詳細とか、」
「あ?」
「な、なんでもない、デス……」
そして今も対象はその場にいて、これまた何らかの理由で言えない。その上で、今回の依頼内容をKKから明かされなくとも読み取り、共に遂行しようという筋書きなのだろうか。それによって自分の力量も改めて推しはかれるし、一石二鳥だ―――暁人のささいな感情の機微さえ無視してしまえば。
「おい、来たぞ 暁人、」
「うん? あ、ごめん」
一足先に運ばれてきた自分のプレートは、写真と違わない瑞々しさと美しさだった。様々なフルーツが丁寧に磨かれて、ふんわりとしたケーキと白いクリームの下地にコントラストを作っている。思った通りのかわいさだった。しんみりとはしたものの食べ物に罪はない。瞳を輝かせる暁人に、KKは『先に食えよ』と促す。その言葉に甘えて、一口大に切って口に運んだ。
「うま……」
思わず漏れ出た一言が恥ずかしい。耳聡く聞いていたKKが『良かったな、たくさん食えよ』と発破をかけるのも相まって、暁人は振り切るようにフォークを進める。ややあってKKの皿も運ばれてきた。こちらは暁人とは対照的なおかずメニューで、付け合わせのスクランブルエッグとベーコンのシンプルさが逆に目を引いている。さらにいえば、この無骨な感じがKKとよくマッチしていて、暁人には真似できない格好良さがあった。そんな彼の指が、こちらに伸ばされる。
「!!」
「ったく、ついてんぞ………かわいいヤツだな」
今度こそ胸が爆発したのかと暁人は錯覚した。というか、耳は故障した。なんとか稼働していたときに、聞き間違いでなければ、か、かわ、カワイイ、なんて、そんな。
「なんだこれ、甘え
オマエ昼飯によくこれ選んだな」
「えっと、も、もうお腹イッパイデ……」
「なんだよ珍しい、オレのも食うかと思ってちょっと違う味にしたんだが」
「?!!」
暁人の口元を拭った親指がそのまま持ち主のところへ帰ってゆき、味を確かめるように舐めた。なんだこれ、夢でも見てるのか。次から次に衝撃が暁人を襲うのをやめない。辛うじてKKの分も食べられることを理解し、言われるがまま『タベタイデス』と何とか伝えた。片言だろうがこの際気にしない。すると、見事に切り分けられたパンケーキが暁人の口元まで運ばれてきた。
「ぇ」
「なんだよ、食うんじゃなかったのか」
「いやっ、た、食べる! 食べます!」
もういいや、どうとでもなれ。半ば自棄になりながらもらった一切れは、肉と卵の塩気に混じってほんのり甘く、それこそこれをくれた目の前の彼のようだった。
(3)
食べ終わったら相手の人に合わせるかな、僕の場合は
もちろん僕がやりたいことあったら事前に擦り合わせておいてさ
今は……あ、そう言えば履いてる靴だいぶ古くなってきたなあ……
◆◆◆◆◆
暁人はKKに会計を任せて店を出た。これは、いつも依頼がある際の経費に関して、一箇所にまとめたほうが何かと後に楽だということを踏まえてである。そのことを後から思い出して、それまで上がっていた気分が少し凪ぐ。これは依頼、そして自分の試験。呪文のように三回唱えて振り返ると、丁度ドアを開けたKKと視線があった。
「この後どうする」
「このあと?」
「何かしたいことはねえか」
言われて思案するも、急には浮かんでこない。まごつく暁人を見かねたのか、KKは顎に手をやって考え込むようなそぶりを見せた。
「悪い、質問を変える オマエ前に靴気にしてなかったか」
「え?」
確かに最近靴底がすり減ってきたのでそろそろ買う頃合いだと思ったことはある。KKにどこかのタイミングで言ったのかもしれない。でもなぜ今それを? 曖昧に頷くと、KKは『じゃあ行くか』と、再び暁人の手を取り渋谷の街を歩きだす。浮かんだ疑問はまた目の前の光景に流されていく。
カゲリエまでそう遠くない距離だったのは幸いした。平日とはいえ人であふれかえった中を、慣れた足取りで進んでいく。こうしていると懐かしさに暁人は薄く笑んだ。
「なんだ、いいモンでもあったか」
「いや違う いつかここで、KKと二人きりだったのを思い出すなって…」
暁人にしてみれば、それは実際にあった話だったので何もやましいことはなかった。渋谷事変、忘れもしない二人が出会ったあの日のこと。その中でも割合長くとどまった場所の一つがこの商業施設だった。規模の大きさとまだまだ戦闘に不慣れだったために、KKにたくさん教わったと思う。河童のことも初めて聞いたのもここだっただろうか、そうなると外の庭園にも久しぶりに行きたくなる。
「ふふ、あの時は本当になんとかしなきゃって気持ちばっかりで…でも、それがあったから今こうやって過ごせてるわけで、……KK?」
「……ああいや、どうぞ?」
いつしか天を仰いでいたKKが気になって後がすっぽ抜けてしまった。忘れちゃったよ、と素直に申告したが、KKはなぜかそこで憮然とした表情になる。意味が分からない。
「えっと…靴だよね、靴」
「ああ 三階とか四階か?」
「多分ね、行こう」
途切れた会話の一瞬でも、暁人には分かる。あのKKはちょっと―――不機嫌だ。
フロアを見て回る二人にはわずかな緊張感が漂っていた。KKが何に苛立っているのか不明だが、できるだけ穏便にしようと努めた。少なくともこの時間は、暁人にとってかけがえのないものであるから。
「…あ、これ」
そんな中、足が止まる。前面に押し出すマネキンのコーディネート、の脇に揃えておかれていた黒のハイカット。有名なブランドのロゴがあるわけでもなく、けれどサイドの造りやデザインがきれいに整っていると思った。そして黒は、暁人の好きな色になった―――KKを思い出すから。
「見つかったか?」
「うん」
「履いてこいよ」
店内に入り試着してみる。鏡に映る自分の後ろで、同じように見てくれているKK……そうか、黒で分かった。
「そういえば今日、KKいつもの恰好じゃないよね!」
「はあ? 今頃かよ」
「いや、会った時から違和感はあったけど…」
薄いグレーのトップスにスモークブルーのシャツを開き、カーキの混麻パンツに深い茶色のワークブーツをはいたKKは、秋めくこの頃の微妙な季節感にも対応している組み合わせだった。つまりはめちゃくちゃお洒落である。
「見れば見るほどいつもと雰囲気違う…」
「ハイハイ分かったから、どうすんだよ」
もはや靴よりKKの方ばかり注目してしまった。不躾にまじまじと見つめたのはやりすぎだったかもしれない。だけどそれくらい今の彼は洗練されていて、かっこよく映ったのだ。対して今の自分はいつもと同じクリームのジャケットに同系色のカーゴパンツ。
そこへ新品の黒い揃えだけが、やけに浮いて見えてしまった。
「ん……やっぱりやめる」
「は?」
「買わない!」
なんだか気持ちが沈んでしまう。こんな、何でもないことで一喜一憂している今日の自分は、KKと同じくらい、変だと思う。
「おい、どうしたんだよ」
「別に やっぱり似合ってないかもって思っただけ」
「……」
「もう見るもの見たし 行こう、KK」
去り際、『ちょっと吸ってきてもいいか?』と右手が口元に行く動作をしたので、そのタイミングで暁人はトイレに駆け込んだ。
そうだ、本当に変。これが依頼の一部で自分の試験の一端でも、ずっともやもやしている。
否、違う、依頼で試験だからだ。もしこれが万が一、本当に可能性は低いけれど、二人で何の理由もなくただ会って、一緒にいられたら。
「そうだったら、よかったのになあ……」
小さく、ちいさく吐き出した言葉は、まぎれもない暁人の願望だった。
(4)
夕食は、お昼の分ちょっと豪華な方が特別感あるよね
考え古いかな……そんなことない?
やっぱり一日の終わりにいる誰かって、すごく大事な人だもんね
それで最後に夜景なんか見ちゃってさ―――
◆◆◆◆◆
再び合流したKKとカゲリエを出て、まだ日の高い渋谷の大通りに繰り出す。KKは一服ついでに何かを買ったらしく、紙袋を持っていた。こちらに付き合わせて悪かったなという申し訳なさと、自分には見せられなかったのだろうかという悋気が入り混じって、それとなく彼から顔を逸らす。さてここからは暫く手持ち無沙汰だろう、と踏んでいた暁人だったが、それは見事に裏切られた。不意に立ち止まったKKが、細い路地に入って霊視を始めたからだ。ここに来てマレビトを追うのかとも思ったが、本来これが目的だったと思い直し暁人も倣って札を手にする。
「構えろよ、暁人」
「もちろん」
ほどなくして現れたマレビトたちを浄化させるうちに、木霊を守ったり地縛霊の探し物を手伝ったりとすべきことが増えていく。皮肉にもさっきまでとは違い、彼の考えも動きも手に取るようにわかってしまった。結局、暁人とKKにあるのはこれが一番核であり、それは互いに譲れないものなのだ。
「(でも、どうしてかな それだけじゃ満足できないって思っちゃうのは……)」
「暁人!」
「うん!」
コアを引き抜きながら、あるいは浄化される靄を見送りながら。KKが今日ずっと何を考えているのかこんな風に文字になって見えたらいいのに、と。次々に技を決める頼もしい背中を眺めては、こっそりため息をついた。
「なんか……すっかり時間が経っちゃったね」
「今何時だ? …マズい」
「え?」
粗方終わる頃にはすっかり夜闇が迫っていた。日ごと短くなっていく昼の間隔に季節の移り変わりを実感する。時刻を確認して慌てたKKは、スマホを取り出してそのままどこかへ連絡をはじめた。依頼主だろうか。
「大丈夫だった?」
「ああ、何とかなりそうだ」
ややあってほっとした様子の相棒に、結構大変な依頼だったのかもしれないと推理する。そうだ、内容を早く当てなければ。ヒントが少なすぎるが、ここできちんと決めておかなければ。KKに相棒さえ取り上げられてしまっては、きっと立ち直れない。
「急かして悪いが、移動するぞ」
「うん、」
三度繋がれた手にも、もう揺らがない。
暁人にとってKKは、好きかどうか以前に、誰よりも大切な人のひとりなのだ。
デジャヴかな。暁人の感想は実に短いものである。
ただ、今度の店の佇まいは、素人目に見ても上品に感じた。本格的に自分が場違いじゃないだろうか。
「こ、ここ?」
「心配すんな、ドレスコードとかねえとこだよ
見た目ほどじゃねえから気楽にしてろ」
連れてきた張本人はどこ吹く風だが、経験の浅い暁人にしてみればただの社交辞令にしか聞こえない。店の外にはおすすめも値段の入った名物も書かれていない。店員と話を付けたのか、KKがこちらを呼んでいる。
KKがいれば大丈夫、とは、この時ばかりは思えなかった。
予約した時点で出されるコースが決まっていたらしく、席に通されてからは何もすることが無い。控えめな音量で流れるBGMと適度に離れたほかの客とのテーブルに、暁人はずっと俯きがちだった。食前酒が来ても、前菜やメインが来ても、その調子だったのはさすがに目に余ったのかもしれない。KKが痺れを切らして『あのよ、』と重い口を開いた。
「嫌だったか」
「…え」
「ここ来てから……いや、ここ来る前からそうだ オマエ、ずっと楽しくなかったんじゃねえか」
「そ、んなつもりは」
ない、とははっきり言いきれなかった。決してKKといることが窮屈だったからではない、むしろその反対で。
「初めは単にオマエがめちゃくちゃ緊張してるだけだと思った
だからこそこういう所に連れてきたのはちょっと悪手だったかもしれねえし、そこは反省してる」
「ちが、KKは何も、」
「だが今日一日、嬉しそうにしてる時より今みたいな顔してる時の方が多かったんだよ
むしろ普段の依頼の方が楽しそうにしてるくらいに」
「それは、だって、…僕だっていつもと違ったら戸惑ったりも、するし、」
「はっきり言えよ」
見透かすような大人のまなざしが暁人を制した。
射すくめられて、暁人は返す言葉が出ない。
「オマエは日ごろ、きちんと思ってることはオレに言ってきただろ、あの日からそうだ
今日のオマエには、それがない」
「Kけ、」
「オレとこうするのはメイワクだって、」
「―――それはない!!」
言ってしまってから、はっと周りを見回す。店内の誰もが暁人を見つめている。急速に上った血が冷えていくのを感じた。口元をおさえて放心するように座り込んだ暁人を、上質な椅子が受け止めてくれる。どうしよう、そればかりが頭をぐるぐると駆け巡って、それ以外考えられなかった。いつの間にか腕を取られ、引きずられるようにして外へ出る。
その力の強さがあまりにも優しいものだから、暁人はこみ上げるものを必死に我慢することしかできない。
縺れるように細い路地裏に回り込むと、KKは暁人を思い切り抱きしめる。
されるがままに『掴まってろ』と言われ、突如ぐわりと襲った浮遊感に我に返り、慌ててしがみついた。
「ちょ…っと、KK! こんなところで、」
「大丈夫だ、死角は心得てる」
たしかに地図は頭に入っているのだろうが、それにしたってこんなところでグラップリングを使うなんて色々とついていけない。とりあえず何をするにしても、この状況では圧倒的に不利だ。大人しくなった暁人にKKは満足げに笑うと、それからしばらくワイヤー伝いに渋谷の空を飛翔し続けた。
やがて降り立った場所に、暁人は既視感を覚えた。それどころか、この場所を忘れるわけがない。溢れんばかりの人混み、縦横無尽につながった横断歩道。
「スクランブル交差点…」
「夜景を思い浮かべたとき、どうしてもここしか浮かばなかった
他に綺麗なところはたくさんあるんだろうけどよ」
あまりにも有名すぎるこの場所を、人知れず見下ろせるこの高揚感を、大事な人とともに共有している。
「何泣いてんだよ」
「ご、ごめ」
「謝るな」
降り立った時の姿勢のまま頭を引き寄せられる。たとえこれが依頼でも試験でもどうでもよかった。KKが少しでも暁人のために何かをしてくれたことが分かったから、それでもう、十分だった。閉じた目蓋から涙が滑り落ちては生まれてくる。雨みたいに。
「さっきあんなこと言っちまったけど、オレは…アレだ
オマエが笑ってくれてたらそれでいいよ なんだっていい」
「そんなの…僕だって同じだ」
「そうか、じゃあこれも渡しておけるな?」
そう言って後ろから取り出されたのは、カゲリエを出るときにも見たあの紙袋だった。押し付けられるまま中を見る。随分と大きな箱が入っていた。取り出した外観に、一瞬考えて、それから天啓のように浮かんだ答えに思わずKKを見る。そんなまさか。当のKKは顎をしゃくって開封を促すだけで何も言わない。つばを飲み込み、暁人はそっと蓋を開けた。
「なんで、……」
「あんな明らかに欲しそうにしてたのに、買わねえわけねえだろうが」
思った通り、昼に見たあの黒い靴だった。好きな人を思い出して、けれど諦めたあのハイカットスニーカー。
「あ、お、お金、」
「今更そういうの言うな、っつーかダメなのかって
オレが、あげたいヤツに欲しいもの買ってやんのは」
ズルい、そう言われてしまってはこれ以上言い募ることも出来なかった。
「大事にする」
「そうしろ」
カチリとジッポを上げて火を付けながら、KKはひらひらと手を振った。そのまま大事にプレゼントを抱え直す暁人に並んで、紫煙をくゆらせる。
「さっきも言ったけど…ふー
オレはオマエが楽しいって思ってるならいいよ」
「うん」
「だから、教えてくれ
御覧の通り、オレはオマエが言ってたことを額面通り受け取って形にしただけだ」
「…?」
「オマエが何を考えてるか、あの時とは違って分からないことばかりで……正直今も手探りだよ」
「ちょ、ちょっと待って、」
「オマエが嫌だと思ったことはオレに言ってくれ、いつもみたいに
次は善処するから」
「KKってば!」
肩を掴んでKKを止めるように名前を呼んだ。状況を整理しきれない暁人は、思いつくままにどうにか問いをひねり出す。
「えっと、これなんの試験?」
「ん? 試験?」
「じゃあ…依頼は結局どんなことだった?
僕最後までわかんなくて…要望聞く感じだった?」
「は、依頼だ?
気になる感じがして霊視した時くらいだぞ、今日は休み取った」
「え、えぇー……」
今度こそ、暁人の思考は停止した。その隙をついて、今度は異変を感じ取ったKKが反対に暁人に詰め寄る。
「オマエこそ、なんでそんなこと聞くんだ?」
「そ、れは、」
「ふむ……」
KKは暁人より場数を踏んだ大人だった。それはこういう時でもいかんなく発揮されるようで、見聞きした内容と今の会話を照合してすぐさま結論を導き出した。煙草のひと吸いの合間、それは暁人にとって断罪を待つ者の心境にも近かった。
「オマエ、これがなんかの依頼だと思ってたな?
『試験』に関しては追々聞くとして…なんだよ、っはああ~~ホント、オマエ……」
「でも、KK何にも言わないから…」
「いやデートしてるときにわざわざ『デートします』って宣言は意味わかんねえだろうが!」
「そうだけど! そうじゃなくて!」
KKの言うことは尤もだったが、暁人だって言い分はあった。そもそもこれちゃんとデートだったのか。その前提があるだけで今までの行動は意味を変える。
だけど、暁人が知りたいのはそこじゃない。肝心なのは、
「そもそも僕好きだなんて言われてない!」
「言ったし言われたわ! オマエの長期の依頼前、めちゃくちゃ酒飲んで、泣きながら!」
KKはポケットから手帳を取り出した。黒革の、手のひらに収まるあの閻魔帳。
日付は二週間前、そこにあった言葉の羅列。
「『でもきっと、そんなデートできるわけない、僕が好きになった人はそんなことできるような人じゃないから』」
いつもの居酒屋。隣同士並んだ席の隙間。突っ伏する僕の弱音と、ささやかな願い。
「あの時酔ってたオマエに、つけ入るように言質を取ったのは、オレだ
言い訳がましくなるが、オマエのことを好ましく思ってたのは本当だし」
「あ、あぁれ、全部、聞かれて、」
「だから、オレも言った 次のページ」
ゆっくりと紙をめくる。
「『ならオマエのしたい事全部叶えてやる、全部だ
それが分かった時、オマエは信じてくれよ』」
「っ、…!」
「オレは、出来ただろうか
今までとは違う…ちゃんと相手を待って、大事にして……信じてもらえたか?」
顔を上げた先のKKは、相変わらずタバコを吸ったままだ―――その指先を震わせながら。
暁人は瞳を閉じて思い返す。優しいまなざし、わざわざ選び直した言葉、手のぬくもり、抱き合った心臓の速さ。
深呼吸して、KKと瞳を合わせる。
「『待ち合わせは駅前』にしたのは失敗だったね
人多くて見つけにくいし、KK連絡マメじゃないの忘れてたし」
「……」
「ランチはおいしかったけど、なんだかもうほかのことで頭いっぱいでそれどころじゃなかった
ショッピングもその後もずっと だけど手を繋いだことも、パンケーキを分けてくれたこともちゃんと覚えてる、覚えてるんだよ」
「暁人…」
もうかつてのように同じ体でいることはできない。けれど心だけは、今からでも一つになろうとすることはできる。だからKKにも伝わってほしかった、アンタと同じくらい僕だってたくさん気にしてたこと。KKばかり追ってしまう視線も、どきどきして上擦った言葉も。手の湿った感触も、今なお高鳴る胸の鼓動も。
「…そんなデートできるわけなかったんだ
僕の好きになった人は、そんなことできるような人じゃなかったから」
ベタな待ち合わせも、可愛いランチもショッピングもハプニングも豪華なディナーでさえも。だんだんと思いだしてきたが、これはどれも彼には無理だろうと分かっていて、酔った自分がいじけて言っただけの冗談みたいなものだ。だって彼には(元)家族がいる、歩んできた過去があって、生き方がある。子供の暁人なんてきっと取り合ってくれないだろうと心の隅で思っていたことが、酒によって表出しただけだ。
「でも分かった、大事なのは出来たかどうかじゃないんだ
アンタが諦めなかったことが、一番うれしいって分かった」
「っ、」
「というかKKだったらなんだっていいんだ、だって好きだから」
勢いのままに滑り出た告白は、風に乗って渋谷の夜空に消える。
頬が熱い。心臓は破裂しそうで、でも瞳だけは逸らさなかった。
「僕のやりたいこと、叶っても叶わなくても
それでも僕はKKと一緒にいたいよ、ずっと」
KKの目が見開かれるのがわかる。
僕は今、ちゃんと笑えているだろうか。
「KK、僕はKKのことす―――、」
「愛してる」
すかさず懐に入れられて、上回る言葉が頭上から降ってくる。
ぎゅうぎゅうにくるまれて固まる暁人に、追い打ちをかけるようにしてKKは告げる。
「ったく、今度こそオレが先だと思ってたのに
好きだって言われたら、こっちはもう愛してるしか言えねえだろうが、お暁人くんよ」
「だ、って…」
「まあいいや、格好がつかないのはオレ達らしくていい」
もごもごと見上げた先、彼の顔は月明かりに照らされてどこかすっきりとしている。
それがあまりにも刺激が強くて、暁人はすぐさま元の位置に引っ込んだ。
「ふっ、なんだ? 今頃恥ずかしがんなよ オレなんかより中々カッコよかったぜ」
「~~~ぃ、言わないで…」
やけに空気が冷たく感じるのは気のせいではない。でもKKがそこから守るようにして抱き込んでくれているから温かい。あの日みたいだ。二人きりで走り続けたときのように。いまだ顔を上げられない暁人へ、悪戯に頭の天辺へ煙が吹きかけられる。飽きずに何度も繰り返され、流石にこれは怒ろうと起き上がって、
「んむっ、?!」
「……これはさすがに、手帳にはつけられねえな」
しれっと言いながら再び屈んでくるものだから、暁人も惚れた弱みゆえに落ちてくるくちびるを受け止めるしかなかったのだ。
KKの持つ手帳はすでに両手の指を超えている。
様々な人間の秘密を書き記し、些細なこともここに記録してある閻魔帳だ。
けれどたった一枚だけ、そのページは切り取られている。
その切れ端の内容は、持ち主と彼の愛する相棒だけが知っている。