愛犬の散歩の帰り道、天気が良かったからいつもより少し遠回りして帰っていると、彼は突然見慣れない路地裏に向かって駆け出した。何か楽しそうなものでも見つけてしまったのか、美味しそうな匂いでもするのか、リードを引く力は制止できないほどに強かったため俺は仕方なくその後に続いた。
陽の光の届かない細い路地はコンクリートの隙間から雑草が生えて石は苔け、寂れた看板や放置されたゴミであまり居心地のいい場所とは言えなかった。彼が何を求めてここへ走ったのか確認するため視線の先を探ると、小さなビニール袋が道の端に転がっている。……いや、あれは。
「ワンッ」
「なるほど、おまえはこの子を見つけたんだな。……まだ生きてる、な。おはようキティ、君を病院に連れて行ってもいいかな」
両の手のひらに収まるくらい小さく丸まった猫は、泥で汚れ寒さに震えていたけれど、確かに心臓は動いていた。力を入れずに頬を撫でてやるとその子は風の音で聞こえなくなりそうなくらいの声量で「みぁ」と鳴いた。
「よし、散歩延長だ。おまえが見つけたんだから責任持って最後まで付き合えよ?」
「ワウッ」
通いの動物病院がちょうど開く時間だ。予防接種や検診で行く際は引っ張っても石のように動かない愛犬は、今回は自分が対象ではないときちんと理解しているらしく迷いない足取りで歩いていった。俺は小さな消えかけの命を抱き抱え、その隣を丁寧に歩いた。
病院で怪我の治療をしてエサを食べさせてもらうと、その子は落ち着いた顔ですやすやと眠った。しばらくの間は様子を見る必要があるけれど、怪我はそこまで深くないし内臓は風邪ですこし弱っているだけだという。消化にいいエサを教えてもらい、それを購入して帰った。
帰宅後、使い古したブランケットをベッド代わりにして寝かせれば、すぐに愛犬がそれを守るように丸くなった。口を開けたら中に収まってしまいそうなくらいサイズの違う大きな犬と小さな猫が寄り添って眠っている姿はなかなかに癒される。ふぅと息を吐いて、俺は自分の朝食の準備をした。
バタッと大きな音がしたのは太陽が家の真上に上った頃だった。作業をしていたパソコンの画面から目を離し、音のした方向を振り返る。そっちにあるのは寝室で、そこには今朝眠るところを見届けた二匹がいるはずだ。何かあったのかと急いで立ち上がり寝室の扉を開け、俺は愛犬の名前を呼ぼうと開けた口から何も発することができないまま固まった。
「ん……あ、えっと、……こんにちは……?」
「……警察」
「待って! 不審者じゃな、いっていうか、あの、……ええと……服、借りてもいい?」
見慣れた寝室で、見慣れない美しい紫色の髪と瞳を持つ青年が、床に素っ裸で座り込んでいた。全く理解ができないけれど知らない男の裸を見続けるのは、……なぜか絵画のような雰囲気を持つ彼はそこまで不快でもないけれど、常識的によろしくないので、ひとまずクローゼットから服を取り出し渡してやる。立ち上がった青年は俺より身長が低く、身につけた服はダボついてすこし可愛らしかった。
「それで、おまえは?」
「……信じてもらえるとは思わないんだけど」
「言ってみろ」
「……あなたが拾った、猫です」
「……ありきたりだな」
「そう言われても……」
見たところ彼にはネコミミもネコのシッポも見当たらない。猫が人間になるなんて現実であるはずがないのだからそんな創作めいたものなくて当然かもしれないけれど。
「ここにいた猫はどうした。体調が良くなくて面倒を見ていたんだ」
「だからそれが俺だって。病院に連れて行ってくれてありがとう。あのまま死んじゃうんだろうなって思ってたから、あなたは命の恩人だよ」
「……」
「信じられないのはわかるけどね。……ん、と、でも本当に、俺があなたが助けてくれた猫なんだ。証明できるものもないから……あ、そうだ、目は? 猫の時と同じ色だと思うんだけど」
「目?」
「ん」
よく見えるように目を見開いて、彼は俺に顔を近づけた。長いまつ毛に縁取られた瞳は左右で色が違っている。
「……きれいだ」
「……あ、ありがとう」
「……、あの猫を助けた時は目を開けられない状態だった。瞳の色は確認していない」
「ああ……そっか……」
「……ほんとうに、猫だって言うのか?」
「うん」
わざわざ俺にこんなドッキリを仕掛けてくる友人に心当たりはない。実際ここにいたはずの猫がいなくなり代わりに彼がいて、どう見たって彼に俺を騙して楽しんでいる様子もないのだから、すこしだけ、彼の言うことを信じてみたくなっていた。それに彼の足元にいる愛犬が先ほどあの猫にしていたのと同じように彼を守るみたいに寄り添っていたから。
「……猫の姿と人間の姿、どっちが本当のおまえなんだ」
「どっちも俺だよ。今は疲れ切っててうまく変身できないんだけど、いつもは好きに猫にも人間にもなれる」
「へえ……。言葉は? 猫の言葉と人間の言葉、どちらも理解できるのか?」
「うん。この子の言うことも少しはわかるよ。あなたのことをとても信頼しているんだね」
青年はしゃがみ込んでわしゃわしゃと犬の頭を撫でて、その額に優しくキスをした。水浴びをしたあとのような気持ちよさそうな顔に俺はそっと笑いをこぼす。
「名前は?」
「うん?」
「おまえの名前。あるなら教えろ。呼ぶ時に困る」
「……警察には行かない?」
「行きたいのか?」
「行きたくない」
「体調が良くなれば猫の姿にもなれるんだろう? 男を飼う趣味はないが、猫ならまあ悪くない」
「……にゃあ」
「ふ、ヘタクソ」
わざとらしい猫の鳴き声に笑って、俺は彼に手を差し出した。首を傾げた彼の手を取り握手をすればふわりと表情が和らぐ。
「俺の名前は浮奇。あなたは?」
「ファルガー・オーヴィド。ふーちゃんとでも呼んでくれればいい」
「ふー、ちゃん? ずいぶん可愛いあだ名だね……じゃあ、ふーふーちゃん」
「おい」
「えへへ。猫になったらいっぱい撫でてね。もちろん今の俺を撫でてくれてもいいよ」
「……」
「こんなカッコイイ人に拾ってもらえるなんて、人生で一番の日だ。これからよろしくね、ふーふーちゃん」
目を細めて笑う浮奇にドキッとする。目の前の男が好みの顔をしていることに今さら気がついたたって後戻りなんてできなかった。