本に書かれた文字を目で追うけれど、それは言葉通りただ目で追っているだけで内容が頭に入ってきているわけではなかった。いつもならすぐに入り込める物語の世界に意識が向かない理由は分かっているから、数行分の文字を読み進めたところで本を閉じて息を吐いた。時計の針は数ミリしか進んでいない。約束の時間にはまだ遠い。
不意に着信音が聞こえて辺りを見渡した。スマホはどこに置いただろう。立ち上がり音のする方向へ歩を進めるとそれは洗面所の棚に置きっぱなしになっていた。そうだ、朝、電話をしていて。
彼の顔が頭を過ぎり焦燥感を感じる。このままここでじっとしていられないような、走り出したくなるような感覚。深呼吸を一度してからスマホを手に取り画面を見ると、そこには正に考えていた彼の名前が表示されていた。すぐに応答ボタンを押しスマホを耳に当てる。
「もしもし? 浮奇?」
『ふーふーちゃん……』
「……ん、どうかしたか?」
泣き出しそうな感傷的な声で浮奇が俺のことを呼ぶ。俺はそれに相槌を打ち言葉を促した。彼にだけ向ける甘さを含んだ優しい声が、自分でも案外気に入っている。
『緊張して死にそう……』
「……ふ、ふはっ、あはは!」
『笑いごとじゃないんだけど』
「ああ悪い、おまえのことを笑ったんじゃなくて」
『じゃあなに』
「俺も、すごく緊張してる」
『……うそだぁ』
「本当だよ。落ち着かなくて何も手につかなかった。無駄に早く家を出てしまおうか悩んでいたところだ」
『……ねえ、それ、無駄にしない方法があるよ』
「ん?」
『俺も時間まで待てない。二人とも待てないなら約束の時間を早めちゃおうよ。それで、一人じゃなくて二人で一緒に緊張しよ』
「……たぶん、浮奇と会ったら緊張どころじゃなくなると思うけどな」
『俺に夢中になっちゃって?』
「ふ、そうかも?」
『……ね、本当に早く会うの、だめ? 今すぐふーふーちゃんに会いたい』
「いいよ、そうしよう。俺はすぐ家を出れるけど、浮奇は? もう準備万端?」
『バッチリ。早起きし過ぎて、いつもより時間かけてしっかり準備したのに時間が余っちゃったよ』
「わお、会えるのが楽しみだな」
『……だいすき』
「あとで直接言ってくれ」
『うん、絶対言う。ふーふーちゃんが照れちゃうくらいいっぱい』
電話越しでも胸焼けしそうな甘さを持つ浮奇の声を、これから直接聞くことができる。まだバレることのない緩んだ頬を誤魔化すことなく「楽しみにしてる」と伝えて電話を切り、上着を羽織った。玄関に向かうと愛犬が駆け寄ってきたからその頭を撫でて散歩じゃないよと笑う。
「好きな子と初デートだ。おまえもうまくいくように祈っててくれ」
「わうっ」
「ありがとう。行ってくる」
今日は一日天気が良くて、高い空の色まで美しい。空気が綺麗だなんて思うのは俺の気分が晴れやかだからだろうか。普段目に止まらない道端の花が可愛らしく咲いていることに気がついて自分を笑った。浮奇と会えるのが相当楽しみで、浮かれているらしいな?
約束の場所まで数十分。どんどん早くなる鼓動は浮奇を目の前にしたらどうなってしまうのか予想がつかなかった。電話越しでも「ふーふーちゃん」と可愛らしく呼ばれれば心が満たされるんだ。目を見て、呼吸を感じて、そうして紡がれる自分の名前は、それだけで愛の言葉のように思う。
待ち合わせた場所に浮奇はまだいなくてそっと息を吐いた。待たせたくなかったし、自分から声をかけるのは緊張するから。俺は人の少ない端の方に寄ってスマホを取り出した。SNSはいつだって騒がしく仲間たちが好き勝手に投稿していて、何人かは今この瞬間も配信中のようだ。これから俺と浮奇が会うことなんて俺たち以外誰も知らないで、いつも通りの日常が流れていく。
「あの……ふーふーちゃん……?」
「っ!」
声をかけられてパッと顔を上げた。目の前には画面越しで何度も顔を合わせた男が見てきた何倍も高画質で立っている。俺と目が合い、ふわりと表情が綻ぶ様子を、脳に焼き付けるように見つめた。
「ふーふーちゃんだ……。……やっと会えたね」
「……浮奇」
「! うん! えへへ、電話と全然違うや。心臓が壊れちゃいそう」
俺も体中バラバラになってしまいそうだよ。あまりにも胸がいっぱいでいつも良く回る口が全く動かない。だけど視線を重ねるだけで、言葉なんてなくても何かが伝わる気がした。現実逃避のように浮奇の瞳の美しさについて考えている脳内は伝わらなくてもいいけれど。
「はじめまして、だな」
「ふ、うん、はじめまして。会えて嬉しいよ」
「……ああ、俺も」
えへへと泣きそうな顔をして笑う可愛い子。リアルの世界はこんなにも情報が溢れていたのかと驚くほど浮奇の全てが俺を圧倒した。瞬きひとつすら、見逃したくないほどに綺麗だ。
何か、いつものように話をしてあげたいし、浮奇のことを一ミリも不安にさせたくない。でも考えがまとまらなくて声を出すのも急に難しくなってしまった。ただ浮奇を見つめるだけで時間が過ぎていく。
「ふーふーちゃん」
「……、あ、うん? どうした?」
「もう一回、名前を呼んでくれる?」
「? 浮奇?」
「……うん、へへ、なんでもない。ふーふーちゃん、大好き」
言うと宣言されていたのに、不意打ちで伝えられて時間が止まった。何があとで直接言ってくれ、だ。心臓の負担を考えろ。
固まってしまった俺に浮奇が「ふーふーちゃん?」と声をかけてようやく呼吸を思い出す。まだ数分しか経っていないのに、もう一日分の体力を使い果たした気分だった。
「浮奇」
「うん!」
「……お腹は空いてるか? どこか店に入ろう」
「胸がいっぱいであんまり食べられないかもしれない」
「同じく」
「あはは、やっぱり会っても緊張したままだよね」
「そうみたいだな。……ああ、そうだ」
「うん? どうかした?」
「俺も大好きだよ、浮奇」
「……」
やられてばかりが性に合わない負けず嫌いでよかった。なんでもないことのように、さりげない口調で言えたように思うから。
俺の時間が止まったように、その言葉は浮奇の時間も止めてみせた。遠慮なくじっくりその顔を見つめてから、そろそろ戻ってきてもらうために「浮奇」と優しく声をかける。パチパチと瞬きを繰り返した浮奇がハッと呼吸を取り戻した。
「し、心臓止まるかと思った……」
「止まらなくてよかったよ」
「……あとでふーふーちゃんの心臓止めてやる」
「殺害予告か。報復には気をつけるといい」
「俺が言ったらふーふーちゃんも言ってくれるってこと?」
「……どうかな」
「いいもん、俺は言いたいだけ言うし、ふーふーちゃんが言ってくれたら嬉しいだけだし」
「心臓が止まりそうだったのに?」
「ふーふーちゃんに殺されるなら本望だね」
ふふんと嬉しそうに笑って浮奇はそう言った。そういうことなら、俺も浮奇に殺されるなら本望かもな? 言葉より先に、見つめ合う視線の甘さで窒息死しそうだけれど。