キッチンカウンターの向こう側、リビングでソファーに座る彼がチラチラとこちらの様子を伺っているのには気が付いていた。それもそのはずで、だって俺が今作っているのは日常的に作るごはんじゃなくて、来る二月十四日、バレンタインに向けたチョコレートのお菓子だから。
チョコレートを湯煎で溶かしてからは甘い香りが部屋の中に充満していて、わざわざ今朝「バレンタインのお菓子作りの練習するからキッチン使うね」と宣言しなくともキッチンにこもっている理由は明白だっただろう。バレンタインの前日に作るのが本番で、今日はあくまで練習だ。彼にはまだあげられない。落ち着かない顔で読書にも集中できていない可愛い恋人には申し訳ないけど。
「浮奇、ちょっといいか?」
「わっ! どうしたの? どこか行ってくる?」
「驚かせてすまない。そうじゃなくて、……お願い、が、あって」
「……うん、なぁに?」
手を止めて彼に近寄り、逸らされる顔を頬に触れて正面へ向かせた。目を合わせてじっと見つめると彼は意を決したようにすっと息を吸う。
「チョコ、俺も作るの手伝いたい」
「……え?」
「たぶん役には立たないしむしろ邪魔になると思うから、浮奇が目障りだと思ったらそう言ってくれて構わない。もし俺にもできそうな簡単なことがあればそれだけでも……」
「え、あの、……どうして、急に? お菓子作りどころか普段は料理もしたがらないのに」
「……浮奇が、楽しそうで、……俺も一緒にいたくなったから」
「……ベイビィ、可愛いのも程々にしてよ。オーケー、料理に関して俺は優しくできないと思うけど、その可愛さに免じてちょっとは贔屓してあげる。服汚れちゃうしエプロンしよっか。ふーふーちゃんも付けられそうなの持ってくるからこの手袋して待ってて」
「ありがとう」
ぎゅうっと抱きしめれば彼も優しく抱き返してくれる。可愛い恋人にルンルンしながら部屋に行き、何種類か持っているエプロンの中から一番大きめのものを選びキッチンに戻った。ジャーンと見せたシンプルなデザインのそれに、彼は安心したようにホッと息を吐いていた。
エプロンをつけてあげて、俺が手を洗い直してから、お菓子作り再開だ。バレンタインにあげるお菓子なんだから当日まで楽しみにしておいてほしい気持ちはあったけど、大好きな人と一緒にキッチンに立てる幸せには敵わない。なんならこのお菓子は今日のためのものにして、バレンタインはまた別のものでもいいし。練習なんて言ったけど、俺、失敗しないからぶっつけ本番でも大丈夫だもん。
「チョコレートはもう溶かしちゃったからその次の工程からね。卵、割ったことある?」
「さすがに」
「よかった。じゃあこれとこれに、卵黄と卵白を分けて入れて」
「……、……どうやって?」
「ふふ、一個見本をみせてあげましょう。こういうふうに殻をちょうど真ん中くらいで割って、卵黄を片側に入れてあげるのね。それで卵白はもうこのボールに入れちゃっていいから、まだ少し残ってる卵白も分けるためにもう一方の殻の方に卵黄を移す。ほら、残ってた卵白も分けられたでしょ? それで、卵黄はこっちのボール。オーケー?」
「……や、やってみる」
「うん、やってみよう。怒らないから緊張しないでいいよ」
「お母さんみたい……」
「浮奇ママはこどもを褒めて伸ばすタイプなんだ」
「はは、そうかな」
ちらりと笑顔が覗いたけれど、殻をカウンターにコンコンと打ちつける時にはもうすっかり真剣な顔になっていた。そのかっこいい横顔と彼の手元を両方見守らなきゃいけないんだから二人で料理っていうのも案外難しいものだな。キスをしたくなる気持ちも堪えなきゃいけないし。
おぼつかない手付きだったけれど俺の教えた通りに卵黄と卵白を分けることができた彼はふぅっと息を吐き、自慢げな顔で「できた」と俺に笑みを向けた。単純な俺はその笑顔で一発KOされて、背伸びをして彼の唇にキスをしてしまった。
「……浮奇」
「ごめん、いつも俺が料理の時は手出さないでって言ってるのに、頑張ってるふーふーちゃん見てたら、こう、堪らない気持ちに……」
「……俺の気持ちを理解してくれたようで何よりだよ」
「え。……え? 俺が、料理してる時? ふーふーちゃんもキスしたくなっちゃうの?」
「当たり前だろう。大好きな子が俺のために料理を作ってくれているんだぞ。しかも楽しそうに鼻歌まで歌って……、浮奇はいつでも可愛いけれど、料理をしている時はもっと、……キス、したくなる」
「……い、いったん、てを、あらいます」
俺が手を洗う間に彼は手袋を外し、手の水気を拭いて振り返った時には準備万端で手を広げて待っていた。飛びつくように抱きしめて唇を重ねる。まだお菓子作りは序盤の序盤なのに……こんなんじゃ夜までかかったって焼き上がらない。彼が手伝ってくれたお菓子をきちんと作り上げるために、ちゃんと我慢しないと。でもとりあえずあと一回、チョコより甘いキスをちょうだい。