愛の挨拶 死者に対して「おやすみ」と言うときは、その意味は大抵安らかに、と死後の安寧を願うものだろう。でも、KKとの最期の時に言った僕から彼への「おやすみ」は、またいつかの再会を願う、暫しのお別れのための「おやすみ」だった。
その願いは案外早く叶って、彼は程無く現世の僕のもとに帰ってきてくれた。それだけでも嬉しいのに、KKは僕と共に生きる事を選んでくれた。大切な人と過ごす時間は当たり前に存在するものじゃない。それを痛感しているから、僕にとっては日常の何気無い挨拶はとても大切なもので、日々欠かさないようにしている。最初はおう、とか気の無い返事を返していたKKも、僕のあまりの律儀さに感化されたのか最近はちゃんと返してくれるようになった。
肌寒さを感じて目が覚めると、隣に空いた一人分のスペースが目に入る。スマホで確認するとまだかなり早い時間だ。波打つ敷布に触れるとまだ少し暖かい。急いで寝室を出た。
リビングに姿を見つけて声をかける。
「KK、おは───」
「悪い、呼び出しがかかった。もう行かなきゃなんねぇ。おまえはもうちょい寝てろ」
慌ただしく身支度を整え、玄関へと向かって行く。その後ろ姿を追って行き、玄関まで見送る。
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
「ああ、行ってくる」
こちらを振り返る事なくKKは言い、扉が閉まった。
講義を受け、バイトをこなし、なんとか1日を終わらせて帰宅すると、当然のようにKKはいない。
まぁ、そうだよね。こちらは学生、相手は忙しい社会人だ。スマホを見ても特に通知は無し。昼食の時に何かメッセージを送ろうかとも思ったが、既読もつかないとちょっと寂し過ぎるので止めておいた。この様子だと、その予想は当たっていた可能性が高い。落ち込みフラグを回避出来た事は良かった。心理的には現状そんなに変わらないかもしれないが、致命的失敗は許されないのだ。とりあえず、夕飯の支度をしてから課題を終わらせようと、冷蔵庫を覗きこむ。
「あれ?こんなの買ってたっけ?」
冷蔵庫の中央の段、真ん中に鎮座する甘味に気付き、手を伸ばす。コンビニスイーツであろう、白いクリームがふわっと盛られたカップのチーズケーキ。美味しそうだ。夕飯前の甘党には誘惑が強すぎる。自分には覚えがないとするとKKが買ってきたのだろうか。いつの間に?そもそも、彼は甘い物はあまり得意ではないはずだ。生クリームは胃にくる、とかも言っていたような。暫し考えて、
「まぁ、いいか。名前書いてないから食べちゃってもいいよね」
本能に従い、スプーンを手に蓋を開けた。
レポートがとりあえず、切りの良い所まで進んだので、そろそろ止めるかと時計を見る。間もなく日付が変わりそうだ。KKはまだ帰ってこない。ため息を一つついて、寝室に向かう事にした。
壁の方を向いて横向きになって布団に包まる。夜、一人でいるのはあまり好きじゃない。子どもじゃないから、一人で寝られないって訳じゃないけど、世界に自分一人だけしかいないような変な気分になる。あの夜も、生きてる人間は僕一人、って状況だったけど、KKがいたから大丈夫だった。彼がいてくれたなら。どうしようもなくKKに会いたくなって、ぎゅっと目を瞑って、胎児のように体を丸めてゆっくり呼吸する。自分の呼吸の音を聞きながら、少しずつ眠りの中に落ちていった。
「ただいま、暁人」
耳元で囁く声。起こさないようにと、吐息のように細やかな声。それでも待ち焦がれていた声に意識は一気に覚醒する。
「…お帰りなさい、KK」
声がした方を向くと、暗がりの中、自分の眼前にある恋人の首に腕を絡めた。
「悪い、起こしちまったな」
KKは左手で自分の体を支えながら、右手で暁人の頭を撫でる。
「大丈夫、むしろ起こしてくれてありがとう」
暁人は猫が甘えるように頭をすり寄せ、内緒話のようにKKの耳元で囁く。
KKは大きく息を吐き、両腕で暁人を抱き締めた。
「そういや、美味かったか?」
暁人の髪に鼻先を埋めながらKKが聞く。
「何が?」
暁人はKKの背中に手を回し、背骨をなぞるように撫でる。
「冷蔵庫に入ってただろ、甘いもん」
「あぁ、あれ、やっぱりKKが買ってきたやつだったんだね。食べちゃって大丈夫だった?」
「あれはおまえに買ってきたんだ。昼間、コンビニ行った時に見て、おまえ、好きそうだなと思ってな。家に寄って冷蔵庫に入れといたんだよ」
「美味しかったよ、ご馳走さま」
笑って答えた後、真面目な顔になり、ちょっと考え込む。
「どうした?」
KKが訝しげに問う。
「なんか意外だな、と思って。KKってこういう事する様な感じじゃないから」
KKは苦笑し、
「悪かったな。全く、ちゃっかり食っといてその言い草かよ」
乱暴に暁人の髪を掻き混ぜる。
「──でも、まぁ、確かにおまえの言うとおりかもな」
真顔になって思い返す。
確かに、過去を振り返って見ても、妻子に対してそういう事をしたのはあまり無かったな、と思う。息子に対しては行事毎のプレゼントなどはしていたと思うが、品物を選んでいたのは妻だった。その妻にいたっては何もしてこなかった。後悔頻りだ。申し訳ない事をしたと思う。
だから、今度こそは。そういう気持ちがあるのだろう。
「これが人生最後の色恋沙汰だろうしな、おまえには優しくしたいんだよ」
KKの言葉に暁人は一瞬、目を丸くし、嬉しそうに微笑んだ。
「ほら、早く寝ろ。夜更かしして寝坊したら、またそのままベッドに置いていくぞ」
照れたように、若干早口でKKが言う。
幸せな眠気に呑まれつつある暁人は思った。
そうだ、今夜はもう寝よう。
朝、目覚めて一番最初に見る顔に、
「おはよう」
と言えるように。