オフィスナデシコの共同生活が楽しすぎて寂しくなってるモクマとチェズレイの出立を明日に控えた日、オフィス・ナデシコのリビングで宴会を始めて随分経つ。
洗面所から戻ったモクマが濡れた手を裾で拭きつつソファーの端の席、ルークの左隣へと座ったところで、ルークがずい、と顔を近づけて来た。
「モクマさんはぁ、なんでモテないんですか」
「もうっ、ひどいわルーク!なんてこというの!」
向かいの席でハンバーグにフォークを刺したアーロンがブフッと大きく吹き出したのも気にせずルークは続ける。ちなみにチェズレイは今後の予定関連で用事があるとかで不在だ。帰宅予定時間はもうすぐだが、夕食にはちと遅いか。
「だって、モクマさんはニンジャジャンです。超忍ですよ!」
「あー、…残念なことに世のお姉さま方はニンジャジャンでは釣れんのよ。」
「大丈夫です。ニンジャジャンのスーツを着ていなくてもモクマさんはとってもカッコいいですから!」
若干舌っ足らずで目の据わったルークがぐっと手を握って力説する。明らかに飲み過ぎだ。
「はは、ありがと、ルーク。」
「モクマさんはいっつも優しくて、おいしいものも知ってて、身軽で素早くて、ピンチのとき助けてくれて、とっても頼りがいがあって」
良いところを指折り数えるルークが一生懸命で自然とモクマも笑顔になる。可愛い後輩にいきなり扱き下ろされた時はどうしたものかと思ったが、こんなに価値があるのに認められないのはおかしいと言いたいようだ。
「そんな褒められると照れるねぇ」
「なのに、どうしてモテないんですか!」
「あー、うん。言いたいことは分からないでもないんだけど。結構刺さるよそれ」
しょんぼりと肩を落とすモクマに、じっとモクマを見つめるルーク。笑い疲れたアーロンが窓の方向に一度目を向けると、ほぼ一人で食べ尽くした最後のハンバーグのかけらを口に押し込み、席を立った。
「え、ちょ、アーロン、なんで席をお立ちに?この子を止めてからって訳には」
「明日からドギーの世話する奴がいなくなるんだ。今日くらいはおっさん達で面倒みてくれや。」
「…そうだね。アーロンも元気で。落ち着いたらそっちにも遊び行くからね」
世話を任せると言うより、ゆっくり別れの挨拶でもしておけってことだろう。主にルークに対して。
ひらひらと手を振って屋上への階段方向に出て行ったアーロンを見送り、テーブルに視線を向けてみる。
野菜や魚はまだある程度残っているが、肉料理は綺麗に片付いている。これはだいたいアーロンのせい。
それから離席中に空になった瓶がいくつか倒れている。
アーロンのいた席の傍のブランデーと、ルークの席の近くには梅酒と、カルーア、マリブ。今まさにルークが抱えて離さないのは残り少ないカシスリキュールだ。
普通は割って飲むことを基本とするくらい甘い酒だ。しかもアルコール度数20%ほど。ワインやらどぶろくより度数は高い。
なにより、これだけ酒瓶が転がっているのに割材の炭酸もジュースもほとんど未開封のままだ。
「あー、ルーク、一回お水飲んどこっか」
「酔ってないから大丈夫れす!」
にこぉ、と効果音が聞こえそうな満面の笑み。
「そのセリフ、酔っ払いが言うやつよ」
まだ飲めますよと示すように、黒にも見えるくらい濃い紫の液体が入ったグラスに口を付けると一気に煽った。
「わあ、気持ちいい飲みっぷりだねぇ」
パチパチと軽く拍手をしてみた。
「モクマさんと一緒だと、お酒がおいしいので」
「やだ、そんな甘い声で言われたらドキドキしちゃう」
甘い吐息にぞくりとする。
…艶やかな話というより、嗅覚という意味での甘い吐息だが。
「そのグラスおじさんにちょーだい。ねー?」
「え、モクマさんも同じの飲んでくれますか?」
たしかに言うことを聞いてグラスをくれた。
が、すぐにリキュールの瓶を逆さまにして勢いよくグラスを満たしていく。
氷すら入っていないグラスにたっぷり注がれたカシスリキュール。口を付けてないのに漂う香甘い。
「はい、どうぞ!」
カシスリキュール。重ねて言うが、普通は炭酸水やジュース等で割って飲むものである。酒飲みだろうが原液をそのまま飲み干すことはしない。ウイスキーロックならぬカシスロックとか聞いたことないもんね。
が、並外れた甘党にとっては夢の飲み物だったのかもしれない。
「うん、…ありがとね。」
善意のみで勧めているのは分かる。おいしいものはシェアしたい方というのもよくわかる。可愛い後輩が注いでくれた酒というのはそれだけで良いものだ。これがいつものどぶろくなら瓶ごとだろうが一気飲みしたところだ。
しかし、この青年と自分とでは甘いものに対する許容量は違うのだ。
グラスとルークを交互に見る。期待のまなざしが眩しい。
「…飲まないんですか? とってもおいしいのに」
しゅん、と。犬の耳が垂れ下がる幻覚が見えた。
「飲まないっちゅーか、いや。あー、あのソーダをもら」
「じゃあ僕が飲みます!」
言い終わる前にグラスを取り返されそうになって慌てて引き寄せる。
「わー、タンマタンマ!もう今日はよしなさいって」
グラスは無事確保できたが、目に見えて落ち込んでいる。
「……だって、飲み終わったらいなくなっちゃうじゃないですか。」
「離れがたいって思われるのは男冥利に尽きるね。俺もルークと離れるのは寂しいよ」
無理な飲み方をした理由もここだろう。
注がれたばかりのグラスをできるだけルークから離れたところに置いて、ルークの頭をぽんぽんと撫でてやる。
もっと撫でてと言うように身を屈めて寄り添ってくる様子は大型犬のようでもある。
沈黙が続く部屋でも、ルークの体温が温かい。長らく旅をしてきたが、こんなにも別れを惜しんでくれた人が他にいただろうか。今まで深い人付き合いを避けてきた故だとも分かってはいるが。
「ここで4人で暮らし始めて、それが当たり前みたいになって。みんな…僕だってやることあるんだから当然なのは分かってるんですけど」
「うん。」
「モクマさんもチェズレイもいなくなって、アーロンも。そしたらまた、ひとりになるから」
「電話だってメールだってたくさんするよ。俺だってルークと話したいもの」
「ありがとうございます。」
「ああ。それに、今日なら朝までだって一緒にいたげる。」
「やっぱりモクマさんはかっこいいところはさっきなぁ」
いつの間にやらぎゅう、と苦しいくらい抱きしめられて、こっちからも背中をあやすようにぽんぽん叩いて。
暫くしたところで廊下へと続くドアが開く音がした。
「ただいま戻りました。……おや、随分とお熱いことで。…少々妬けますねェ…」
「…ん、チェズレイ…?おかえりぃ」
「お帰り、チェズレイ。結構かかったね」
明日以降の調整のために出掛けていたチェズレイが帰ってきたようだ。アーロンが出て行く前に車が止まった気配がしたのはチェズレイのリムジンだったようだ。
「モクマさァん、ボスをこんなにしてどうするおつもりですか?」
テーブルを確認してチェズレイが眉をひそめた。
怒りの比重は泥酔と抱きつきのどっちが大きいのだろうかまでは判別がつかない。
「あはは、俺らと離れるのが寂しいって、お酒進みすぎちゃったみたいでさ。責任とって熱い夜を一緒に過ごそうかなってさ」
チェズレイがルークの横ぴったりの位置に座る。これは牽制されているのだろうか。背中に汗をかいた気がして、ルークを撫でる手を止めた。
「私も混ぜていただけますよね? ね、ボス。」
「チェズレイもいてくれるのか? 嬉しい。」
チェズレイの方へと向き直ったルークの身体が離れた。
「なあ、チェズレイ。モクマさんはどうしてモテないんだ?」
「え、ルーク、お前さんそのネタまだ引っ張るの?」
唐突な発言も酔っ払い故と考えれば納得したのだろう。さらりと回答が帰ってきた。
「モクマさんは下衆ですから。誰でも良いと言う男が一人の女性に選ばれるはずがないでしょう。」
「うう、正論が胸に痛い!」
「だって、こんなにかっこいい素敵なひとなのに。」
チェズレイの視線が頭から爪先まで辿られるのがわかった。
「ボス、眼鏡を用意いたしましょうか?」
「アーロンほどじゃなくても射撃に支障がないくらいには目はいいよ?」
「チェズレイ、お前さんなぁ…」
「………百歩譲って、誰もがボスのように内面を見てくれれば、モクマさんがいいと言う奇特な方もいないことはないかもしれませんね。マイカでは蓼食う虫も好き好き、と言うのでしょう?」
「ああ、俺の将来全部奪ってった蓼好きの蝶々さんなら心当たりあるかも。」
「パートナーと部下では求める素養は違いますからねェ」
俺とチェズレイがなにか言う度にルークが左右にいる発言主に顔を向けて忙しい。
「二人はこれからも一緒でいいなぁ」
微かな声は聞こえなかったふりをした。相棒も小さく息を落としただけだった。
しっかりと身を起こしたルークがテーブルをキョロキョロと見渡す。先程のリキュール原液入りのグラスを視界に入れ、手を伸ばそうとしたところでチェズレイが声をかけた。
「ボス、次はこちらはいかがでしょうか?」
透明感のある青色の液体とベリー系の果実が入ったグラスを手渡す。そういえばテーブルに果物も置いてあったね。
「わぁ、綺麗な色だな」
「ボスのためのカクテルです。仕上げをしますね」
レモンを絞り、軽くステア。カランと氷の音が響くと青紫の液体は淡い紫とピンクの中間色へと変わった。
「色が変わった!すごいな。魔法みたいだ」
「さァ、どうぞお召し上がりください」
さっきまでは卓上のなかった小さなボトルはバタフライピーのシロップとある。
シロップということはノンアルコールか。しゅわしゅわと弾ける炭酸が実に爽やかだ。
「お味はいかがですか?」
「これは…うまい。ちょっとすっぱいけど、それが甘さを引き立ててる。炭酸で目が覚めるみたいだ。綺麗で、色が変わって、なんだかチェズレイみたいだ」
「…フフ、ボスに飲み干されるなら本望ですね」
「『チェズレイ』が甘くて綺麗だって。そういえばさ、さっき俺に言ってくれたみたいなやつ、チェズレイにはないの?俺はニンジャジャンで、から始まったアレ。」
色々とチェズレイの地雷を踏み抜いている気もするし、少しは塩ならぬ砂糖でも贈って、ついでに心臓に悪い話からも話題を逸らしておこう。
「チェズレイに、ですか? …えっと…チェズレイはすごいんですよ。いつも僕を助けてくれて、たまに意地悪だけど優しくて」
「チェズレイの好きなトコはどの辺?」
「どの…、って言うと難しいですけど。」
露骨な点数稼ぎでも止めることなく、返事を待つチェズレイが髪をかきあげた。ううん、自分が美丈夫と分かっている男は何やっても様になるから羨ましいね。
「たとえば、チェズレイの髪はさらっさらで、いつも触ってみたいなって思ってて」
「おや、私に触れたいと。ボスなら構いませんよ」
「え、いいのか? 君、触られるの嫌って言っていただろ」
「昔のことです。」
会話をしながらウェットティッシュでルークの手を拭いているのは潔癖症が改善されているのかいないのか。ルークはルークでされるがままだ。
しばらくして、チェズレイが少し背を向けて、ルークが手を伸ばした。
「わあ…思ってたよりもっとさらさらだ。なんかいいにおいがする」
壊れ物を触るように優しい手つきで髪に触れると、指にひっかかることなく髪が滑り落ちる。
しばらくそれを繰り返すと頭をゆっくりと撫でる。
「気に入ってくれたのなら同じシャンプーを用意しますよ」
「それは、すごく高そうだな…」
「私がボスに贈りたいだけですから、お気になさらず。」
さっそく囲い込みが始まっとる。が、つっこむのは止めておこう。卓上の料理に手を伸ばしながら二人の様子を横目で見る。
ルークが完全にチェズレイの方へと体を向けると、チェズレイの両頬を両手で包み込むようにして自分と視線を合わせさせた。
そういえばルークからチェズレイに触れるところは見たことがなかった。アーロンにも俺にも結構スキンシップは激しい方だが、触れて良い範囲以上には押し付けない優しさか。
「それから、チェズレイの目、きらきらで、とても綺麗だなって。わあ、やっぱり睫毛長いなぁ。マッチ棒とか乗りそう。」
ルークが化粧のない側の右目をじっと覗き込む。額同士がくっつきそうだ。
「ありがとうございます。ありふれた言葉でも、ボスが本気で言っていると分かると嬉しいものですね。」
「…なんか、この前のブドウみたいだな。」
定型文なら宝石に例えるところか、と思ったところでこれだ。
「あー、この前のブドウ、つーとナデシコちゃんが持ってきた高い奴だね。ルークが一粒ずつじっくり食レポしてたらアーロンに残り取られて大喧嘩してたっけ」
「それはそれは。ボスの基準では大抵の宝石より価値がありそうですね。」
「ボスの目は澄んだ緑色ですから、ここはマスカットに例えるべきでしょうか。…味見したくなってしまいますね」
「……舐めたりするのは相当に人を選ぶから止めときなさいね」
「モクマさんは私のことをなんだと思ってるんですか?」
「ルークのことなら目に入れても痛くないほどかわいいと思ってそうだなぁって。あ、それだと舐めるの逆だね。」
ルークが首を傾げるだけ。聞いてないのか、よくわからなかったのか。そのまま真っ直ぐでいてほしい。
「…あれ、こっちの、ちょっと違う…?」
チェズレイの真正面に移動し、屈んだルークが特徴的なメイクを施した目を見つめた。
両手で頬を包むようにして、まるでキスでもするような姿勢になっているが、酔っ払い過ぎて気付いていないのだろう。
飲んだ日の翌日でもルークは記憶を失った日はなかったような気がするが、ここで止めるのは野暮だろう。代わりに邪魔になりそうなテーブルを少し後ろにずらして蹴飛ばさないようにしておいた。
「ボス、あまり触れるとメイクが崩れてしまいますから」
「あ、ごめん。いつも楽しんでいる時、チェズレイは顔逸らすから、つい。」
「ボスはよく見ていますねェ。今は顔を逸らせませんから、見られたくないと思ったらどうすればいいのやら。」
手袋をした人差し指でルークの唇に触れる。くすぐったさに身じろぐ様子を楽しんでいるようだ。
「少し唇が荒れていますね。ちゃんとケアしないといけませんよ。」
「このくらい普通じゃないか?」
「仕事に戻ったらもっと無理をするでしょう? 睡眠不足は肌にもよくありません。」
「それは…これから色々忙しくなりそうだからなぁ。」
「体調を崩してもすぐに訪ねることはできない距離です。私の心労を減らすためとでも思ってください」
「…ん、気をつけるよ。チェズレイも、モクマさんも身体には気をつけて。」
言葉がゆっくりになってきた。チェズレイの方から見ればまばたきの回数が増えたのもよく分かったんだろう。
「…眠くなってきましたか?」
「ん……、いや。まだ寝たくないな。もっと話したい」
言葉とは裏腹に、背中が丸くなって寝る体制に入っている。
「あ。チェズレイの好きなとこ、色々あるけど。これが、いちばんすきかも」
胸に寄りかかって、左胸に耳をあてる。
「この、音。だいすき。ずっと、聞いてたいくらい」
心臓、つまりは命そのものが好きと言うのか、この人たらしは。
ルークはチェズレイに抱き付いたまま寝息を立てている。チェズレイが俯いていて表情が読み取れないが、雰囲気が柔らかく暖かいことだけは分かる。
静かにまた飲み始めると、背中をトントンと寝かしつけるように撫でていたチェズレイが口を開いた。
「モクマさん、全部終わったら、エリントンに拠点を置くのはいかがでしょうか」
「まだ始まってもないけどね?」