月の子傾き始めた陽に、水面は光っていた。
今日も穏やかな日だったが、物騒な衝撃音が周囲の山に反響している。
昼過ぎに悟飯が突然ピッコロのもとにやってきて、組み手をしてほしいと頼んできた。
一年前に地球の危機を救ってから、悟飯は時間を見つけてはピッコロに修行をつけてもらっていた。
ピッコロとしても、それが良い訓練の機会になっていた。
パンの修行には毎日付き合っていて、目覚ましい成長を見せてはいるが、効果的な修行の相手になるのはもう少し先だろう。
悟飯が修行に来るのは大抵、研究が煮詰まった時なのをピッコロは知っていた。
それでも鍛錬をしてくれるのは望ましいことだし、すっきりした頭で再び仕事に打ち込めるなら良いことだと考えていた。
しかし今日は、いつもと少し違う。
「今日は妙に動きが硬いな。攻撃もワンパターンだ」
「……すみません。」
ピッコロは近くの岩に腰を下ろした。
悟飯は額の汗を手の甲で拭い、大きく一つ息をついた。
少なくともピッコロの前では、悟飯は子どものように表情をくるくる変える男だ。
もしくはずっと穏やかにニコニコしている。
それなのに今日の悟飯の表情はずっとかたい。
「研究で何かあったのか?」
「えっ、ああ」
悟飯は苦笑していたから、話すつもりはなかったのだろう。
「ピッコロさんにはお見通しなんですね。」
「お前がわかりやすすぎるんだ」
「……じゃあ、ちょっと聞いてくれます?」
ピッコロは何も言わなかったが、それが諾の意であることは二人ともわかっていた。
一年ほど前に悟飯が発見した新種の蟻。
その後の発表ではそれなりの評価も得たものの、近接種との関係性の問題が問われた。
悟飯はこの数か月、過去の研究や記録をくまなく調べることに時間を費やしていた。
ある一定の条件下で発光する蟻は古い記録には残されていたものの、その真偽がはっきりしないまま研究史の隙間で忘れ去られていたのだ。
そこで悟飯は懇意にしている研究室に依頼して、「光る蟻」のDNAを調べる
ことにした。
その結果が出たのが先ほどのこと。
結論としては、「光る蟻」は新種ではなかった。既知の種の特性を新たに明らかにしたことは彼の功績として認められるだろうが、申請していた新しい学名を取り下げることになることが、悟飯にとっては残念で仕方なかった。
それほど、彼にとっては思い入れの深い発見だったのだ。
「ふむ……」
悟飯がひととおりその話をすると、ピッコロはなにかを少し考えてこう言った。
「俺はおそらく、その蟻を知っている。」
「えっ、本当ですか?」
「もっとも俺というか神の知識だが……、もしかしてその蟻、満月の夜に変化したりしないか?」
満月。
悟飯は月という衛星がかつて地球の周りをまわっていたことを知っている。確か幼い頃は、そんな天体が空に浮かんでいたことも覚えている。
いつの間にかなぜかそれは消えてなくなってしまったが。
「月があった頃の記録にそんなものはなかったはずです。」
「そうか。」
「ピッコロさん、あの蟻について何を知ってるんです?」
「見たいか?」
不敵に笑むピッコロの頬に夕日が照らして、悟飯はなんとなく、師匠の覚醒した姿を思い出していた。
「はい。」
「わかった。待ってろ。」
ピッコロは立ち上がって飛び上がり、家の方に向かった。
悟飯も遅れてそれを追った。
ピッコロが次にしたことは、ブルマに電話をすることだった。ドラゴンボールを集めていたら一つ願いを譲ってほしいという、一年前と同じ依頼だった。
アンチエイジングの願いは一年前に雇った天才科学者が叶えてくれるようになったためか、一年前より快く承諾してくれた。
「ドラゴンボールで何をするつもりなんですか?」
「月を復活させる。」
「えっ」
予想どおり悟飯は驚いた顔をしたが、その後の表情はピッコロの想像とは少し違っていた。
「……大丈夫かな」
「何か問題がありそうか?」
「月があったときはその重力の影響で海が盛り上がったりへこんだりしていたんでしょう? 生き物たちに影響がないわけないですからね。僕が生まれる前にも月が消えたりまた復活したって記録があるけど、そのたびにいくつかの種が絶滅してるって話もあるんです。今回僕が見つけた光る蟻も、月の消滅とともに絶滅したと言われていたんです。実際、数はすごく減ってるんですよ」
「なるほどな」
ピッコロは、いま月が存在していない理由は、少なくとも自分の口からは言うまいと改めて思った。
『ブルーツ波の発生装置? そんなのすぐにできるけど』
ピッコロはふたたびブルマに電話した。
「今から向かってもいいか?」
『ずいぶんせっかちなのね。少し待ってもらうと思うけど、いいわ。』
電話を切るとピッコロは、悟飯に「行くぞ」とだけ言った。
「ちょっと待ってください。どうしてブルーツ波?」
「月が多く発していた周波数の光だ。」
「それは知ってますけど……」
「月を復活させてせっかく今の環境に慣れつつある生物たちに悪影響を与えたくはないんだろう。それでうまくいくかはわからんが」
ピッコロはやさしい。入口のほうを向いていてその表情はわからないが、昔からそうだった。
悟飯はその背中に向かって小さな声で「ありがとうございます」とつぶやいた。
極端に耳のいいピッコロに聞こえないはずはないのだが、それには何も答えなかった。
夜も更けたころ、悟飯はピッコロとともに南の島にいた。
昼の様子が嘘のように、悟飯はニコニコとしていた。
「ピッコロさんと調査地に来られる日が来るとは思わなかったな」などと、上機嫌な声音で言うほどだった。
「例の蟻はどこにいるんだ?」
「昼行性なので今の時間は巣の中ですよ。光に気づいて出てきてくれるといいんですが。ダメならまた昼間来ます。」
ブルマが作ったブルーツ波の発生装置は、ドローンで飛ばせるようになっていた。
その操作は悟飯がすることになっていた。
「装置を木に引っ掛けると厄介なので、一度飛んで上空で放します。ピッコロさんはそこにいてください。」
「わかった」
悟飯は装置を抱え、木の枝をすり抜けながら上空に飛んでいった。
しばらくして、木の葉の隙間から光が漏れてくる。
滲むように広がる光から、悟飯のシルエットが戻ってくる。
白銀の光がその輪郭に反射して、久しく見ていないあの姿を連想させた。あの姿にはきっと満月の夜がふさわしかろうと、ピッコロは脈絡なく思った。
「ピッコロさん、蟻、出ましたか。」
「ああ、いや。」
慌てて視線を下にやるが、それらしきものは見えない。
「やっぱりダメか。少し様子を見てもいいですか?」
悟飯はドローンのリモコンを片手にピッコロの隣に降り立った。
そして適当な木の根を見つけて腰掛ける。一本隣の根を手で指すので、ピッコロもそこに腰を下ろした。
「月の夜っていいですね。こんな明るいものだったっけ。」
悟飯のその笑顔は、さっき思い出したあの獣の姿とは似ても似つかないと、ピッコロは思った。