仔猫のフーガ カーテンの隙間からこぼれるやわらかく温かな光が、重くふさがった瞼の上を微かによぎる。
ああ、もうそんな時間か。ちいさく息を吐き、ぴったりとくっついた瞼をはがすようにしながら、ぼんやりと滲んだ視界の上を滑り落ちていく光の粒をぼうっと眺める。
見慣れた部屋の見慣れた天井――傍らには、すっかり肌に馴染んだ大切な相手のぬくもり。ひどくありふれた幸福のありかに、それでも、心からの感嘆のため息を洩らしたい気持ちになりながら、ゆっくりと身じろぎをして、ベッドの片側を埋めてくれる相手の姿を確かめる。
(よかった、ちゃんといてくれる。)
どうやらきょうは先に目を覚ますことに成功したらしい。昨日から幾分か疲れているようすだったし、無理もないのだろうけれど。
寝起きの状態がお世辞にも〝良い〟とは言えないのは常茶飯事で、そのようすをからわれたりなだめられたりするのだって存外悪い気分ではないのだけれど――こうしてたまの〝反撃〟の機会を得られると、なんだかそれだけでひどく得意げな気分になってしまう。
ほうぼうに跳ねたくしゃくしゃの髪、うっすらと血管が透けて見えるようなほんのりと色づいた瞼、切れ長の瞳を縁取る長い睫毛、すぅすぅと息を吐くやわらかな唇―きっとごく限られた相手にしか見せるはずもない無防備な姿がこんなにも当たり前のように差し出されていることの喜びは、なんどこうして朝を迎えたっていまだに色褪せることなんてないままだ。
(……おはよう、きすみ)
かさかさに張り付いた喉の奥でだけそうこぼしながら、そっと手を差し伸ばして、しばしばそうするようにやわらかな髪をかきまぜ、すこし火照ったようすの耳のふちをそっとなぞりあげ、形の綺麗な頭に触れる。少し長めでやわらかな癖っ毛の髪は指をすり抜ける度にふかふかと心地よくて、こうして手を伸ばす度に、離れがたい気持ちがぐんぐんと深まる。
(猫みたいだよな、ほんとうに)
美しい毛並みに触れながら、もう何度目なのかわからなくなった夢想が頭の片隅をよぎるのを感じる。
すらりと長くてしなやかな手足、すっかりと心を許したようすでこちらへと摺り寄せられる身体から伝うおだやなぬくもり、まばゆい煌めきに満ちあふれた切れ長の宝石みたいな瞳、指先を優しくすり抜けていくふかふかの上質な毛並み――そう、まさしくこんなふうに頭頂部にふわふわの三角形の耳があれば申し分なしで――指先に触れたやわらかな感触をうっとりと確かめるように触れていれば、途端に、半覚醒のまどろみのふちから揺り起こされるような心地を味わう。三角形の……猫の耳?
ひどく驚きながらまじまじと目をこらせば、やわらかな髪の隙間にたしかに〝それ〟は存在する。髪の色と同じ色で、こぶりだけれどぴょこんとその存在感をアピールするふわふわの小さな猫の耳だ。
いやそんな、どうして。何かのいたずらのつもりだろうか、それにしたっていやによく出来ているように見えるのだけれど。
ほんのりとあたたかな体温を感じさせる〝それ〟の周囲の髪の毛をかき分けるようにしても、ピンらしきものは見あたらない。まだ寝ぼけているのだろうか、それともこれは夢? 戸惑いを隠せないまま、重い瞬きを数度こぼせば、散々の〝いたずら〟に気づいた恋人がふるふると腕の中で震える。
「……ひよ? おきたの」
くぐもってかさついた声で呼びかけられると、それだけで胸の奥がやわらかに甘く締め付けられるような心地を味わう。
「おはよう。ごめんね、おこしてない? よく寝れた?」
くしゃくしゃにたわんだシーツの波の上で足を絡めながらぎゅうぎゅう抱き寄せられる――すっかりおなじみの一連のやりとりにまるで、乾いたスポンジがぐんぐんと水を吸い込むような心地を味わう。
ほかの誰とも味わえない、誰ひとり満たしてなんてくれない―じっと注がれるまなざしの澄んだやわらかな光に、息苦しいほどのあまやかな愛おしさが募る。
「わかる? 僕のこと」
瞼を細めてにいっと優しく笑いかけながら、ふに、とあたたかな指先で頬に優しく触れられる。いつもと同じだ、夢なんかじゃあるはずもない。いつしか僅かに震えていた指を差しのばしながら、おそるおそると僕は答える。
「きすみ、その――耳」
「みみ?」
ぱちぱち、と重い瞼をしばたかせながら投げかけられる問いかけを前に、慎重なようすで話を切り出す。
「あるでしょ、耳が――大丈夫なの、それで?」
答えながら、頭のてっぺんでふるふると微かに揺れる三角の耳に触れる。
「えっと……?」
不可思議そうな返答を前に、心の内が静かにざわめく。どうやら自分ではわからないらしい、そりゃあそうか。それならひとまずは見て確かめてもらうのが一番、とは言え、すぐ側に鏡はないのでこういう時には――、
「ごめん、ちょっと」
ヘッドボードへとたぐり寄せるように手を伸ばし、眼鏡とスマートフォンを手にする。洗面所に連れて行くのが一番かとは思うのだけれど、ひとまずは。
「あのね、貴澄。ちょっと落ちついて聞いてほしくって―その、君の、ことで。すごく大切なことなんだけど。まずはその、これを」
「うん……?」
寝間着のまま半身を起こした姿が見えるようにと、インカメラにしたスマートフォンの画面を目の前へと掲げて見せる。なんだかどっきりでも仕掛けているようで、決していい気分ではないのだけれど―仕方あるまい、こればっかりは非常事態なのだから。
「えぇ―!?」
途端に響きわたるのは、穏やかな朝には決してふさわしくはないはずの、悲鳴にも似た叫び声だった。
「……ごめんね、やっぱりどこにも出てこないや。何でなんだろうね」
「いいよそんなの、日和が悪いわけじゃないでしょう?」
どうにもふがいない気持ちになりながら答えるこちらへと、ソファに腰をおろしてくつろぐ本人からはあっけらかんと明るい返答が返される。
ちょっとした受け答えや感情の動きに合わせるように三角形の耳がひょこひょこと動くのを見る限り、どうやらただの飾りというわけではないらしい。
「何でなんだろうね、別に何か変なものでも食べたとかそういう覚えだってないのにな。予防注射とかそういうのだってしてないしね」
この一週間ほどの間に通常とは異なる行動は特にはなければ、いまのところは耳以外の異変も見あたらないらしい。
「痛くはないの? むずむずするとかは?」
「そういうのもないんだよね、なんか馴染んでるっていうか」
見た目にも確かに、違和感なんてものは大凡ないのだけれど――あらがいようのない誘惑に駆られるのを感じながら、形をなぞるようにとそっと指先で真新しい〝耳〟に触れる。
薄くてやわらかな手触りも、うっすらと血管の透けて見えるところも、猫の耳とどう見てもそっくりおなじだ。とは言え、人間の耳のほうだって変わらずあるのだから、いったい全体どういう理屈なのだろうか。スマートフォンのレンズや鏡には写るのに、ひとたび写真や動画に写そうとすればたちまちに姿を消してしまうあたりもどうにも不可解だ。
「病院ってどこに行けばいいんだろうね。耳のことってなると耳鼻咽喉科? それとも皮膚科だったりするのかな」
もしかすれば、精神的な物に起因する可能性もあるけれど。
「どうしようか……誰かほかの人にも見てもらう? 椎名くんあたりならどう? 彼なら信頼出来るでしょ」
誰か第三者がいてくれたほうが安心出来るだなんてこともあるかもしれない。もしかすれば、自分たちふたりにだけ見えている幻覚なのかもしれないだなんて可能性も探れるし――やわやわと指全体で包み込み、揉みしだくような手つきで綺麗な毛並みの耳に触れながら尋ねれば、ひどくあやふやにぐずついた戸惑いの色を帯びた声色での返答が返される。
「いいよ、日和だけでいい」
答えながら、僅かに震えた指先がいかにも心許なげに寝間着の裾をぎゅっと握りしめる。
「そんなこと言うけど、夕方には帰らないとダメでしょ? 何なら僕が家まで送っていこうか? ひとりで説明するのも不安でしょ?」
なんとは無しに〝察して〟くれているだろうと有耶無耶にしていた自分たちの関係についても、いっそこの機会に話したほうがいいのかもしれない。僕がついていながらおかしなことに巻き込んでしまってごめんなさいとか、なんとか言って。
「悪いよそんなの、日和のせいじゃないのに」
いつになく気弱な口ぶりで答えられると、庇護欲としか呼べないものがむくむくとわき上がるのを抑えきれなくなってしまう。手放しに褒められた感情とは言えないのだろうけれど、こればっかりは仕方あるまい。きょうばかりは非常事態なわけだし。
「そういってくれるのはありがたいんだけど……」
ぴくぴく、と小刻みに震える耳にそっと指先で触れながら、本当に〝心当たり〟がなかったのかを今一度思い返してみる。
たしか昨日は――お互いにすれ違い続きで、顔を合わせることすら半月以上ぶりで。いつもみたいに駅前で待ち合わせをした時から、あからさまに疲れたようすでいたのが気がかりだった。
スーパーで買い物につき合ってもらった後はアパートまで近況報告をしながら帰って、一緒に準備をした夕食の後はしきりに片づけると言ってくれるのをどうにかなだめて止めてみせて、お風呂の後は髪を乾かした後で念入りにマッサージをしてあげて、一緒に映画を見ている途中でうとうとと船をこぎ出したのに気づいたからベッドで眠るようにと促せばひどく無念そうな顔をされて、なんだか無性に胸が痛んで。
「疲れてるんでしょう? 無理しないでいいよ」
「やだ、もったいない」
猫みたいに身をこすりつけて甘えてきながら告げられる舌っ足らずの言葉に、ぎゅっと胸の端を掴まれるような愛おしさを感じずにいられなかった。
「減っちゃうでしょ、ひよといる時間」
「減らないよ」
子どもをなだめるような心地で、ふわふわとやわらかな洗い晒しの髪をなぞる。不思議だ、甘えられているのはこちらのほうなのに、どうしてこんなにも赦されているみたいな気持ちになるんだろう。
「僕だってしっかり休んで元気になった貴澄に会いたいからさ。きょうはこのまま一緒に寝よう? それでまた明日いっしょにたくさん過ごそうよ? それでいいでしょう?」
「……うん」
ぐずぐずにもつれた言葉を洩らすあたたかな吐息が、そっと肩口に落とされれば、まるで心ごと温かに湿らされるかのような心地を味わう。
うん、やっぱり心当たりらしきことはこれといって見あたらない。普段よりも幾分か甘えたがりに見えたくらいで。やっぱり精神的な何かが原因なんだろうか。何かうまく言葉にできない不満やストレスがじんましんみたいに形になって現れたとか?
ひどく不安げに震えるまなざしをじいっとのぞき込むようにしながら、ぽつりと心ばかりの穏やかな口ぶりで僕は答える。
「いいから、着替えて朝ご飯にしよう? おなかすいたでしょう? せっかく早起きしたんだし、きょうは貴澄のやりたいことたくさんしよう?」
なにかある? したいこと。にっこりと笑いかけながら尋ねれば、おずおずと気弱な口ぶりでの言葉が洩らされる。
「洗濯もの干すの、一緒にする」
それはまぁ――なんというか、いつもつき合ってもらっていることなのだけれど。とはいえ、それが素直な〝願い〟だというのならそれはそれで。
「うん、いいよ。それで?」
促すように問い尋ねるこちらを前に、かわいらしい〝おねだり〟は続く。
「公園も行きたい、いつものとこ。それと、昨日の映画の続きもね。あと、ゲームもしたいな。こないだ教えてもらったの」
「いいよ、全部しよう?」
外に出かけるには――帽子でもかぶってさえいれば問題はないだろう。
「じゃあさ、ひとまずは着替えて支度しようか? シャワー使うんならタオル出してくるけど、どうする?」
「いいよ、ありがとう」
いつもよりも心なしか気弱な口振りの返答を前に、ぽんぽんと形のよい頭を撫でることで応えてみせる。
解決策はさっぱりわからないけれど――ひとまずはこのかわいい猫の思うままに過ごそう。そうしていれば、なにかしら糸口だって見えてくるのかもしれないのだから。