恋は焦らず「あのね、鴫野くん。前からちょっと聞きたいことがあったんだけど――、」
「ん、なになに?」
休日の昼下がりにしては人もまばらなカフェの中、きらきらと輝くような双眸をこちらへと向けながら、わずかに身を乗り出すようにして鴫野くんは答える。
人の瞳をじいっと見つめるのは、普段からの癖なのだろう。あまりにまっすぐで温かな光を宿したそれに捉えられるたびに、いつしかぎこちなく心が軋むような不可思議な感覚を味わうようになっていた。この気持ちの正体がなになのかなんてことは、いまだによくわからないのだけれど。
「……別にそんなに、大したことじゃあないんだけどね」
ふう、と力なく息を吐き、気持ちばかり声を潜めるようにしながら日和は尋ねる。
「その……橘くんと七瀬くんは、付き合ってるってことでいいんだよね?」
いまさら確かめるのも無粋なのだろうと思ってはいたのだけれど。それなりの勇気を振り絞っての問いかけを前に、まばゆく光り輝く二対の瞳はぱちぱち、とゆっくりのまばたきをこぼす。
「えっ、それ?」
拍子抜けをした、とでも言わんばかりの返答を前に、途端に気まずい感情が立ちのぼる。ああどうしよう、こんな時は。以前までなら何事もなかったように笑って受け流すだなんてことが出来たと思うのだけれど、いまはそうはいかないし。言葉を詰まらせるこちらに気づいたのか、向かい側からは気遣うようなおだやかなまなざしが注がれる。
「ごめんごめん、いまさらそんなこと聞くほうが変だったよね。ほら、僕だけ君たちの中で新参なもんだから知らないだけなのかなって思って。別におかしいだとか、そんな風に言いたいわけじゃなくって――」
「……遠野くん、違うよ」
くすり、といつもそうするように穏やかに笑いかけながら、鴫野くんは答える。
「こっちもごめんね、遠野くんすごく真剣な様子だったからさ、いったいなんなのかなって思って。そしたら思ってもなかったことだったもんでさ」
まぁいいけどさ。慌ててる遠野くん、かわいかったし。付け足すようにぼそりとこぼれ落ちた軽口に、思わずさぁっと顔が赤くなる。鴫野くんはいつだってこんなふうに、決して嫌みにならない絶妙な案配で気持ちをほぐしてくれるのがとてもうまい。
「それで、ハルと真琴のことだよね? まぁさ、遠野くんがそう思うのも無理はないと思うんだけどね」
ふぅ、と浅く息を吐き、こぼれるようなやわらかさで鴫野くんは答える。
「僕も一応聞いたんだよ、ふたりって結局のところどこまで進んでるのって。ハルにはさすがに聞けないけど、真琴なら教えてくれるだろうなって思ってさ。したら真琴、なんて答えたと思う?」
「……さぁ」
首を傾げるこちらを前に、パチリ、とウインクをこぼしたのちに続くのはこんな言葉だ。
「俺とハルが? どこもなにもなくない? って」
「あぁ……」
ごく浅いつきあいながらも、『わかる』としか言いようがない――口ぶりや表情まで思い浮かべてしまいながら、おもわず笑い出しそうになるのをぐっと堪える。さすがに失礼だ、勝手な憶測を働いてしまったのはこちらのほうなのだから。
「無理もないよね、あの様子でそうじゃないなんて思えないでしょ。まぁでもなんていうか――特別なんだよね、あのふたりは」
記憶の底で結ばれた糸を、静かにたぐり寄せるように――どこかまぶしげに瞼を細めながら、しなやかな指先がレース模様の施されたティーカップにそっと絡められるのをぼうっと眺める。
「幼なじみなんだっけ、地元の」
郁弥が中学時代の半ばまでを過ごした地元の仲間たちの中でも、一番ふるい付き合い同士だとは聞いていたけれど。
「そう、家がすぐそばでね。物心がついた時からずうっとふたりいっしょ。ハルは赤ちゃんのころからずっと水が好きで、はじめてプールに入った時から誰にも教わらないままいきなり泳いでたんだって。驚きだよね? で、その時からずっとそばにいたのが真琴ってわけ」
「へえ……」
家族でもない他人同士でそこまで途切れずに付き合いが続いているだなんて、にわかに信じられない話ではあるのだけれど。感心したようすのこちらを前に、にっこりとおだやかなほほえみを絶やさないままに、やわらかな言葉は続く。
「ハルにとってはさ、泳ぐことや水に触れていることはあたりまえのことなんだよね。切っても切り離せないことで、世界の中心みたいな。で、そこには真琴の存在が必要不可欠なんだよ。理屈なんてなくって、ただあたりまえ。水と真琴以外は自分の世界の外側で、いっそ必要ないって言ってもいいくらいだったんだと思う。さすがに大学にも進んで、将来のことだって見ずにはいられなくなってきたんだから、すこしは視野も広がってきたみたいだけどね」
「……すごいね」
「ほんとだよね、中々そうはなれないよ。その分しんどいことだっていくらだってあるんだろうけどさ」
慈しむような笑顔のその奥には、いっそまばゆいほどのぬくもりが満ちている。
どうしてこんなにもまっすぐでいられるんだろう。こんな風に、自分にはまるでないものを見せつけられるその度に、どこか不思議な息苦しさをおぼえてしまうのはなぜだろう。
「……違うよ」
かすかに頭を振り、軋むような痛みにそっと心の中でだけ手をかざしながら、日和は答える。
「七瀬くんもそうだけど、鴫野くんもだよ。そんな風に友達のことをちゃんとわかってあげられるだなんて、そう簡単なことじゃないでしょう」
「そうなのかな。僕にはそう見えてるってだけの話だよ? でもありがとう。遠野くんって優しいよね、ほんとうに」
「そんなこと……」
「だからほら、そういうとこだよ」
かわいいよね、ほんと。茶化すように笑いながら、やわらかに瞼を細めたやさしい笑顔にそっと包み込まれるのにただ身を任せる。
「まぁさ、話は戻るんだけどね」
すこしぬるくなったはずのハーブティーに一口だけそっと口をつけたのち、軽やかに言葉は紡がれる。
「なんていうのかな……ハルと真琴の場合は、いまさらなにかしらを改めて確認しあう必要もないんだと思うよ。ふたりが一緒にいるのはこれから先もずっと当たり前のことで、なくてはならないものっていうか。ある意味さ、ちょっとうらやましいよね?」
くすり、と笑いながら、銀のスプーンを手にした指先は綺麗なマーブル模様を描くキャラメル味のチーズケーキのピースをそっと崩す。
「ん、おいしー。やっぱ正解だったな、これにして。ね、遠野くんも食べるよね?」
「いや、僕は」
「いーでしょ、遠慮しないで。ね、そっちもとぉっても美味しそうだよねえ?」
きらきらとまばゆく輝くような瞳は、金色に光りかがやくアプリコットのタルトをじっと眺める。
「じゃあまぁ、どうぞ……」
気圧されるような心地ですっとこちらのお皿を差し出して交換をしあうと、反対側の山をそっと崩すようにしてフォークを突き立て、どこか遠慮がちに取った一口をうれしそうに頬張る。
「ん、おいしい~! 遠野くんありがとう~! こういう時さ、ふたり連れって得だよね」
「……そうだね」
うれしそうに食べる鴫野くんのようすを間近で見られるのは、こちらも悪い気分ではないのでおあいこだ。
「ごめんごめん、話の途中だったよね。まぁなんていうかさ、いまさら確かめ合う必要もないような関係ってあるんだなってことだよね。遠野くんだって郁弥とはそんなふうでしょ? 一番大事で、一番傍にいて見守ってあげたい、みたいな」
「別に、僕と郁弥はそんな……」
『お目付役』を喜んで引き受けたのは確かだけれど、それを笠にして郁弥を理不尽に縛り付けようとしていた過ちは、いまさら拭い去りようもない事実なのだし。気まずさに思わず口ごもるこちらを前に、打ち消すように明るく笑いながら鴫野くんは答える。
「遠野くんらしいよね、そういうこと。ほんっとかわいいなぁ」
「……だから、そんな」
「ごめんごめん、でもほんとなんだもん。信じてもらえないかもだけど、からかってるわけじゃないよ? 遠野くんってほんとに郁弥のことが好きなんだなって、ちょっと嫉妬しただけだし」
ほんのすこしだけ寂しげに瞳を伏せながら、やわらかに言葉は続く。
「でもちょっとだけほっとしたんだよね、さっき。旭がいない時にわざわざ聞くことなんてなんだろうって思ったからさ。遠野くん、すごく真剣な感じだったし。まさか旭のことが好きなんだけどって言われたらどうしようって、ちょっとだけ覚悟もしたし」
「椎名くんのことを、僕が……?」
戸惑いを隠せないまま尋ねれば、ぱちぱちと、蝶の羽ばたきのようなかろやかまばたきをこぼしながらの返答が返される。
「だって旭ってすごくいい男でしょ。優しくてかっこよくて頼れるし、遠野くんのことだってすごく好きみたいだし。僕だってじゃまする気はないけどさ、ちょっと複雑っていうか」
「椎名くんはまぁ――すごくいい人だし、頼れるし、いろんな意味で素直すぎるところはあると思うけど、それだって立派な長所だし……」
何よりも、誰よりも一番に反感を持っていたであろう(それだけのことをしてしまったのだから、致し方あるまい)こちらのことを難なく受け入れて、仲間たちの輪の中へと積極的に引き入れてくれたようなところには随分驚かされたし。
「――感謝はしてるよ、すごく。尊敬してる、だなんて言ってもいいのかもしれない。でも……そういう気持ちはないから、彼には」
「あぁ、そうなんだ」
にこにこと笑いかけてくれるまなざしの奥には、みるみるうちにおだやかな安堵の色が静かに広がる。ほら――そうなんじゃないか、やっぱり。
どこかいびつな棘がちくりと胸を刺すのを感じながら、おそるおそると日和は尋ねる。
「――こんなこと言うの、失礼かもしれないけれど……椎名くんのことが好きなのは君のほうでしょ?」
口に出した途端に、ざわざわと胸の奥でちりつくような感覚をおぼえる。……言うんじゃなかった、やっぱり。でもこんなこと、いまさら取り消せるわけもない。
気まずい心地を隠せないこちらを前に、いつものあのたおやかな笑みを絶やさないままに鴫野くんは答える。
「そんなふうに思ってたんだ?」
「だって、まぁ……」
ぎこちなく口ごもるこちらを裏腹に、からりと明るい口調で言葉は続く。
「仕方ないよねえ、ばれてたんなら」
ほら、やっぱりそうじゃないか。どこか言いしれようのない歯がゆい心地におそわれるこちらを前に、いつもどおりのひょうひょうとしたようすで鴫野くんは答える。
「ずうっと思ってたんだよね。旭はすごいなって。いつだって自分に打ち勝ちたいって気持ちが一番にあって、そのために泳いでるんだっていう信念にぶれがない。ばかみたいに正直でまっすぐで、実際にばかなところもいっぱいあって――郁弥なんてしょっちゅう旭に突っかかってるのに、それでもありのまま受け入れて、本気で怒ったり見捨てたりなんて絶対にしない。壁にぶつかって悩んだ時だって、何よりも自分自身に怒って、必死にもがいて、しまいには尚先輩に泣きついたりなんてしてさ。旭には自分のことを飾ったりよく見せようなんてところがすこしもないんだよね。いっつも周りが気になってちゃらちゃらしちゃう僕とは大違いだよ。それでも、そんな僕のことだってありのままに受け入れて友達でいてくれる。僕のバスケの試合の時にだって全力で応援してくれて、自分のことみたいに喜んだり悔しがったりしてくれる。ほんとうに、僕にはないものをなんだって持ってるんだよね。尊敬してるって言ってもいいくらいだと思う。こんなこと、はずかしいから面と向かって言えるはずもないんだけれど」
くしゃりと髪をかきあげながら呟かれる言葉には、いつも見せてくれるのとはあからさまに違う、穏やかであたたかな色が秘められているのが手に取るように伝わる――どれだけ特別な思いがそこにあるのかを、ありありと伝えるかのように。
「――でも、」
じいっとこちらを捉えるかのように、いつになくまっすぐなまなざしを向けながら、おだやかに言葉が落とされる。
「そういう気持ちじゃないっていうのはわかってるんだよね、もうずっと前から」
「え、」
軋むような鈍い痛みとともに、不思議な安堵感と後悔の念が入り交じるかのような感覚がじわじわと押し寄せる。ああしまった、また間違えたと、そう気づいた頃にはもう遅い。
「鴫野くん、あの――」
ごめん、とそう言い掛けたこちらを察するようににこりと笑いながら、言葉をふさぐように鴫野くんは答える。
「そういう好きっていうのはさ、もっと違うものでしょ? 寂しい時や不安な時があればいつでも駆けつけてあまえさせてあげたい、いじけたりわがままを言われてもゆるしてあげたい。苦しい時や寂しい時には抱きしめて大丈夫だよって言ってあげたい、もちろん僕がそんな気分の時にはうんとあまやかしたりもしてほしい。理由なんてないのに無性にさわったり、さわられたいって思う――」
わがままなまでに愛したいし、愛されたい。あたたかな瞳のその奥には、いつもとはすこしだけ異なる色を宿した、おだやかな光が灯る。
「あのね、遠野くん。遠野くんはさ、郁弥のことそんな風に思ったりするの?」
いいでしょ、ここだけの話なんだし。人差し指を唇の前に突き立て、どこか遠慮がちにささやかれる声を耳にすれば、ざわりと、胸の奥がしずかに沸き立つのを抑えきれない。
「……ないよ、そんなこと。郁弥には」
誤解されるような振るまいをしてきたのは確かだし、自分でも整理のしようのない感情に揺らされたことは幾度だってあった――でもそれが決定的に『違う』のだということ、『郁弥のため』だと思っていた自らの振るまいが決定的に掛け違えていたものだったことは、あの日、郁弥が自らを取り戻したことを契機に自分の中でもはっきりと気づいたことだった。
いままでの自分は間違っていた、きっと郁弥はもう自分なんかを必要としなくなってしまう――そんなやりきれない気持ちに襲われていた時、真っ先に声をかけてくれたのが目の前にいる彼だった。
「いっそのこと、そうならいいのかなって、そう思ったことならあったかもしれない。でも――」
「そうなんだ!」
しどろもどろに言葉を詰まらせるこちらを前に、ぱあっと明るい笑顔が多い被せられる。いつもの『それ』とは似ているようでどこか違う、子どものように無邪気でまっすぐで、それでいて、隠しようもないかすかな期待や喜びを忍ばせたような――。
「ねえ、鴫野く――」
戸惑いを隠せないこちらを前に、かぶせるように明るく弾んだ声が落とされる。
「よかったー! ほんとはさ、ずっと心配してたんだよね。やっぱり遠野くんは郁弥じゃなきゃだめなんだろうな、もしかしてもうそういう関係なのかなって。でもそんなこと下手に聞いたら絶対嫌われるだろうって思ってさ。そうじゃないってことはさ、僕にだってまだワンチャンあるってことだよね?」
「鴫野くん、あの……」
戸惑いを隠せないでいるこちらを前に、いつものようにやわらかに笑いかけながら鴫野くんは答える。
「ごめんね遠野くん、びっくりした? ほんとはさ、もっとちゃんと言うつもりだったんだよ。ああほんと、かっこわるいなぁ」
くしゃりとやわらかそうな髪をかき回し、ひどくばつが悪そうなようすで、ぽつりと遠慮がちな、それでいてはっきりとした意志を込めたささやき声がこぼれおちる。
「あのね、遠野くん。僕、遠野くんのことが好きなんだよね」
「……えっと、それは」
思わずしどろもどろになるこちらを前に、いつになく真剣なまなざしを注ぎながら、やわらかに言葉は続く。
「だからさっきも言ったでしょ、そういう意味だよ?」
「しぎの……くん」
まっすぐな言葉とまなざしは、打ち抜くような鋭さで心をぎゅっと掴みかかってくる。
どうすればいいんだろう、こんな時は――隠しきれない戸惑いを胸に言葉を詰まらせていれば、こちらを見つめるまなざしにはいつものあの、包み込むようなやわらかなほほえみがたちまちに広がる。
「ごめんごめん、もしかして怖がらせてた? ほら、僕ってキツネ目でしょ? ふつうにしてると睨んでるみたいに見えちゃうからさ、出来るだけ笑ってるようにしてたんだよね。でもそういうのってどうしてもむずかしい時があって」
明るい口調で答えながら、両方の人差し指を瞳の前にかざして斜め上へときゅっとつり上げるジェスチャーが繰り広げられる。
「……そんなことないよ、鴫野くんは」
打ち消すようにきつく頭を振り、きっぱりとした口ぶりで日和は答える。
「鴫野くんの顔は怖くなんてないよ、いつも周りのことを気遣ってくれて、思いやりや優しさが滲み出てて」
自分のように、周囲の顔色を伺うあまり、深入りさせないために作り出した偽りの笑顔とはまるで違う――強ばった心を穏やかに溶かして、傍にいる相手に掛け値なしのぬくもりを届けてくれるかのような、そんな穏やかな明るさが彼にはいつもあふれている。
「どうしよう、そんなこと言われたのはじめてなんだけど」
くすりと笑いながら答えるその瞳の奥には、いつもとはすこしだけ違う色を帯びた、まばゆくあたたかな光がにじむ。
「ねえ遠野くん、そんなこと言われたらますます遠野くんのこと好きになっちゃうよ」
「……そんな」
ほんとうのことを言っただけなのに、どこにそんな価値があるんだろう。ぎこちなく言葉を詰まらせていれば、次第にかぁっと耳が熱くなるのを感じる。
胸の奥が締め付けられたように息苦しくて、心臓の鼓動がやけに早くて――それなのにすこしも不快なんかじゃない。この痺れるようなあまい息苦しさは、いったいどう捉えればいいんだろう。
「遠野くん真っ赤だよ、照れてるの? ねえ、それってその気になってくれたってこと? さっきだって旭のこと話した時、ちょっと複雑そうだったもんね。それってやきもちだよね?」
「しぎの……くん、あの……」
取り繕うようにこほん、とわざとらしく咳払いをこぼし、まっすぐにむき直るようにしながら日和は答える。
「なんていえばいいんだろう……ありがとう。すごくうれしい。でもちょっとびっくりしたほうが大きくて。だからその、受け止めるのがむずかしいんだ。でもいやだなんてことはすこしもなくって、むしろうれしくって。僕もその……鴫野くんが」
すき、だから。胸の中に落とした言葉のびっくりするほどのあまさに思わずぐらりと飲み込まれてしまいそうになっていれば、目の前にはすこしもひるむようすなどないたおやかな笑顔がそっとこちらを包み込んでくれている。
「ごめんね、困らせちゃって。でもほんとうの気持ちだよ? それにしたってびっくりしたな、遠野くんってこういうの、もっと慣れてると思ったんだけど。だってそんなにかっこいいんだしさ」
「――そんなこと、」
ばつが悪い心地のままぶんぶんと頭を振り、脳裏をよぎる過去の記憶をゆっくりと手繰るようにする。
そういった経験がまるでないわけではない――気持ちを寄せられることなら、アメリカにいた頃にも、日本に帰ってきてからだって幾度となくあって――その中の幾人かとは深い関係を持ったことだってある。それでも、いまこうして目の前にいる彼は、それらとはまるで違う。
いままでの彼らが目にしていたのは、惹かれたとそう告げてくれたのはこの顔立ちや身体つき、水泳のタイム、郁弥の隣にいつもいるだなんて付加価値――上辺での『遠野日和』の姿にきっと過ぎなくって。こんなふうに、日和の心のうちまでをみようとしてくれたのはきっと彼しかいない。
「ずっと気になってたんだよね、遠野くんのこと。最初はなんでなのかなんてわからなかったけど、ただどうしようもなく放っておけないっていうか――遠野くんはいつも郁弥のことばっかり優先して、自分はいいってふうじゃない。でもそんなわけないよね? きっといろんな事情があって、そうやって強い自分になろう、郁弥の支えになろうっていつも気を張ってて。でもほんとうは寂しがり屋で負けず嫌いで、つい遠慮して自分を出すのが苦手になっただけで――僕もわかるんだよ、そういうの。だからかな? 一緒にいると不思議と心地よくて、落ち着いて。だんだん遠野くんがいままでと違う風に笑ってくれるようになってくるのがわかると、その度にすごくうれしくて」
もう一度、確かめるように――まっすぐにこちらを見つめながら、迷いのない言葉が届けられる。
「遠野くん、好きです。僕の恋人になってください」
「しぎの……くん」
いやなわけじゃない、もちろん。でも――隠しようのない戸惑いに揺らされながら、途切れ途切れにもどかしく言葉を紡ぐ。
「あの……ありがとう。うれしいよ、すごく。でも――」
「遠野くんは僕が嫌い?」
「嫌いじゃないよ――でも、付き合うって、実際どうするの?」
男同士の恋愛がタブーだなんてナンセンスなことは思っていない。それでも――いざ気の置けない『友達』だと思っていた相手にそんな風に言われれば無理もない話だ。
戸惑いを隠せないこちらをよそに、いつもあのあたたかな笑顔と弾むような軽やかな口ぶりで鴫野くんは答えてくれる。
「まぁそんなに難しく考えないでよ? いままでみたいにこうやってふたりで出かけたり、連絡しあったり――ちょっとくらいはスキンシップもしたいかな。手を握ったりとかハグとか。遠野くんは外国帰りなんだしさ、そのくらいは友達同士でもふつうだよね? あ、もしかして怖がらせちゃってた? だいじょうぶだって、いきなり押し倒したりなんてしないよ」
声をわずかに潜めるようにしながら、それでもあっからかんと明るく告げられる言葉に、思わずかあっとこみ上げるように胸の奥まで火照らされてしまう。
「押し倒――」
「ああ、ごめんごめん。もしかして遠野くんって押し倒したいほうだったりした? 僕も別にそこまでこだわりがあるわけじゃないからさ、もしそうなったらちゃんと相談しよ? 強引なのはよくないもんね」
「鴫野くん……」
あっけらかんと明るく告げられる『提案』を前に、するすると強ばった心と身体が溶かされていくのを感じる。こういうところなんだよな、きっと。適うはずなんてあるわけもなくって、なのにちっとも悔しくなんてない。むしろ心地よくってたまらない。自分自身ですら触れようとしないままに遠ざけてきたものに、鴫野くんはこんなにもやさしく穏やかに手をのばしてくれる。
「……すごいよね、君って」
「そうかなあ」
「でも結構好きだと思うよ、そういうところ」
力なくぽつりと答えれば、途端に子どもみたいな無邪気な笑顔に包み込まれる。
「ねえそれってさ、遠野くんの中ではありってこと?」
「そうだと思うけど……でも。まだちょっとわからないよ、鴫野くんとおなじ気持ちかどうかは」
「いいよそんなの、他人同士なんだから当たり前でしょ? ありかなしかで言えばありならそれでいいって」
「君ってどれだけポジティブなの?」
「よく言われるんだよね、それ。自分じゃわかんないんだけどさ」
得意げに笑う顔には、いつもの取り澄ましたようなようすとはどこか違う、おだやかで温かな色が浮かぶ。のぼせるようなそのあまさを前に、いつしか飲み込まれそうになってしまっている自分に気づく。
「……いいと思うよ、すごく」
小さな声でささやくようにそっと答えれば、ただそれだけで、胸の奥では穏やかな明かりがそっと灯る。
痺れるようにあまくて息苦しくて、それなのにすこしもいやな気持ちになんてならない――この掌はきっと、包み込むように握りしめてもらうことを望んでいる。
「ねえ遠野くん、もう結構僕のこと好きでしょ?」
「……わからないよ、まだ」
「じゃあわかってもらえばいいんだよね?」
ぱちりとウインクをこぼしながらかけられる言葉に、さあっと胸の奥からは熱いものがこみ上げて、息苦しいほどのあまさで満たす。
「ねえ遠野くん、もう一口食べる?」
「……あぁ、」
銀色のフォークを手にしたしなやかな指先は、崩れ落ちた反対側の山を綺麗に切り分ける。
「はい遠野くん、あーん」
「……それはちょっと、まだ」
「ええー」
不満げな口ぶりとは裏腹に、言葉の奥にはふつふつと立ちのぼるようないとおしげな色が滲んでいる。
「――ふたりきりの時なら、ね」
小声で答えながら、そっと手にしたフォークを奪い、切り分けてもらった一口を口にする。濃厚なチーズ味と、こくのあるキャラメルの風味――口の中いっぱいに広がる豊かなあまい味とともに、交わしあうまなざしや胸の奥で、あざやかな光がまたたくのを感じる。
「――とおのくん、」
いつもどおりのあの穏やかなまなざしは、心なしかすこしだけ滲んでいる。困ったなぁ、そんな顔たやすくしないでよ、誰かに見られてるかもしれないのに。
「鴫野くんも食べるでしょ、ほら」
すっと手前にお皿を差し出しながら、覚悟を決めたような心地でそっと息をのむ。
息苦しさだけなんかじゃない――言いしれようのない気持ちはいくつもせり上がって、痺れるようなあまさで胸のうちを満たす。
こんな気持ち、ぜんぜん知らなかったのに、知らないでいるつもりだったのに――ひどくやっかいなのは、この居心地の悪さをすこしもいやだなんて思わないことだ。
この気持ちがこれからどんなふうに育っていくかなんてことはわからない、それでも。
「僕も結構好きだと思うよ、鴫野くんのこと」
テーブル越しにわずかに顔を近づけるようにしながらうんと遠慮がちなささやき声で答えて見れば、いつものあの屈託のない笑顔は、熟した果実みたいにぼうっとかすかに赤く染まる。
この恋はまだ、はじまったばかりだ。