Breath「遠野くんってさ、ちいさいころなんて呼ばれてたの?」
マスクの不織布ごしに届けられる、すこしくぐもったやわらかなささやき声が耳朶をやさしくくすぐる。
覆い隠された唇はきっと、なだらかな弧を描いているのだろう――とくん、と心の奥をくすぐられるような心地になりながら、いつもよりもすこし掠れた声で日和は答える。
「どうって……ふつうに、日和って」
「そうじゃなくってさ――あったでしょ? あだなとか」
要領を得ていない、とでも言わんばかりに、ぱちりとまばたきをこぼしながらかけられるささやき声に、さぁっと胸の奥が熱く高鳴る。わかって聞いてるよね? ぜったい。ばつの悪さに襲われながら、うんと遠慮がちなちいさな声で渋々と返答を返す。
「……ひよちゃん」
「そうなんだぁ、かわいい~」
途端に、こちらをじいっとのぞき込むまなざしはやわらかく滲んで、幾重にも重なり合うようなあたたかな色がそこには宿る。
もうすっかり、耳までのぼせたように熱い――どうしてくれるの? 鴫野くんのせいなんだけど。
喉の奥でだけそっと、そうひとりごちながら、やわらかく滲んだ視界に映し出された姿をぼうっと眺める。
なんだかいやに身体が重い、節々が痛む、それに、締め付けられたみたいに頭が痛くてぐらぐら揺れるような感覚がある。
きのうの晩、眠りにつく前に喉にわずかな違和感をおぼえて飲んだ風邪薬はもうはや手遅れだったらしい。
困ったな、どうしよう。幸いなことに、練習は元から休みだ。かかりつけの病院だって午前中なら空いている。でもそんなことより、なによりも――充電ケーブルにつながれたままの枕元に置いたスマートフォンを引き寄せて、いつもよりもおぼつかない指先ですぐさまトークルームを開き、メッセージを送る。
――『ごめんね、風邪をひいちゃったみたいだから今日の約束はなしにしてください。埋め合わせはちゃんとするから。鴫野くんも気をつけてね』
すぐさま既読の通知がつくと、あらたなメッセージが届く。
――『大丈夫? 最近きゅうに寒くなったりしたもんね。今からお医者さん? 気をつけて行ってきてね。僕のことなら気にしないでいいから、お大事にしてね』
人なつっこい彼らしいやわらかなメッセージは、文面だけでも不思議と、すこし鼻にかかったやさしい声が聞こえてくるように感じられるのだから不思議だ。
ほんとうにごめんね。喉元まで出かけた言葉を飲み込んで、「ありがとう」のおじぎをするしろくまのスタンプだけを送って、ひとまずはスマートフォンの画面を暗転させる。
早く着替えて身支度をして病院に行かないと。週明けには練習もあることだし、迷惑をかけるわけにはいかない――食事はむずかしくても野菜ジュースくらいなら飲めるだろうか。あとは帰りに薬局で必要なものを買って――頭の中で一通りの手順を確認しながら、ひとまずはぐっしょりと汗をかいた寝間着を脱ぐ。
大丈夫、こんなの慣れているから。ぐらつく頭の片隅にぼんやりと浮かぶ、ひとりきり、ベッドの上でうなされている子どもの姿を必死に追いやりながら、ふかぶかと息を吐く。
大丈夫、大丈夫。だっていまの自分は、やっとほんとうの意味でひとりきりで――だからこんなこと、ちっとも寂しくなんてないはずだから。
ほんとうならきょうは、お昼過ぎから鴫野くんが遊びに来てくれる予定だった。
誘われるままにバスケサークルに顔を出し、帰りにはお茶に誘われて、その時に話題に出た場所へとごく自然にふたりで出かけるようになり――いまやすっかりお馴染みとなった”郁弥の中学時代の同級生”の面々の中でも、ごく自然な流れで一番の親密な仲になっていたのが彼だった。
”友達”と呼べるような間柄の人間ならいくらかいても、一対一で時間を過ごせる相手はもう何年も郁弥しかいない、そのはずだったのに――ほがらかな笑顔や、人懐っこい態度の奥に幾重にも重なり合って滲んだ複雑な色をひそませたまなざしは、いつしか不思議な居心地のよさを感じさせてくれるようになっていた。
自分でも息苦しく感じるほどに張りつめさせて、いつしかこの身だけじゃなくって、いちばん近くにいてくれた郁弥のことまでをきつく縛り付けていた糸を緩められていくのは、ほんとうならおそろしいことだと、そう感じたっておかしくないのに――柔和なまなざしや穏やかに滲んだ声は、いつだってそんな不安や迷いをたちまちに塗りつぶしてしまう。
きょうのことだって、きっかけはごく些細なことだった。
「その映画なら家にBlu-rayがあるよ。リバイバル上映でみた時、すごく気に入ったから手元に置いておきたくて」
「へえ、そうなんだ」
こだわりのブレンドが評判のコーヒーを挟んで、いつものようにとりとめもない雑談に花を咲かせていた時のことだった。猫みたいにきゅっとつりあがった縦長の綺麗なアーモンド型の瞳は、こちらの言葉を受けた途端にきらきらと興味深げにきらめく。子どもみたいなその無邪気さに促されるような心地な心地で、僕は話を切り出す。
「だったら見に来る? うちまで」
なんの気なしに答えれば、向かい側の鴫野くんからはぱちぱち、と戸惑いを隠せないようすのゆっくりのまばたきが返される。
「いいの、行っても」
半信半疑、とでも言いたげなまなざしで問いかけられると、途端に気まずいような心地に駆られてしまう。もしかしてまた、何かを間違えてしまったのだろうか。
「……鴫野くんが平気なら、だけど。ごめんね、いきなり。めいわ」
口ごもりながら答えれば、すぐさまかぶせるような返答が投げ返される。
「そんなことないよ、ちょっとびっくりしただけだよ。でもうれしいなあ、すごく。遠野くんありがとう! おみやげ持って行くから、リクエストがあれば言ってね?」
にこにこと無邪気にほほえみかけるようにしながら尋ねられると、途端に息苦しさにも似た、おだやかな感情がせり上がってくるのを感じる。
人気者の鴫野くんならきっと、誰かの家に招かれるのなんて慣れっこなはずなのに――すこしばかり照れたようなようすで向けられる、子どもみたいに無邪気でやわらかく綻んだ笑顔に、いくつもの「どうして?」を感じずにはいられなくなってしまう。
「どうしたの、遠野くん。もしかして後悔してるとか?」
いつしかお馴染みになっていた、いたずらめいた笑顔でそう問いかけられると、きゅっと胸の端を掴まれるような心地を味わう。
「そんなわけないでしょ」
言い出したのだってこちらのほうからなのに。らしくもない、とでもいいたくなるような遠慮がちな態度に、ぶざまなまでに胸の奥はにぶく軋む。
――『いま病院? よかったらあとでお見舞いに行ってもいい? 迷惑だったらごめんね』
先に処方箋を送ろうかと待合室でそっとスマートフォンを開いた時、真っ先に目に入ったメッセージがそれだった。
……らしいよな、こういうところ。あんなに気さくで明るいのに、遠慮がないだなんてないところはちっともないあたり。
マスクの下でおもわずちいさく笑みをこぼしながら、続くメッセージにそっと目を通す。
――『もしかして、もう郁弥が来てくれることになったりしてる?』
お馴染みの名前を目にした途端、なぜだかざわりと胸の奥からはいびつな棘が姿をのぞかせる。
こちらの姿なんて、見えないはずなのに。それでも、堪えきれないままにそっと頭を振って、いつもよりもすこしだけおぼつかない指先で画面をタップしながらメッセージを打ち込む。
――『郁弥には連絡してないよ。いろいろとありがとう、ほんとうに。鴫野くんがよければだけど、来てくれたらうれしいよ。ちゃんとマスクしてきてね』
いくら優しいからって、あまえすぎてないかな。ほんとうにいいのかな。ためらいながら送ったメッセージにはたちまちに既読の通知がつくと、「了解」「お大事にね」の猫とうさぎのスタンプが続けざまに届く。
困ったな、なんでだろう。ありがたいしうれしい、感謝だってしている――そのはずなのに、なぜだかひどくいびつに胸が軋むのはきっと、はやり病のせいだけじゃない。
くぐもった息をぼうっと浅く吐き出せば、視界の端には母親らしき女性に付き添われた、顔をまっかにした幼い男の子の姿が映る。
だいじょうぶ、だいじょうぶだからね。
やわらかな声は頭の奥にぼうっと響いて、記憶の底に眠らせたものへと否応なしに揺さぶりをかけてくる。
――これだからいやだ、風邪の日は。思い出すつもりのないことばっかりがいくつも浮かんでくるから。
ずっしりと重そうに膨らんだエコバッグを手にした鴫野くんが訪れてくれたのは、お昼前のことだった。
「ごめんね、起こしちゃったよね? お見舞いいろいろ買ってきたよ、ひとまずだけど、冷蔵庫開けちゃってもいい?」
見慣れないマスク姿で、どこか恐縮したように尋ねられると、申し訳ない気持ちとありがたさ、その両方がないまぜになった不可思議な心地にたちまちに襲われてしまう。
「……ありがとう、わざわざ。いくらだった? お金払うね」
寝癖のついてしまった髪をくしゃりとかきあげながら答えれば、たちまちに打ち消すような明るい笑顔がそれを受け止めてくれる。
「いいってそんなの、元々おみやげ買っていくつもりだったからさ、その分だと思えばいいでしょ?」
うちの近くにね、すごく美味しいケーキ屋さんが最近できて。また元気になったらお祝いに買ってくるね、いいでしょ? ぱちり、と人懐っこいまばたきをこぼしながらかけられる言葉に、いびつに震えた心ごとぎゅっとくるまれるような心地よさを味わう。
「……ありがとう。あがってくれる?」
うながすように声をかければ、いつものあのやわらかな口ぶりでの「おじゃまします」がふわりと広がる。
「ゼリーとスポーツドリンクがあるから、ひとまず冷蔵庫に入れておくね。あと、洗濯ってしても大丈夫? いやだったら言ってね」
手慣れたようすでてきぱきと動いてくれるさまを、寝床に入ったまま、申し訳ない気持ち半分、ありがたい半分が入り交じった心地のままぼうっと眺める。椎名くんのそれともまた違う面倒見のよさは、いつでもたくさんの人たちに囲まれている人気ものなところや、故郷にいるのだという歳の離れた弟さんの存在も影響しているのだろうか。
「……鴫野くんは」
かさかさに掠れた聞き苦しい声に、自分でも戸惑いながらそうっと尋ねてみる。
「慣れてるの? こういうの」
すぐさま返されるのは、ゆるやかに頭を振っての「ううん」だなんて返答だ。
「克美叔父さんが風邪の時にじゃあ任せてって言ったくらいかなぁ。あ、言ってたっけ? 僕、叔父さんのところに下宿させてもらってるんだよね。旭もちょっと前に風邪ひいたことがあったみたいなんだけどさ、教えてくれたのだって後からだったし」
水臭いと思わない? くすりと軽やかな笑い声まじりに届けられる言葉には、一抹の寂しさがわずかに滲む。
「まぁ――、」
あれだけ特別に仲が良いように見えるのに、たしかにそれは意外だ。首を傾げるこちらを前に、やわらかに眉尻を下げるようにしながら言葉は続く。
「落ち着かないからやだって、はっきり言われちゃって。あとね、そういう時は茜さんが来てくれるから大丈夫なんだって。まぁ家族だしさ、そのほうが気楽なんだろうね」
言葉に連れるようにして、彼の面影をありありと宿した、快活で明るい表情や遠慮のないざっくばらんな態度が瞼の裏に浮かぶ。人前だというのに、変に気取ったところのないやりとりの応酬を繰り広げるさまは、なるほど、彼のおおらかな性格を形づくるものになったのだろうとそう思わせてくれて、不思議な快さをもたらしてくれた。
「あのふたりのこと見てるとさ、お姉ちゃんっていいなってちょっと思うんだよね。旭は『どこが!?』って言うんだけどさ」
くすくすと笑いながら洩らされる言葉には、幾重にも折り重なりあうようなあたたかな想いが滲む。
「わかる気がする」
遠慮がちに答えれば、瞼をおだやかに細めた会釈が返事の代わりのように投げかけられる。
「遠野くんはひとりっこなんだっけ?」
「……うん」
「じゃあさ、きょうだけ僕が遠野くんのお兄ちゃんっていうのは?」
ぱちり、といたずらめいたウインクとともにこぼされる言葉に、おもわずさあっと胸の奥が沸き立つ。
「それはちょっと……」
「言われると思った」
いつもそうするみたいな、からかうような笑いかけ方――それでも、やわらかく細められた瞳や、吐息まじりにこぼれおちる言葉の奥にはあたたかく滲んだ穏やかな色が潜められているのだから、そのぬくもりにかすかに触れるだけで、どこか息苦しさにも似たおだやかな感情がいくつもこみ上げてくる。
「ごめんごめん、飲みものあったほうがいいよね? あったかいのにする? それとも水かなんかのほうがいい?」
「……あったかいの」
「ちょっと待ってね」
すぐさま、お湯割りにしたスポーツドリンクをなみなみと注いだマグカップを手にした彼がベッドサイドへと来てくれる。
「あんまり熱くないようにしてるけど、ちゃんとふーふーして飲んでね」
「大丈夫だよ」
おなじ歳のはずなのに、こちらのことを弟さんと重ねてでもいるのだろうか。幼い子どもにそうするみたいな、いつもよりも穏やかな優しい声色で呼びかけられるたびに、胸の奥からはどうしようもなくくすぐったく感じるような、淡くやわらかな感情がいくつもこみ上げてくるのを抑えきれない。
複雑としか言えないこちらの胸の内に、果たして気づいているのかいないのか――ゆるやかに瞼を細めたような笑顔を浮かべたまま、鴫野くんは尋ねてくれる。
「遠野くん、ごはん食べられそう? 薬飲まないとだから、なにか食べれるなら食べたほうがいいよ。でも無理はしないでいいからね」
心ごとくすぐるようなやさしい手つきで差し伸べられる言葉は、肌身に染み渡るように心地良い。そういえば朝からろくになにも口にしていなかっただなんてことを、言葉につられるようにしていまさらのように思い出す。
「……ありがとう。なにか用意してもらえるとうれしいな、ふつうに食べられそうだから」
「そっか、熱のほうは?」
「すこし落ち着いたと思う。薬、飲んだから」
「よかった。でも無理しちゃだめだよ?」
やわらかく澄んだまなざしが、じっとこちら捉える。きゅっとつり上がった綺麗な縦長のそれは、一見すれば凛々しい印象を与えるはずなのに、不思議といつも、人好きのするような穏やかなぬくもりを携えているように見えるのが不思議だった。
昼食の片づけを終えてからも、鴫野くんは帰らずに傍にいてくれた。
「――ごめんね、なんか」
「いいって、いっしょにいさせてもらってるのは僕の方でしょ?」
してくれるんでしょ、埋め合わせ? いたずらっぽく笑いながらかけてくれる言葉は、いつしか強ばっていた心をやさしくなぞってくれる。
「それよりさ、タオル、そろそろ取り替えよっか?」
僕のそれよりも一回り大きな手は、すっかり汗ばんだ額へとそろりと伸ばされると、極力それに直接触れないような繊細な手つきですっかりぬるくなっていた濡れタオルへと手を伸ばす。
「ちょっと待っててね」
そっとその場を立ち上がると、すぐに冷凍庫から取り出した、まだひんやりと冷たい凍らせたタオルが額へとのせられる。
「おでこに貼るシートってあるでしょ? あれって便利だけど、冷たく感じるから気持ちいいってだけで、実際には熱を下げる効果はないんだって」
家に来てすぐさま、かけられた言葉がそれだった。
「なんか慣れてるよね、鴫野くん」
「そうかなぁ?」
首を傾げながら、やわらかな吐息まじりの言葉がこぼれる。
「前に颯斗が風邪になった時が何度かあったから、そのおかげかも。うつったら大変だからあんまり構い過ぎちゃだめだって怒られたんだけどさ、そんなわけにもいかないよね?」
うれしそうに瞳を細めて笑う表情は、誇らしげに見えるのと同時に、一抹の寂しさをよぎらせている。
「いいお兄ちゃんなんだね、ほんとうに」
一回り歳下で、少し気弱な性格の水泳教室に通っている故郷の弟さん――お目にかかったことこそなくても、ごく自然に会話の端々に登場するそのたびに、鴫野くんにとっての彼がどれだけいとおしくって仕方のないかけがえのない存在なのかだなんてことは痛いほどに伝わる。
「そんなことないよ」
ゆるく頭を振ると、いつもよりもすこしだけトーンを落とした、少しだけ息苦しげな吐息混じりの言葉が洩らされる。
「弟が生まれたのはさ、僕が六年生のころだったんだよね。赤ちゃんができたんだよ、お兄ちゃんになるんだよってそう教えてもらった時から僕はすっごくうれしくて――まわりのきょうだいがいる子には、初めはいやだったなんていう子もいたけど、僕はそんなことぜったいない、大丈夫だって思ってた。もう大きいから大丈夫、たくさんかわいがって、たくさんお世話もしてあげて、自慢のお兄ちゃんになるんだって思ってた」
いつくしむようなまなざしを向けながら、すこしだけ端の滲んだ、綻ぶような言葉が続く。
「弟が生まれてしばらく経ったころ――ほんとうにちょっとしたことだったんだけど、いろいろと不安定だったんだと思う。お父さんもお母さんも、弟のことはちゃんと“颯斗”って呼ぶのに、僕のことはいつからか“お兄ちゃん”って呼ぶようになったのがだんだん嫌になってきちゃってさ。最初はうれしかったはずなんだよ? なのに自分でもわからないまま、むしょうにいらいらして……だからふいうちみたいに言っちゃったんだよね、『僕はお兄ちゃんなんて名前じゃない! 好きでお兄ちゃんになったわけじゃない!』って。――言ってすぐ後悔したよ、お父さんもお母さんも、いままでみたことがないようなすごく悲しそうな顔しててさ。すぐにごめんねって言ってくれたんだけど、そんなふうに言ってほしかったわけじゃないんだっていうのもすぐわかったから」
くしゃり、とやわらかそうな髪をかきあげながら、ひどくばつが悪そうなようすで落とされていく言葉に、じわりと心の奥が照らされていくような心地を味わう。
――自分もそれを知っている、きっと。形は違っていても、溶けきらない棘のように心の奥に仕舞い続けたままの、あの頃だけの寂しさを。
「……そういうものだよね」
これが正解なのかはわからないけれど、それでも。すこしだけ汗ばんでいびつに震えている掌を握りしめながらぽつりと力なく答えれば、おだやかな笑顔は、おぼつかないそんな返答をありのままに受け止めてくれる。
「凛にも話したんだよ、前に。そしたらさ、ぜんぜんピンと来てない感じで『別にそういうもんだろ?』って言うんだよ。聞く相手間違えたよなあってちょっと思ったよね、あの時は。真琴に聞いた時には『ちょっとわかるかも』って言ってくれたけどね」
「橘くんらしいね」
弟と妹がいるんだ、まだ小学生の双子なんだけど――もう本当にいっつも元気が有り余ってて、すごく大変で。いつくしむように瞼を細められながら告げる言葉には、目の前にいてくれる彼の見せてくれるそれにもよく似た、こらえようのない愛おしさが滲んでいたことをありありと思い返す。
いささか挑発的な態度で挑んでいたこちらを前にどこか諫めるようなやわらかさで接してくれたところや、常日頃から感じる面倒見のよさの背景にはそんな理由があったのかと、納得がいったところもあるくらいだ。
「いまはあんなだけどさ、昔はすっごい臆病で泣き虫だったんだって。いっつもハルの後ろにくっついてハルちゃんハルちゃんって――でもなんかさ、想像もつくよなぁって思うんだけど」
くすくすと笑うその表情には、あたたかな慈しみがしずかに溶かされている。
「――ねえ、遠野くん」
ぼんやりと言葉を探すこちらを前に、うんとやわらかく、ささやくような口ぶりで鴫野くんは尋ねてくれる。
「ごめんねさっきから、なんか気がついたら僕ばっかりずうっとしゃべってるよね。これじゃあ遠野くん、ゆっくり休めないよね? うるさいって思ったら遠慮しないで言ってくれていいからね」
言葉の端はやわらかにほつれて、一抹ばかりの寂しさにひたひたと浸されている。
「……そんなことないよ、気にしないで」
あわてて頭を振るようにして、ぽつりと頼りなげな声で、それでも、精いっぱいの思いを込めるようにして僕は答える。
「鴫野くんの声、聞いてると落ち着くから」
自分がいま、うまく笑えているのかなんてわからないけれど――照れくささにおそわれながら心からの言葉を届ければ、視線の先では、花のほころぶようなおだやかな笑顔がたちまちに広がる。
ありがとう、傍にいてくれて。
言葉にできない思いを胸の奥にそっと飲み込めば、せり上がるようなぬくもりが、音も立てずに静かに溶けていく。
「レトルトのおじやとスープがあるから、おなかがすいたら食べてね。あと、冷蔵庫にスポーツドリンクとゼリーとミルクかんてんがあるからね。ほんとうに無理しないでね、困ったことがあったら連絡してくれていいからね」
玄関先で矢継ぎ早にかけられる言葉に、まだぼんやりと鈍く揺れる頭をぺこりと頭を下げながら、もう何度目なのかわからなくなった「ありがとう」を告げれば、まなじりを下げたやわらかな笑顔は、ただおだやかにそれを受け止めてくれる。
「ごめんね、そろそろ帰らないと。きょう夕飯の支度しないといけない日なんだ」
貴重な休日の時間を割いてまで、結局鴫野くんは半日近くをともに過ごしてくれた。申し訳ないと思う気持ちは確かにあるはずなのに、それ以上にうれしいとそう感じてしまう気持ちが勝ってしまうのは、どう説明すればいいのか、いまだによくわからない。
「すごく助かったよ、ありがとう。うつしてたらごめんね、鴫野くんも気をつけてね」
「だいじょーぶだって」
きっぱりと明るく笑う表情に、安堵としか呼べない気持ちがひたひたとこみ上げてくるのにただ身をまかせる。
「来てもいいって言ってくれてありがとう。また元気な時に呼んでね」
ぱちり、とウインクとともに告げられる言葉に、心はざわりと音も立てずにしずかに揺らぐ。
「どうしよう、名残惜しくなっちゃったなぁ。でも早く帰らないと迷惑だよね? ごめんねほんと、ありがとう。楽しかったよ。また元気になったらあそぼ、ね?」
飾り気なんてかけらも感じさせない言葉は、ひたひたと押し寄せる波のように、心をしずかに浚う。
「うんまた、じゃあ」
掠れておぼつかない声を合図にするかのように、カチャリとドアノブに手をかける金属音が、静寂の中でしずかに響き渡る。ちいさく手を振りながら、まるで吸い込まれるようななめらかさで鴫野くんの姿が扉の向こうへと消える。重みによる反動をつけた扉はそのままバタリ、と音をたてて閉じられると、カチャリとキーロックの無機質な動作音を響かせる。
ほんの一瞬の一連のその動作はまるで、スローモーションのようにゆっくりと再生されていく。
申し訳なかったな、ほんとうに。
なによりもそう思うべきだと頭ではわかっているのに、胸の奥はいまだにぽかぽかと温かくて、身体を蝕む熱のせいだとはあながち言えない、不思議な浮遊感に全身がくるまれている。
いつもよりもやわらかくくぐもった声、遠慮がちに指し伸ばされる、極力こちらに触れようとしない滑らかな指先、やわらかに細められた、うんとあたたかいのに、どこかに翳りを帯びたまなざし――そのすべてが心地よい余韻を残して、痛みにも似た不思議な感触を訴えかけてくる。
きっと風邪のせいだ、こんな風に自分では制御なんて不可能な強い力に蝕まれてしまえば、忘れようとしていた過去の思い出だって、いくらだって呼び起こされずにはいられないものだから。
やれやれ、と息を吐きながらひとまずは自分の体温ですっかりぬるくなった毛布の中にゆっくりと潜り込む。すっかり目にすることも忘れていたスマートフォンの画面を開けば、数時間前のメッセージの通知にいまさら気づく。
――『休みなのにごめん、週明けからの練習のことでちょっと確認したいことがあったんだけど、話したほうが早い気がするから電話しても大丈夫?』
ああしまった、郁弥からだ。いまだにすこしぼんやりと熱にうなされている頭を覚ますようにと浅く息を吐き、熱を帯びた指先で画面の上をするするとタップしてメッセージを打ち込む。
――『気づくのが遅くなってごめん。いまなら平気だけど、ちょっと風邪気味だから聞き苦しいかも』
……病院帰りの上に、看病までしてもらっていた身ではあるのだけれど。余計な心配をかけないためにも、このくらいの嘘はゆるされて然るべきだ。
タイミングがよかったのだろうか、すぐさま既読の通知がつくと、続けざまにメッセージが届けられる。
――『こっちも気づかなくってごめん。大丈夫? なにか買い物でもしてこようか?』
ありがたいと素直にそう思う気持ちはあるのだけれど、それでも。
――『わざわざありがとう、でも大丈夫だよ。一日ゆっくりしてたから、週明けからは練習にも参加できると思う』
それに鴫野くんが――途中まで打ちかけたメッセージを慌てて消してから、取り繕うように返答を打ち直す。
――『買い物ならすませてあったから大丈夫、気持ちだけもらっておくね。郁弥も気をつけて」
――『ならいいけど、日和も気をつけてね。それで、聞きたかったことなんだけど』
リズミカルに届けられるメッセージを前に、胸をそっとなで下ろすような心地を味わう。
よかった、気づいてないみたいだ――そのことになんでこんなに安心するのかなんてことは、自分でもすこしもわからないのだけれど。
どうしちゃったのかな、僕。
胸の奥でだけそうつぶやきながら、ほんのひとときだけ、しずかに瞼を閉じてみる。
動悸のペースがやけに早いのも、頭の奥がぼんやりと熱いのも、締め付けられたみたいに胸の奥が不思議と息苦しいのも、まだかすかに残る気配や余韻に、こんなにも言いしれようのない人恋しさを味わうのも――。
ぜんぶがきっと、ひさしぶりの風邪のせいで。そうに過ぎないはずで――それなのに。
気もそぞろなまま、四角い画面の中に浮かび上がってくるメッセージをぼうっと眺める。
ふわふわと頼りなくこの身を包み込んだ不可思議な熱は、まだもうしばらくは収まりそうにはなかった。