Lush Life 変化の兆しは、緩やかではありながら、確実なものだった。
たとえば別れ際、いつものように駅の改札まで見送れば何度も振り返ってはこちらへと手を振ってくれたりだとか。いままでは名残を惜しむみたいに、こちらだけが遠ざかっていく背中を見えなくなるまでずっと見送っていたのだから、これは中々の大きな変化だ。
(お願いだから気づかないでいてほしいな、なんて思ってたはずなのにね)
気持ちの形がそっくり同じだなんて思っていない。そうなってほしい、とも。
それでも、やわらかく穏やかな態度でこうして受け入れてもらえているのだと感じられた時の安堵感は何にも勝るものがある。
ひどく遠慮がちで、照れくさそうで、それでも――いままでとはあからさまに異なった色を帯びたまなざしがこちらに注がれていることに気づくたび、胸の中にはいつも、堪えようのないあたたかな感情がいくつも込み上げては心地よく心を詰まらせてくれる。
ちょっとくらいは自惚れてもいいのかな、ちゃんと好かれてるって。
ぐらり、と立ち昇るようなあまやかなこの気配はみんな、僕たちが『恋人』になったからこそ得られたものだった。
困っちゃうよねほんとうに、どうしようかな。
わざとらしく心の中でだけひとりごちながら、目の前に広がる景色をぼうっと眺める。
しなやかな足が力強く水面を蹴り、長く伸ばされた腕がぐんぐんと鮮やかなストロークを描けば、みるみるうちにその姿は遠ざかる。まるで水と一体になり、新たな流れを生み出しているみたいだ。水泳に関しては体育の授業程度でしか触れたことがない門外漢でも、フォームの美しさくらいはこうして何度も練習に立ち合わせてもらっていればなんとはなしにわかる。
バネのように跳躍する足が空高く飛び上がるのに呼応するみたいに、ぴんと張り詰めるように伸ばされた腕から軽やかにボールが解き放たれ、綺麗な軌道を描きながらゴールへと吸い込まれていく――バスケットのスリーポイントシュートが決まる瞬間の一分の無駄も感じさせないしなやかな動きにも似た躍動感と美しさがそこには溢れていた。
変わったよな、やっぱり。どこが、だなんて具体的に言えるほどの知識は生憎のところ持ち合わせてはいないのだけれど。
時には大会の観客席から、時にはこんなふうにプールサイドの特等席で何度となく繰り返し遠野くんの泳ぎを見守らせてもらっていて、如実に感じたことがそれだった。
真琴との勝負を持ちかけてきたあの時に見た、ひどく張り詰めていたようすとはまるで違う――何かに追い詰められ、必死にもがいているような切実な力強さは次第に薄れ、水の中で自在に心を解き放つことを、共に泳ぐ仲間たちとの戦いの場に身を置くことへの喜びを感じさせてくれるかのようなのびやかな泳ぎは、こちらをますます魅了させてくれるようになった。
真剣な顔をしてバスケを楽しんでくれている時、無我夢中でくるくる表情を変えながら画面の中で繰り広げられる物語に釘付けになっている時、まるで、隔絶された時の流れの中に身を沈めているかのような真摯な表情をして本の世界に没頭している時、すこし首を傾げるようにして、やわらかく瞼を細めながらこちらの名前を呼んでくれる時――愛おしい、としか呼びようのない感情が募る瞬間は数え切れないほどたくさんあって、それでも、他の何にも変え難いほどの胸の高鳴りを憶えさせてくれるのはこんなふうに水の中で力強く前へ前へと進んでいく姿を見せてくれる時だった。
『同じ景色』を見ることは今後も叶うことはないけれど、ここからの眺めだってまたとない絶景だ。
うっとりと瞼を細めるようにしながら見惚れていれば、向かい側に居る遠野くんとパチリと視線が交差し合う。
ちいさく手を振ってみせれば、同じように小さく手を振りながら、口の動きだけでかすかにメッセージが届けられる。たぶん「またね」とかそんな感じの。
……ああもう、なんでそんなにかわいいかな。
あからさますぎる緩んだ顔つきになってしまいそうなのを必死に抑えながら、いつのまにかすっかり仲が良くなったらしい夏也先輩と真剣に話し込んでいる宗介の方へと視線を逸らすようにすれば、背後からはあの、すっと鼓膜へとやわらかに響くような優しい声が届けられる。
「随分仲が良くなったよね」
「あぁ――、」
華奢なアンダーリムのフレームの眼鏡越しに、やわらかく澄んだ眼差しがそうっとこちらを捉えてくれる。
尚先輩――おなじ中学だったけれど、学校にいた頃にはほとんど接点のなかった水泳部の先輩と、こうして改めてより深い接点が生まれることになるだなんて、なんど考えても不思議だ。
「宗介、従兄弟のお兄さんと昔からずうっと仲がよくて――ああいうキッパリした頼り甲斐のある人がいてくれると安心するんじゃないかな。この人について行けば大丈夫、みたいな」
元来面倒見がよくて優しい性格のはずなのに、意地っ張りで強情な上に、感情のコントロールやその場を取りなすための愛想笑いが得意ではないために誤解や攻撃を受けやすい――そんな宗介の不器用な実直さを穏やかに受け止めて、互いに闘争心を掻き立てあうことで波立ったた気持ちをうまく溶かしてくれる。それが、『親友兼ライバル』の凛にしか果たせない大切な役割だった。
海外に拠点を移した凛が側に居られない中で、選手としての再スタートの為の拠点を与えてくれたことだけではなく、現役選手として、頼れる先輩として夏也先輩が大きな力を宗介に授けてくれたこと。それによって、ごく自然な形で、ライバル同士だったはずの岩鳶の仲間たちの輪の中へと合流してくれたことは素直に嬉しかった。
――なにせ宗介ときたら、大切な幼馴染の親友のはずの自分がどれだけ連絡を取ったってつれない態度ばかりでろくに返事をくれたことはないし、凛とはしばしば会っているようすなのに、貴澄とは二人で会ってくれることやバスケの誘いに乗ってくれることなんてすこしも無いのだから。
「夏也先輩ってすごいですよね、周りみんなを巻き込んで有無を言わせない、みたいな天性の人を惹きつけるようなオーラがあって。あの人にかかっちゃえば逃げられる人なんていないんじゃないかな」
「むかしから強引なところがあるからね、あいつには」
それはそれはもう、深く知っているのだろう――噛み締めるようにふっと小さく笑いながら、涼しげに言葉は続く。
「それもあるけど――日和と君のことだよ、言おうと思ってたのは」
レンズ越しに、澄んだ眼差しがやわらかに細められる。
さて、思わぬ角度からきたな。いや、特にこれといって他意はないだろうと思うのだけれど。どことなく気まずい心地に駆られるのを感じながら、精一杯に平静を装うように答える。
「あぁ――まぁ。遠野くんって気遣い上手だから、一緒にいるとなんとなく落ち着く感じがして」
「君とおんなじってわけだ」
「そんなこと」
ぎこちなく頭を振ってそう答えれば、包み込むようなやわらかな言葉が返される。
「なんとなくわかるけれどね。郁弥みたいなタイプよりは、君との方が相性はよさそうだ」
「そうならいいんですけれど」
照れくささと共に込み上げてくるひと匙ばかりの優越感を必死に飲み込むようにして、お行儀の良い愛想笑いで応える。
「気が許せる相手はたくさんいた方がいいでしょう? 宗介も日和も、途中から加わったってところは一緒なんだから、受け皿になれるような相手がいてくれることで随分救われるところはあるよね」
穏やかな笑顔に包まれた言葉は、胸の真ん中へとすとんと心地よい波紋を落としてくれる。
「まあ、でも――」
くしゃり、と髪をかきあげる仕草と共に、どことなくばつの悪いような心地になりながらぽつりと言葉を吐きだす。
「ほどほどにした方がいいのかな、っていうのも思うんですけど」
「どうして?」
らしくもない、とでも思われそうな弱気な言葉を前に、瞼を細めながらの優しい問いかけが投げかけられる。
「これ以上郁弥に嫌われたくないので」
わざとらしく肩を竦めるようにしながらかすかな囁き声で答えれば、はは、とひどく上品な笑い声が漏らされる。
「たしかに、なかなかの厄介な相手ではあるね」
「ねえ?」
答えながら、タブレットを手にフォームチェックをしてくれている真琴からのアドバイスに真剣に耳を傾ける姿をぼんやりと横目で追いかける。
心から水泳が好きで、いつでも自分よりも半歩先へと進みながら力強く未来へと続いていく道を切り開き、想像も付かないような輝かしい景色を見せてくれる夏也先輩やハルのしなやかで力強い泳ぎに心底憧れていて――そんなふうに、心根はいつでもまっすぐで純粋なのに、だからこそ人一倍ナイーブで傷つきやすくて、そこで顕にする剥き出しのあやうさが否応なく人を惹きつける。
それが、こうして長い時を経ての再会を果たした後も一貫して揺らぐことない郁弥の印象だった。
自身を惹きつけるような鮮やかな泳ぎを見せてくれること――水泳を何よりもの心の拠り所にして生きてきた郁弥が心を開いてもいいと思うか否かの条件がきっとそれで、それゆえに、彼らとの共通項を持たないこちらと郁弥との相性はお世辞にも良いとは言えない。
なぜだか水泳部の仲間の輪の中に割り込んできた元クラスメイトで、(それなりに)心を許し合える愉快な仲間たちの内のひとり――それ以上でもそれ以下でもないはずだったこの歪な均衡にこのところ少しばかりのヒビが入り始めたことくらいにはとっくに気づいていた。それが何に起因してるのかなんてことくらい、百も承知だ。
いつまでも隠し通すつもりもなければ、殊更に悪いことをしているだなんてことだって思っていない。それでも――せっかくこうして結び直せたはずの絆に支障をもたらすようなことは、出来ることならば避けたい。
「根回しが必要になったらいつでも言ってね、『お兄ちゃん』への」
目配せとともに告げられる言葉に、ざわりと心を撫でられるような心地を味わう。
――さすがだよね、なんていうか。まあ、すこしばかり気まずいだけで、悪いことをしているつもりはかけらもないのだけれど。
「考えておきます」
ぼんやりとそう答えながら、ひとまずは、とぎこちなく視線を逸らすことでその場をやり過ごす。
「きょうね、練習の合間に尚先輩と話してたんだけど」
「あぁ――、」
ひとたびその名前を出せば、隣を歩く遠野くんのまなざしにはほんのすこしばかりの緊張の色が宿る。
「それで、なにを話したの?」
「遠野くんと随分仲よくなったんだねって」
ぱちり、とまばたきをこぼしながらそう答えれば、遠野くんの顔には途端に照れくささを隠せないようすの少し強張った曖昧な笑みが広がる。
「仕方ないよね、ほんとのことなんだし」
時期がくればその時には――だなんて言ってひとまずは先送りにしたままなせいもあって、僕たちの関係についてはまだ誰にも話してはいない。きょうこうしてふたりで帰っているのだって、旭は茜さんからの呼び出し、郁弥は夏也先輩に引っ張られて、だなんてそれぞれに正当な理由があった結果、運良く取り残されたからに他ならないのだし。
「気をつけた方がいいのかな、すこしくらいは」
「寂しいよ、そんなの。遠野くんは平気なの?」
気まずそうな口ぶりで告げられる言葉を前に、わざとらしく唇を尖らせながら服の袖をぎゅっと引っ張って見せれば、みるみるうちにかすかに潤んでぼうっと熱を灯したまなざしに捕らえられる。
もう。こんなところでしないでよ、そんなかわいい顔。誰かに見られてるかもしれないのに。
身勝手な独占欲に駆られるのを感じながら、ひとまずは名残を惜しむようにと、はらりと握りしめた手を離す。
「それでさ、尚先輩に言われたんだよね。夏也先輩に根回ししておく必要があれば遠慮なく言ってねって」
そういうことだよね、要するに。付け足すようにちいさくささやき声を落とせば、みるみるうちに気まずそうな苦笑いが広がる。
「……なんて答えたの? 鴫野くんは」
緊張を隠せない面持ちを前に、にっこりとやわらかに笑いかけるようにしながら答える。
「考えておきます、って」
言えるわけないよね、お願いしますだなんてこと。口には出さずに飲み込んだ言葉の重みにぐらりと揺らされるのを感じながらそっとまなざしを注げば、わずかばかりの憂いに揺らいでいた遠野くんの瞳に、穏やかな安堵の色が浮かぶ。
ゆくゆくは皆に打ち明けなければいけないことくらいはお互いに重々承知している。だからこそ大切なのは、順序だなんてもの。ご提案はありがたいけれど、『そう』じゃないことくらいは口に出さなくたって百も承知だ。
ひと匙ばかりの安堵と迷い――その両方が綺麗に混ざり合うように溶かされたまなざしがちらりとこちらに向けられる。いつも目にするそれよりもどこか幼くて無防備なそれにどうしようもなく胸を締め付けられるような心地を味わいながら、にっこりと強気に笑いかけるようにしたまま僕は尋ねる。
「ねえそれよりさ、こんど会えるのって次の土曜でよかったっけ?」
「あぁ、そのことなんだけど――」
話題が移り変わったことにホッとしたのか、先ほどまでのどことなくこわばっていた表情はたちまちにパッとやわらぐ。
「火災報知器の点検があるらしくって、14時〜17時の間で多少前後するかもって話なんだよね」
「じゃあ終わってから連絡くれる? 別に僕は大丈夫だからさ」
「うん、ありがとう。よかったら夕飯食べていく?」
「いいの? ありがとう。叔父さんにも言っておくね、遅くなるからって――」
すこしだけ間をおくようにして、ようすを伺うようにじいっとまなざしを注ぐ。きょうこそはもしかしたら、だなんて期待をすこしだけ込めて。
「……鴫野くん、どうかした?」
「ああ、いや」
照れくさそうにくしゃりとやわらかく笑いかけてくれる大好きな表情に、心は穏やかに軋む。
贅沢は言っちゃいけないよね、こんなに幸せな気持ちにさせてもらってるわけだし。ぱちぱち、とゆっくりのまばたきをこぼしたのち、にこやかに笑いかけるようにしながら答える。
「お土産、なにがいいかなあって思って」
「いつもありがとう、わざわざ」
「いいって、そんなの」
笑いながら、言葉にできない思いをそっと飲み込む。
(こっちから言ったほうがいいのかな、泊まっていってもいい? って)
果たしてどこまでなら許されるのか、匙加減の探り合いは中々どうして難しい。
晴れて『恋人同士』になっても尚、僕たちの関係の進展はいたって緩やかなものだった。
たとえば、遠野くんの部屋で隣り合ってソファに座って映画やドラマを観る時には、どちらともなく手を握り合う。
ふたりきりでいる時になら、ちょっとした会話のやり取りに交えて肩や背中にそっと触れたり、「ねえ、あっちだよ」だなんて言って服の袖を引いて誘導したりもする。
帰り際の玄関先ではいつも、遠野くんの方からも髪や肩を撫でたり、腕をさすったり、手を握ったりして束の間のお別れを惜しんでくれる。
ごくごく軽い、恋人同士ならではのじゃれあいじみたスキンシップ――もちろん、その先にもっと特別な『お楽しみ』があることくらいは遠野くんだって承知してくれているだろうけれど、僕たちはいまのところはまだ、その前段階での足踏みが続いたままだ。
もどかしくない――だなんて言えば嘘になる。それでも、いつ何時も、なによりも大切なのはお互いの気持ちであることくらいは百も承知だ。恋人同士になることが、イコール、いつ何時もキスやセックスの行使権が得られるだなんて馬鹿げたことなわけあるはずもないのだし。
あんなにも頑なに心を閉ざしていた遠野くんがこちらを快く迎え入れて、以前では考えられないほどに積極的な態度で接してくれるようになったこと――それだけでもう、おおきなおおきな一歩なのだから。
(ちゃんと相談でもしてみた方がいいのかな。それかいっそ、交換日記あたりから初めてみるとか?)
思いもよらないような懸案事項を抱えながら過ごす時間は、それでも存外楽しかった。望みは限りなく薄いかもしれないけれど、それでも――と、無様な片思いにしがみついていた頃に見えていた景色とはまるで違うものだから。こんな不思議な高揚感、いつ以来だろう。
揺れる車内の中、ドアの前にもたれかかるようにしたまま車窓を流れる景色をぼうっと眺めていれば、向かい側のドアの前で、互いにぴったりと顔を近づけあったまま、ひどく親密なようすで言葉を交わし合う制服姿の男女の姿がふいに目に入る。
堪えようのない熱を潜めたまなざしでじいっと見つめ合いながらくすくすと軽やかな笑い声をあげたり、髪や肩をしきりに撫でたり――時折、唇の前に指を立てて合図を送り合うのに、そんなのすぐに忘れてしまった、とばかりに一際明るくはずんだ声でのおしゃべりがこちらにも届いてくるあたり、ほほえましいとしか言いようがない。
青春だよね、ほんと。ひどく月並みな言い方になってしまうけれど、そうとしか言えないのだから仕方あるまい。
ほんのすこし前までの自分にも当たり前のようにあった光景で――だからこそ、こんなふうに懐かしむような気持ちとひと匙ばかりの羨望のその両方を感じるようになる日が来るだなんて、思いもよらなかった。
いいよね、それでも。あんなかわいいところ、周りにやすやすと見せるわけにはいかないし。
ちいさく息を吐きながら、スマホのアプリに入れた共有のカレンダーの中でちかちか光る予定をぼうっと眺める。
サークルの集まり、練習の日、仲間内で集まる日――綺麗に色分けされた予定の中で、他の誰もしらない、二人だけで会う日の予定は一際輝いて見える。
――『無事に終わりました、特に問題はないって。待たせてごめんね』
――『お疲れ様、あと20分くらいで着くから待っててね』
――『うんありがとう、気をつけてきてね』
待ちに待ったお呼び出しを前に、流行る気持ちを抑えつけるようにしながらすっかり通い慣れた道を歩く。
一段、また一段と踏み締めるように階段を登り、扉の前に立ったところでゆっくりと深く息を吸い込むのはもはや恒例行事だ。さてはて、待ちに待った楽しいおうちデートのはじまりはじまり。
浮かれた気分をきっと隠せてなんていやしないこちらを前に、いつものように、カチャリ、とドアロックを解除する無機質な音が響き渡るのと同時に、日頃目にする姿よりもすこしラフな部屋着姿の家主――遠野くんがそっと顔を覗かせてくれる。
「――鴫野くん、」
こちらの姿を目にした瞬間に、ぱぁっと瞳の奥であたたかな色が瞬く。自分の部屋、だなんてとりわけプライベートな空間に招き入れてくれる時にだけ特別に見せてくれる、いつもよりもどことなく無防備なこの表情がたまらなく好きだった。
「お邪魔します」といつものようにそう言いかけたところで、こちらの言葉を塞ぐように、まるで何の気無しのようすでの言葉が注がれる。
「おかえりなさい。ごめんね待たせちゃって、平気だった?」
「――あぁ、うん」
背後では重い鉄扉が重力に導かれるままに閉じられる音と、これまた耳慣れてしまった、施錠完了の証を知らせる無機質なカチャリというロック音。不審者侵入を防ぐためのセキュリティ動作はこれにて完了、ようこそふたりのお城へ――いやいやそうじゃなくってその、いま。
思わず動揺を隠せないままにぱちぱち、とうんとゆっくりのまばたきをこぼせば、上り框の高さの分だけこちらを見下ろしてくれる遠野くんのまなざしには、気恥ずかしさと戸惑いの両方を溶かし込んだような色がみるみるうちに浮かぶ。
「……ごめんね、鴫野くん。なにかおかしなこと言ってた?」
「遠野くん――、」
不器用に言葉を詰まらせるこちらのぼんやりと滲むまなざしは、言葉よりも如実に物語る力があったのだろう。微かに顔を赤らめながら、ぽつりとぎこちなくも優しい言葉が落とされる。
「……なんだか他人行儀な気がしたから、いつも来てくれるのに。だからその――ごめんね、おかしかったよね。一緒に住んでるわけでもないのに」
「ううん」
きっぱりと首を横に振り、続くはずの言葉を塞ぐように答える。
「ちょっとびっくりしただけだから――うれしくって」
堪えきれずに綻んだ笑顔は、きっと拙い言葉以上にずっと深く、こちらのありのままの驚きと喜びを伝えてくれているはずだ。
ねえ、それって僕にだけだよね?
胸の奥からふつふつと迫り上がってくる愛おしさとひどく子どもじみた独占欲――その両方にぐらりとおぼれてしまいそうになるのを感じながら、かすかに震えた掌をそっと差し伸ばし、くしゃりと髪に触れる。
「ただいま、遠野くん」
「うん、おかえり」
交わし合うまなざしの奥で、ふつふつと穏やかな色が灯る。
安堵とそれと、ほんのすこしばかりの期待――ねえ遠野くん、そうだよね? ちいさく頷いてくれるのをたしかめた後に、そっと前髪をかきあげ、彫刻みたいに滑らかで綺麗な額にそうっと口づけを落とす。
うんとささやかでもどかしすぎるほどの、初めの一歩。それでもこの途方もないいとおしさは、他では味わえることなんてあるはずもない特別なもので。
「しぎ――、」
みるみるうちにじわり、と静かな熱を帯びていく瞳をじいっと見つめながら、やわらかに言葉を落とす。
「好きだよ」
精一杯に強気な顔で笑いかけながら、ゆっくりと指と指とを絡め合う。もどかしくていい、緩やかでいい――だって、こんなにも大切にしたくってたまらないから。
重ね合った掌をぎゅっと引き寄せられるのに誘われるままに、紐を結んだままのスニーカーをらんぼうに引き抜き、手を繋ぎあったまま短い廊下を歩く。
お互いに言葉にしなくたってきっと気持ちはおなじで――でもそれは、言葉にすることを怠っていいだなんて理由にはひとつもならない。
(ねえ、遠野くん)
心の中で、なんども繰り返し同じ言葉を唱える。受け取ってもらえることを、しずかに夢見ながら。
ところで、毎夜ごとに日付が変わるよりも早くお城を後にしていたシンデレラが王子様とふたりで朝を迎えられるようになるのは――あともうすこしだけ、先のお話。