春に似ている「遠野くんって春生まれなんだろうなって思ってたんだよね」
半歩後ろを歩く姿へとそっと視線を向けながら尋ねれば、すこしぎこちなく肩をすくめながらの「あぁ、」だなんてささやかな相槌がこぼれ落ちる。
「よく言われるんだよね」
レンズ越しにやわらかに細められたまなざしの奥で、知ることのない時間の積み重ねがかすかに揺らぐ。
「〝日和〟って、なんとなく春っぽい感じの言葉だもんね。小春日和とか、行楽日和とか」
「天気の良い日に生まれたからとか、そんな感じだったみたいだよ。すごく穏やかな晴れの日で病室にお日様の光が綺麗に差してたみたいで――うろ覚えだけどね、聞いたのだって随分前だし」
「寒い日が続く中でそんなふうだったからさ、余計に印象に残ったんだろうね。心の中にもぱあっとあったかい晴れ間がのぞいた、みたいな」
「そうなのかな……」
照れたように曖昧にちいさくこぼされる言葉やどこか無防備な表情に、どうしようもなく心の奥をくすぐられてしまうのを感じながら、緩やかに言葉を続ける。
「それにしてもさ、日和ってほんとにいい名前だよね。夏也先輩とか郁弥が呼んでるたびに思うもん、いいなぁって」
「僕には不釣り合いだと思うけどね」
「そんなことないよ、全然」
すっかりお馴染みの弱気な言葉を前に、思わず被せるようにきっぱりと答える。
「かわいくて、でもかっこいいしさ。それで、口に出すと柔らかい感じの響きがするでしょ? 何度聞いてもぴったりだなあって思うもん。遠野くんがふわって自然な感じに笑ってくれるとお日様の光が広がったみたいに見えるからさ。あぁ、ほんとに名前の通りだなって思うんだよね」
そっと伺うように視線を投げ掛ければ、うろたえたようなようすのぎこちない笑顔が視界を鮮やかに照らし出す。
ね、そういうところだよ? 喉の奥でだけそっとささやきながら、気づかれないようにちいさく息を吐く。
「〝貴澄〟だってすごく良い名前だと思うよ、これ以上ないくらいにぴったり合ってるし」
「そうかなぁ、ありがとう。でもさ、昔はよくからかわれたんだよ。『キスミーだって、やらしい名前』って。それ言ったの、旭なんだけどさ」
「椎名くんが?」
すこしばかり驚いた様子を前に、ぱちり、と目配せをしながら答える。
「旭らしいでしょ、思ったことなんでも口に出しちゃってデリカシーがないあたり。まあ仕方ないよね、いまよりもずうっと子どもだったんだしさ。でも僕がすぐに『そんなこと知ってて口に出してる旭のほうがやらしいよね』って言ったら真っ赤になっちゃって――でもさ、そこから一気に仲良くなれたみたいなとこはあるんだよね。不思議かもだけどさ」
「遠慮がいらない関係になれたってことなのかもね」
「そうそう、たぶんだけどね」
横目にそっとようすを伺えば、すこし照れた様子の、それでいてどこか誇らしげな表情が目に入る。いつも大人びて見える遠野くんのそんな年相応のやわらかくて無防備なそぶりを見つけるたび、いつしか、秘密の宝物を手に入れたような心地を味わうようになっていただなんてこと、彼はきっと知ることなどないのだろうけれど。
「ほんとうはさ、すごく嫌だったんだよ。お父さんとお母さんがつけてくれた大切な名前なのにそんな言い方しないでって怒っちゃいたいくらいだった。でもさ、これから仲良くなれたらいいのにって思ってる相手にそんなこと言ったって逆効果でしょ?」
「……さすがだね」
やわらかに瞼を細めながらぽつりと落とされる言葉は、心地よい波紋を広げてくれる。
「ね、それってどういう意味?」
「すごいなってことだよ」
「よかった、褒められちゃった」
笑いながら答えれば、すこしばかり困ったような顔が返される。
「僕も小さいころはよくからかわれたから――『ひよりちゃん』なんて女の子みたい、お似合いだねって」
なにも言えなかったから、僕は。遠慮がちにこぼされる言葉の奥に、鈍い痛みが揺らぐ。
「いまよりもずうっとかわいかったってこと? ひどいよね、だからって」
「別に、そんな――」
曖昧な笑顔の奥に、まだ癒えないままのやわらかな痛みを孕んだようないくつものあやうい感情が揺らいで見える。ぎこちなく言葉を探すそぶりを前に、ちいさく頭を振って僕は答える。
「ごめんごめん、もうちょっと言い方があったよね。僕がその時に一緒に居られたらよかったのにな、そしたら遠野くんの代わりに怒ってたのに」
「悪いよ、そんなの――ありがとう、でも」
「どういたしまして」
答えながら、そっと瞼を細めて、ひたひたと胸に迫るような眩しさをやり過ごす。
「でもほんとうに良い名前だよね、日和って。からかうなんて信じられないや、こんなにぴったりなのになぁ」
「そんなこと言ってくれるのは鴫野くんくらいだよ」
「みんな当たり前みたいに思ってるだけじゃない? いちいち言わなくたっていいよねって」
好きだなぁ、僕。独り言めいた響きでぽつりとそう囁きながら、穏やかな冬晴れの空へとそうっと手をかざしてみる。
凍てつくような冷たい風の吹き荒ぶ日々が続く中で、温かな光の差し込む晴れの日に生まれたから〝日和〟
なんてやさしくてぬくもりに満ちた、宝物みたいな名前だろう。どれだけこの世に生を受けたことを大切に思われていたのかだなんてことが、殊更に言葉にしなくたってありありと伝わるのだから。
ねえ、僕も呼んでもいい? 〝日和〟って。
まだ口に出すことなんて出来るはずもない願いを胸の奥でだけぽつりと囁けば、ちくりと鈍い痛みが棘のように刺さる。
「夢って叶うこともあるもんだなぁっていうのをさ、なんかふいにすごく思うんだよね」
「なに、いきなり」
やわらかくふちの滲んだ声が、じわりと耳朶をつたって心の奥までを深く染め上げる。
すこし重たげな瞼、おだやかにくぐもったささやき声、洗いざらしのくしゃくしゃの髪――うんと控えめにボリュームを絞った照明に照らし出されるその姿を前に、思わずぎゅっと瞼を細めながら、ぽつりぽつりと言葉を洩らす。
「ほら、前に話したことがあったでしょ。日和の誕生日のすこし前だったかな。日和って春生まれなんだと思ってたって話」
「あぁ……、」
どこか要領を得ないようすを前に、くすくすと笑いながら僕は答える。
「あの時はさ、困らせちゃうよなあって思って言えなかったんだけど――ずっと僕も呼びたいなって思ってたんだよね、〝日和〟って。すごくいい名前だなぁって思ってたからさ。みんなと一緒にいるようになっても、日和は郁弥以外のことはずうっと名前で呼ばなかったでしょう? 宗介だっていつのまにかみんなと名前で呼び合っててたのにだよ。まあ、仕方ないんだろうなって思った。日和の中にはきっと、簡単に踏み越えさせないでいる線みたいなのがちゃんとあって――その内側にいてもいいって許されてるのは、夏也先輩と郁弥だけなんだろうなって」
「――あぁ、ごめん。……いまさらだよね、でも」
気まずそうに視線を揺らす姿に、ふつふつと堪えようのない愛おしさが募らされる。
「なんで謝るの? 怒ってなんかないよ」
ゆっくりと手を伸ばし、掬うようにそっと髪に触れながら、続く言葉を紡いでいく。
「……そういうところも好きだったんだよ、すごく。いまでもだけどね」
じいっとまなざしを見つめるようにしながらささやき声を落とせば、深い榛色の瞳の奥で、穏やかな光が音も立てずにかすかに揺らぐ。
「だからさ――話の流れでだけど、〝日和〟って口に出して呼べるのがなんだかすごくうれしかった。やっぱり綺麗だな、すごくいい名前でぴったりだなって何度も思ったから。僕もいつか、呼んでもいいようになりたいなって思ってたんだよ。いつのまにか叶っちゃってたけどね」
「そうだったんだ……」
「教えてあげたいなぁ、あの時の僕に。でもさ、あの時はそこまで高望みしてたわけじゃないんだよ? もうちょっとだけ近づけたらいいな、日和って、名前で呼んでも嫌な顔なんてしないでなあに? って言ってもらえるといいなって、そんなふうに思ってただけ。謙虚だよね?」
ぱちり、とまばたきをこぼしながら答えれば、照れ隠しめいたようすのやわらかな笑顔が静かにそれを受け止めてくれる。
「まだそんなに好きじゃなかったってこと? その時は」
いたずらめいた口ぶりで答えながら、長くて綺麗な指がそっと耳の縁をなぞりあげる。しばしば繰り返されるその仕草があまえている時の癖なのをもうとっくに知らされているからこそ、たちまちに膨らんでいく愛おしさはくしゃくしゃに心を掻き回す。
「……そんなことないよ、最初から諦めてたってだけ。片思いだったからさ、日和とちがって」
一途だったんだからね、ほんとうに。
くすくす笑いながら、シーツの波間でそっと足を絡める。
「いまでもずうっと憶えてるんだよ、あの時に日和が言ってくれたこと――貴澄っていい名前だよね。尊くて清らかで濁りがない――すごく思いがこもってて、それですこしも名前負けなんてしてないんだからすごいよねって。すっごく嬉しかったんだよ、ずうっと宝物の箱にしまっておかなくちゃって思ったくらいで。ね、日和も憶えてるでしょ?」
「……どうだろう」
「照れてるんでしょ? わかるからね」
くしゃり、と髪を掻き回しながら洩らされる言葉は、穏やかな熱を微かに帯びている。すこしだけ意地悪な気持ちに駆られるのを感じながら、精一杯の強気な笑顔で僕は答える。
「いまにして思えばさ、かなりストレートに口説いてたよね? なのに日和ってば全然響いてないふうだったからさ。そう簡単じゃないよね、難しいよなぁって思って――」
そういうとこも好きなんだけどね? くすりと笑いかけながらこぼす言葉を前に、ばつが悪そうな曖昧な笑顔が返される。
「そんなことないけど……あんまり鵜呑みにしちゃあいけないよな、とは思ってたよ。誰にだってそうなんだろうなって思ったから」
「そんなに気が多いふうに見えてたの?」
「そうじゃなくて――貴澄は人のいいところを見つけるのが得意だってこと」
ぽつり、とささやくように落とされる言葉は、触れた先から心ごと痺れさせるみたいにあまく香る。
「……ありがとう、すごくうれしい」
答える代わりみたいに、うっとりと瞼を細めたおだやかな笑顔と共に、こちらへと差し伸ばされた掌は寝間着越しの背をさわさわと優しくなぞる。
なめまかしさなんてすこしも感じさせない、仔犬か仔猫がじゃれつくみたいなひどく優しい手つきをつたう安堵感は、まるで、こうして出会うよりもずうっと前の、うんと幼い子どものころに戻ったような掛け値なしのぬくもりを手渡してくれる。
「いまならわかるでしょ? 日和は僕の特別なんだよ、ずうっと前からね」
間近で見つめ合ったまなざしが、ぱちぱち、とうんとゆっくりのまばたきをこぼす。
「……貴澄、」
くすぶった熱を帯びた吐息混じりに名前を呼ばれると、ただそれだけで心の奥底から立ち上る、あまく痺れるような心地に支配されてしまう。
「旭にさ、いまだに言われるんだよね。『俺はいまだに〝椎名くん〟なのに貴澄ばっかずりぃよな』って。ちゃんと言ったけどね。当たり前でしょ? どんだけ苦労したと思ってるのって」
くすくす笑いながら、脈打つ胸にそうっと手を当てる。
「ね、こんどサプライズで〝旭くん〟って呼んであげたらどう? きっと喜ぶと思うんだけどなぁ」
「なんか変なモンでも喰ったのか? って言われて終わりでしょ、きっと」
「ん、言いそう」
答えながら、目を合わせてくすくす笑い合う。
じいっと見つめ合うこと、「ただいま」と「おかえりなさい」をあたりまえみたいに言い合うこと、お互いのぬくもりや心臓の鼓動をずうっと間近で感じあうこと――いくつもの夜を超えたその先で、想像することすらできなかった〝いま〟にこうしてふたりでいる。
「きすみ、」
かすかに熱を帯びた指先が、髪や頬をそっとなぞるように触れる。重たげに揺れる瞼、おだやかにくぐもったささやき声――いつもよりもうんとあやふやであどけないその仕草ひとつひとつに、ひたひたと満たされた心は心地よく揺れる。
「そろそろ落とそっか、明かり」
「……いい、まだ」
ゆるやかに頭を振ってぎゅうっと身を寄せてくる身体をゆっくりと抱き止めて、深く息を呑む。
「もうちょっとこうしてよっか? じゃあ」
答える代わりみたいに、綺麗な形の頭がこくんと揺れる。
明日になればまた、いちばんに名前を呼んで、「おはよう」を伝えられる。
そんなひどくささやかでうんと特別な役割をこうして与えてもらえたことが、こんなにも誇らしくて、嬉しくってたまらない。
「……ありがとう、きすみ」
「うん、」
こっちのせりふでしょ、そんなの。飲み込んだ言葉のあたたかさに酔いしれるようにしながら、ゆっくりと瞼を閉じる。
おやすみなさい。どうか、優しい夢を見られますように。