アイドンライク「そういえばさ、聞いておかなきゃって思ったんだけど……鴫野くんは、なにか食べられないものってあったりする? アレルギーとかがあるなら教えてほしいんだけど」
ことり、とかすかな音を立ててコーヒーカップを置きながら投げかけた問いかけを前に、軽やかにそうっとかぶりを振っての返答が届けられる。
「ああ、うん。別になんでも。アレルギーとかもないし、どうしてもっていうのはないかなぁ。あ、虫とかはさすがにちょっと苦手かも」
「虫は僕もちょっと……」
「そうなんだ、よかったぁ。まぁ好き好きだからさ、とやかく言いたいわけじゃないんだけど」
軽やかに笑いながら、まだうっすらと湯気を立てるコーヒカップにそっと口をつける姿をぼうっと眺める。
「コーヒーも結構好みが分かれるよね。酸味が強いのがいいとか、苦みが強いけどのど越しの軽いのが好きとか」
好きだなぁ、これ。うれしそうに笑いながらこぼされる言葉は、ふわりと軽やかに心を浮き上がらせる。
「近くのお店のなんだけど――今度案内するね、きょうは確か定休日だったと思うから」
「うん、ありがとう」
カップの持ち手にそっと指を絡めながら、続く言葉を紡ぐ。
「ならよかったけど――じゃあ、野菜とかは」
どことなく遠慮がちに投げかけるこちらを前に、にっこりと得意げな笑顔での返答が届けられる。
「強いて言えばだけど、生のパセリがあんまり好きじゃないくらいかなぁ。火が通してあればぜんぜん平気なんだけどさ、パスタとかスープに入れると美味しいよね。あと、うちだと卵焼きにもよく入れるんだよ。そうすると颯斗もたくさん食べるから」
「へぇ」
「細かく刻んでからベーコンとチーズと混ぜて、あとはふつうに焼くだけ。お弁当にもよく入ってたかな。後はケークサレもよく作ってくれたなぁ。朝ご飯によく出てきたんだけど、久しぶりに食べたくなってきちゃった――今度作ってきてもいい? 遠野くんは平気?」
「あぁ、うん。そこまでクセが強くないものなら割と何でも食べられるから。パクチーとか、香りの強いハーブはあんまり得意じゃないくらいで」
〝手間のかかる子どもだと思われたくない〟だなんて一心でなにを出されても無心で食べるようにしていたのは、競技に勤しむための身体作りの点はもちろん、人付き合いの上でも何かと有効なように思えた。
こればっかりは、過不足なくバランス良い食事を与えてくれた両親へ感謝するほかないところだ。
「そっかぁ、だったらあんまり出る機会もないし、そんなに苦労しない感じ? 人によってはアレルギーとかの関係で外で食べられるものがすごく少ないってこともあるもんね」
「まぁ、そんなには。いく――」
するりと口をついて出た言葉を咄嗟に飲み込めば、テーブルの向かい側からは、包み込むようなおだやかな笑顔にそっと迎え入れられる。
「遠野くん、どうかした?」
ぱちぱち、とゆっくりのまばたきとともに告げられる言葉は、ただやわらかに心のひだをなぞる。
「あぁ……ごめん、」
「謝らないでよ、悪いことなんて言ってないでしょ」
嫉妬してほしかったの? それとも。いたずらめいた響きで囁かれる言葉は、痺れるほどにうんとあまくて優しい。
「そういうつもりじゃないけど――なんていうか、」
「ごめんごめん、意地悪言っちゃった」
思わず口ごもるこちらをよそに、くすくす笑い声をあげながら、差し伸ばされた指先はかすめるような優しい手つきでふわりと髪をなぞる。
「もう散々したからさ、慣れっこっていうか……まぁそれは冗談だけどね。だからって、いまさら遠野くんが過ごしてきた時間とか気持ちが全部チャラになるなんてことないでしょう? そういうのも含めて全部好きなんだしさ。だからそういうのだけ、知ってくれたら嬉しいなって」
おだやかに瞼を細めながら告げられる言葉は、綺麗な水や空気のようにひたひと肌身に染み渡る。
「あぁ、うん――ありがとう」
こんな簡単な言葉で足りるのかなんてすこしもわからないけれど、それでも――頼りない思いを込めるように丁寧に言葉を手渡せば、掛け値なしのやさしい笑顔は静かにそれを受け止めてくれる。
「どういたしまして。それで、郁弥はどうだったの? 中学の時はたしか牛乳が苦手だったけど、ほかにも嫌いなものがあったとか?」
「あぁ――それで、」
うながされるままに、ぽつりぽつりと言葉を切り出す。
「郁弥は苦手な野菜が多いから、何かと大変で――すりつぶしたりうんと小さく切ってわからないようにしたら平気になることは多いんだけど、形が残ってると残しちゃうんだよね。ピーマンとかゴーヤは苦いからだめ、トマトとタマネギは火を通せば平気、カリフラワーとかブロッコリーはぶつぶつが気持ち悪いから嫌だって言ってて。ミキサーにかけてスープにすれば平気だから、味自体が嫌ってわけじゃないみたいなんだけどね。大根も青臭いから苦手みたいで」
「あ~、なるほど。辛みとか苦みが強い野菜が苦手なのかな、わかるけどね。まぁ、ハルが食べてるとこでも見れば何でも食べるようになるとは思うんだけど」
「どういう意味、それ」
首を傾げて尋ねるこちらを前に、ぱちり、と得意げなウインクをこぼしながらの言葉が届けられる。
「中学の時さ、郁弥ってばハルのことすっごい意識してて――お弁当のおかずの食べる順番もまねしちゃってさ。嫌いな牛乳だって、ハルが飲んでるからってすごく苦しそうな顔しながら一気飲みしてたんだよ」
「郁弥が……?」
ブラックは胃に悪いから、とコーヒーにほんのひと匙入れるだけでも断固拒否するのに、にわかに信じられない。
驚きを隠せないこちらを前に、得意げな笑みを浮かべながらのおだやかな言葉が続く。
「かわいいでしょ、すっごく。颯斗もそんな感じだったなぁって懐かしくなっちゃうなぁ。幼稚園のころ、人参がどうしてもきらいだったんだけど、好きな戦隊番組のヒーローが人参をよく食べてたから、まねしてるうちにいつの間にか食べられるようになっちゃって」
「あるんだね、そんなこと」
「純粋なんだよね、きっと。いまでもそういうのが全然変わってなくって、なんかちょっと安心したんだけど」
慈しむようにやわらかに瞼を細めながら告げられる言葉の奥には、隔たれてしまった時間の軌跡が静かに滲む。
「まぁそんなこと言ってもさ、僕だってとやかく言えたわけじゃないんだよ?」
おだやかに瞳を伏せるようにしながら、訥々と言葉は続く。
「小学校のころには好き嫌いもうんといっぱいあってさ、あれもやだこれもやだって言ってお父さんとお母さんのこと困らせちゃって。まぁ給食の時なんかはそうも言ってられないんだけどさ、凛と宗介もいたから、お互い食べられないものがあったら交換したりとかして。でもさ、六年生になった時に僕もお兄ちゃんになったから――お兄ちゃんがあれもやだこれもやだってわがまま言ってたらかっこわるいでしょう? だからがんばって苦手なものでも食べるようにしてたら、いつの間にか好き嫌いがなくなっちゃって」
得意げに語られる言葉の奥で、掛け値なしのぬくもりとしか呼べないものがふつふつとおだやかに滲む。
「……懐かしいな、なんか。夏也くんもそんな感じだったから。郁弥が苦手なものを残そうとすると、横から全部食べちゃうんだよね。兄貴がフォローしてやらないでどうするって。その調子だから郁弥の偏食が治らないんじゃないの? って言っても全然気にしてない感じで。本当は苦手なものも沢山あったみたいだけど、我慢してるうちに慣れちゃったみたいで」
いつしか見慣れてしまった光景の裏にうっすらと垣間見える積み重ねられてきた年月を前に、ほんのすこしだけ羨ましくなった、だなんてことは、もちろん当人たちには言えるはずもないのだけれど。
「お兄ちゃんってそういう生き物だからね」
得意げな口ぶりで告げられる言葉に、心はさわりと優しく揺れる。
「まぁでも、世界中あちこち行き来してれば自然と好き嫌いだなんて言ってられなくなるって話もしてたけどね」
「じゃあ郁弥も世界を股に掛けた賞金稼ぎの旅に出れば何でも食べられるようになるかもってこと?」
「栄養不足になる可能性のほうが大きい気はするけどね」
「そうかも」
目を合わせながら、声をひそめてくすくす笑い合う。
生まれ育った環境が違っていれば、当然ながらありとあらゆる生活習慣は異なる。
細やかな暮らしのルール、価値観、優先事項、譲れないこと、好き嫌いのひとつひとつ。時に思いもよらない打ち明け話を交えながら、それらひとつひとつのすり合わせを行っていくのはこんなにもいとおしい。
「こんどさ、よかったら晩ご飯でも食べに来てよ。何か好きなもの作って待ってるから。苦手なものがあれば遠慮なく言ってくれていいからね、無理しないでいいからさ」
「んん~……じゃあ、」
すこしだけ考え込むようなそぶりを見せたのち、明るく答える言葉が続く。
「骨が多い魚はちょっと避けてほしいかな。綺麗に食べられなくってはずかしいし」
「気にしなくたっていいのに」
「僕は気にするんだって」
笑いながら、こつりとぎこちなくコーヒカップをぶつけ合う音を響かせる。
「牛乳は平気なんだよね、だったらシチューにでもする? 鶏のクリーム煮とか、クラムチャウダーとか」
「やったぁ、美味しそう」
嬉しそうに瞼を細めて笑いかけてくれる姿につられるように、こちらの口元も自然にゆるむ。
いつものようなお裾分けは出来なくなるけれど――ふたりだけで分かち合える味があるのも、きっと悪くはないはずだから。
「……ありがとう、すごく嬉しい。楽しみだなぁ」
「うん、こちらこそ」
照れくささ混じりにぽつりとこぼす言葉に、うんと得意げな優しい笑顔が覆い被さる。
笑い合いながら、またこうして、近い未来へと続く道筋をふたりで描いていく。