Let's get it on なんの気もなしに通りがかった公園はひとが少なかった。いつだか来たときはもっとにぎやかだった気がするのに、と考えて、すぐにそれは休日だったからだと気がついた。
今日は週のまんなかで、世間的にはただの平日だ。萩原にとっては特に予定もない非番の日だけど、ひとけのない公園はいつもよりずっと静かで、ずっと広い。ささやかな非日常になんだか子どもに戻ったみたいな気分になって、萩原は羽織ったマウンテンパーカーのポケットに手を突っ込んだまま、園内に足を踏み入れた。
見上げた空はずいぶんと高くなって、視界の端ではちらちらと色づいた葉がさざなみのように揺れる。季節がまたひとつ過ぎていくことをこんなに実感したことがあっただろうか。
あれから、とはいっても実際にはそれほど経っていないかもしれない。慣れない生活にすっかり呑まれているうちに、あの日々がなんだかずいぶんと昔のことに思えるから不思議だ。
数週間前、萩原を含めた五人は無事に警察学校を卒業した。配属先が同じ松田以外の三人とはそれからまだ顔を合わせてはいないけれど、メッセージアプリにときおり流れるスタンプの応酬が、元気だということを教えてくれる。そのほとんどが萩原と松田によるもので、五回に一回くらいが伊達、それよりも少ない頻度で諸伏、忘れた頃に降谷という割合だったけれど、まぁそんなところだろう。
萩原と降谷の関係に、まだ名前はない。
卒業する前の日に、結局ふたりでコンビニに行って、ピザまんと肉まんをひとつずつ。やっぱりどっちも食べたくなった萩原がはんぶんこを提案して、それに降谷が嬉しそうに笑って頷いたから、なんとなくそれでいいかと思ってしまったのだ。ただそれだけだ。
萩原の基準ではとうていデートと呼べるものではない。コンビニまでの行き帰りに当たり障りのない、至極どうでもいい話をして、明日卒業生代表として舞台に立つであろう降谷をひやかした。寂しさみたいなものはたしかにあったけれど、それ以上の気持ちがなにかまではわからなかった。
あんなにまっすぐな告白を受けて、嬉しくないわけがない。たぶん、今までに言われたことのある誰よりも。同性であるかどうかは関係ないはずだ。自分がその対象になるとは考えたこともなかったけど、そもそも萩原にはそういった偏見がなかったので。
それでも、萩原はいまだに降谷個人的へのメッセージを送ることができていない。向こうからもこないのだから、おあいこだと思わなくもないけれど、それはそれであまり愉快とは言い難い。何度かふと思い立って、とりとめのないことを書き連ねてはみたものの、結局送信のアイコンを押すことなくそのまま消してしまった。
どうして?と萩原の脳内で降谷が首を傾げる。いつからか、ふとした瞬間にあの顔がやたらきれいな宇宙人がたびたび思考をジャックしてくるようになった。イマジナリー降谷。まったくもって笑えない。
「どうしてもなにもねぇよな」
ひとりごちた音は、自分で思っているよりも大きくなってしまった。ちらりと走らせた視界のなかに人影はない。ぼんやりと歩いているうちに、ずいぶんと奥のほうに来てしまったようだ。改めてあたりを見回すと見慣れた看板が目に入る。どうやら近頃の都内の公園としては珍しく、園内の一角を喫煙所として開放しているらしかった。おあつらえ向きだなぁと苦笑いして、萩原は申し訳程度に生け垣に囲まれたスペースへと滑り込んだ。
煙草を取り出す際、無意識に残り本数を数えてしまう癖がついていた。あと七本。部屋にストックあったかなぁ、と思いながら先端に火をつける。巻紙の燃える音と、ゆらゆら揺れる紫煙。昔はどうして紫というのか疑問に思っていたけれど、燃え続ける先端から出る煙はよくよくみればわずかに青みがかかっている。
ふ、と吐き出した煙は白かった。こうして長い時間をかけて少しずつ、じわじわと有害物質が萩原の身体に蓄積していくのだろう。それはどこか、いつかの降谷のあの視線にも似ている気がした。知らないフリをしている間に積もり積もったそれから、いつのまにか離れなくなっている。
「どうすっかなぁ……」
「なにが?」
「おわぁっっ!?……っぶね!」
突然後ろからかけられた声に、萩原は指に挟んだ煙草を取り落とした。落ちていく瞬間に火種が手の甲を掠めそうになって、慌てて手を引っ込める。
ぽとん、落ちたまま燃え続ける煙草の先を靴のつま先で消した。普段はこんなことしないのだけれど、としゃがみこんでため息まじりに吸い殻となってしまったそれを拾い上げながら、萩原は背後の人物を呆れ顔で仰いだ。
「……いつからそんな神出鬼没になったの、」
「悪い、そんなに驚くと思わなかったんだ」
「いや驚くだろ。なんで驚かないと思ったんだよ、降谷」
よいしょ、と立ち上がって吸い殻を水の張った灰皿に投げ込む。身体ごと振り返った先には、見慣れない濃紺のスーツと、見慣れていたはずの顔。
目があったかと思えば、ゆるゆると弧を描く瞳にどきりとした。あれ、こいつこんなふうに笑うんだっけ。
「久しぶり、萩」
「……そうでもなくない?」
「そうか?僕からすれば長かったけど」
「はは、なに?そんなに俺に会いたかった?」
なんだか降谷が知らないひとみたいに見えて、でもそれを認めるのも悔しかった。だから萩原は少しばかり大げさに笑ってみせたのに、そんな思惑なんてどこへやら、降谷は今度はにこりと、まるで花が咲くように微笑んだ。
「うん」
「…………あぁ、そう?」
なんだこいつ。こないだまで宇宙人だったくせに、馬鹿真面目に仏頂面で告白してきたくせに。
なんで、そんなに嬉しそうなんだ。
萩原は思わず顔を片手で覆って俯いた。自分の手が冷えていると思ったけど、すぐに違うとわかる。じわじわと冷えた手のひらを侵食する、頬の熱が上がり続けていく。降谷相手にどうにも格好がつかないなんて、いったいどうしたっていうのか。
「あー……つーか、なんで降谷ちゃんがこんなところにいんの」
なにか言わなくては、と思って口をついて出てきたのは、萩原にとって当然の疑問だった。ここはどう考えたって偶然の再会にふさわしい場所ではない。萩原だって、たまたま足が向いたくらいなのに、なんで降谷がここにいるのか。
「偶然、と言いたいところだが……それは秘密だ」
「はぁ、なんだそれ……」
思わず顔を上げれば、したり顔の降谷と視線があった。あ、これはだめだ、と萩原の勘が告げる。顔を隠すために持ち上げた手を降谷にとられる。あの日以来触れたことのない降谷の手は、記憶にあるものとなにも変わらない。
「さっき、大丈夫だったか?」
「え?」
「煙草。落としてたろ」
「あぁ、うん、大丈夫。触ってないし」
「そうか」
よかった、と降谷は安堵したように言ったけれど、そのまま離されることがなかった。萩原よりも少しばかり骨っぽい指が、するりと手の甲の上を滑る感触に、ぞわりと肌が粟立つ。
「……くすぐったいんだけど?」
「ん?あぁ、ごめん」
「っ、だからくすぐったいって……」
「萩」
降谷の声が、ぴん、と糸を張ったような音になった。指先をそっとなぞられて、動かせなくなった萩原の手を繊細な動きで持ち上げられる。その手に力はほとんど込められていない。それでも萩原は振りほどくことができなかった。ただじっと己の指先の行く末をまじまじと眺めていた。
少し背をかがめた降谷が、肩の高さまで持ち上げた萩原の指先にそっと唇を寄せる。
おいうそだろ。まじかよ。やめろばか。
頭では彼の行動を止めるための言葉が溢れかえっているのに、そのどれもが声帯を震わせることはない。呼吸がとまる。心臓の音だけがうるさい。
降谷の伏せたまつげが、陽の光に透けて白く烟っていた。
音もなく落とされた唇から、ささやかな熱。
「好きだ」
いつか聞いたのと同じ台詞。忘れたくても耳に残って離れない、あのときと同じ響き。だけど、これはあまりにも。
「……っはぁぁぁ〜〜も〜〜!!」
「え、なに」
「おまえのアップデートどうなってんの!」
「アップデート??」
きょとん、と首を傾げたさまが脳内での彼と重なって、萩原はもういたたまれなさにめまいがしそうだった。
いったい何がどうしたら、たった数週間でこうなるんだ。警察庁ってそんな恐ろしいところなんだろうか。というか詐欺だ詐欺。
「こないだまであんなにかわいかったのに……」
思ったより恨みがましい音になったそれに、降谷がむ、と唇を曲げた。
「別にかわいくない」
「いーや、かわいかったよ少なくとも今よりはな!」
「……嫌か?」
「う、」
困ったように微笑まれて、萩原は言葉を失った。たった数センチ低い目線から、その大きな瞳で窺うような眼差しを向けられては、もうどうしようもない。
「嫌とかじゃないけど……」
そう。嫌ではないのがいちばん困る。冗談交じりに女の子にしてみせたことはあるけれど、まさか萩原がされる日が来ようとは思ってもみなかったのに。
たった一瞬、触れられただけの感触がまだ残る手を、萩原はそっと引いた。
「……おまえ、ほんと俺のこと好きなんだな」
「知らなかったとは言わせないが」
「や、そうなんだけどさぁ」
萩原は目線を降谷から外した。意味もなく動かしたスニーカーのつま先で、小さな石を転がす。
「……何も、なかったじゃん」
降谷に次に会ったら、何を言おうか。萩原だってさんざん考えたのだ。考えて考えて、でも何も浮かばなくて。期待なんてしていないはずのメッセージアプリを無闇に開いては、沈黙したままの履歴に、そのうちにもう忘れてしまおうかと思っていたのだ。
閉鎖的な空間から外の世界に出れば、嫌でも人との関わりが増える。おそらく今までは意識的に避けていたであろう降谷だってそれは同じで。あの言葉を疑うわけではなかったけれど、一時の気の迷いだって、今ならまだ笑って許してやれると、そう言えればよかったのに。
「もしかして、寂しいと思ってくれた?」
降谷の瞳がきゅう、と細くなる。きらきらとまっすぐに萩原を見つめるそれは、憎たらしいくらい何も変わらない。またこうやって、萩原の脳内にどっかりと陣取っていくのだ。
「……さぁね」
誤魔化すためにほんの少し棘のある声色を含ませれば、降谷が口の端で笑った。まったくもって、少し見ない間にずいぶんと人間らしくなってしまったらしい。脳内でイマジナリー降谷が得意げな顔をするのに、萩原はべぇ、と舌を出した。
「あーぁ、俺もまだまだだな〜」
「僕はそのままの萩が好きだけど」
「そりゃどーも」
わざとらしくため息をつくのに、降谷が涼しい顔で言うものだから、萩原はつま先で踏んだままの小石を少しばかり遠くに蹴った。やつあたりしてごめんな、と生け垣の下に入り込んだそれに心の中で手を合わせる。
「……さてと、いつまでも野郎ふたりで立ち話ってのもあれだし、どっか行く?あれ、つーか零も非番?だよな?」
「あぁ、ようやく休みがとれたんだ」
「え、じゃなんでスーツなの」
「……他に、何着ればいいのかわからなかった」
「あっははは!なにそれすげぇ零っぽい!」
「悪かったな……!」
見慣れた仏頂面に戻りつつも、降谷は萩原が笑ったことにやや安堵したようだった。不器用に歪んだ口元に、萩原はふっと胸の中でなにかが溶けたのを感じる。
「零だともっとあれだなぁ、グレーとかのほうが似合いそう」
「そうか?」
「うん、濃いのじゃなくて、明るめのやつ」
「……そうか。参考にするよ」
「そうそ。お兄さんの見立てに間違いないって……あ、ついでにひとつ教えてやるよ」
「?」
萩原は降谷の真新しいスーツの袖口を指先で引いた。それほど強い力ではないけれど、降谷は逆らわずに萩原のほうへと身を寄せる。それにふ、と笑みを零して、大きな瞳を不思議そうに瞬かせる降谷に向けてぱちり、と片目をつぶった。
「キスならこれくらいはしてもらわないとな?」
「は、」
初めて触れた唇が面白いくらいに震えたのを、萩原は一生からかってやろうと決めた。