杜松実の自白薬を添えて 真夜中のホテル・レバリーは乾いていた。先程抜けたばかりの廊下を振り返ると、そこは控えめな照明が淡く光を放つのみ、静まり返った空気に満ち満ちている。完成された空気だ。時計なんて見なくても一歩足を踏み入れれば肌で時刻を感じられる。夜中にふと起きてしまって、水を飲むためだけに部屋を出る、あの感覚。
穹はそれほど暗闇が好きではない。どちらかというと賑やかな場所が好きだ。けれどもラウンジは眩いばかりで空虚である。そもそも夢境を売りにしているのだから、(ロビーを除いて)現実のレバリーに留まる旅行者は元よりそれ程多くはない。だというのに昼夜問わずラウンジだけは光量を保ち、いかにも暇そうにグラスを磨くバーテンダーをこれでもかと照らし出している。ただ、それだけだ。絢爛さに反してあまりにも寂しい空間だった。階段脇のステージ上のグランドピアノは沈黙を貫いている。それと遊んでいたあのピアニストは、今はもう夢の中だろうか。
大抵の人間が夢境に意識を遊ばせる中、そうではない人間はどうしても目を惹く。バーテンダーが穹に気付いて背筋を伸ばしたように、穹も、弧を描くソファに座して読書に耽る石膏頭に気が付くや意識をそちらへ奪われてしまった。宇宙ステーションで目覚めてこの方、開拓の旅は波乱続きだ。これらの経験はどれ一つとっても良い値段が付くだろう。こういった冒険譚は枚挙に暇がないが、あの石膏頭との初対面はなかなか強烈なものだった。それこそ、オムニックを見かけるたびこの男の存在を思い出させるほどに。(今でこそ、オムニックの機械仕掛けの身体と造り物の石膏頭はただその造詣が似ているというだけで何一つ関連性が無いことは穹も理解しているのだが、無知ゆえの純粋さというべきか、無機質な輪郭に共通点を見出してしまうのだった)
「何読んでるんだ?」
二つ程席を開けた場所に腰かけ、穹は無遠慮に問う。問うてから、はっとして居住まいを正した。穹の想像通り、石膏は僅かに顔の角度を変えて、その内側から深々と溜息が漏れ出る。
博士が目の敵にしている病が、今まさに己の内側で自我を乗っ取ってはいやしなかったか。寝ぼけた頭を揺り起こすべく、博士が口を開く前に、穹は「ストップ」と掌を立てて大袈裟な身振りで返答を制する。眉間に皺を寄せ、彼について知り得ることを一から振り返った。専門、習慣、これらは既に博士の口から直接穹に伝えられた、調べれば出てくるようなプロフィールではあるが、ここから推理できる要素はないものか。うんうん唸って考え込むも、突き刺さる視線が段々と重苦しく感じられ、その粘着性に耐えきれずとうとう音をあげた。観念して面を上げる――と同時に、穹は目を瞠った。あの無感情な石膏頭が、柔らかなソファの上で晒し首にされているではないか!
「レイシオ先生、こんな無残な姿になって……」
「軽口を叩く余裕はあるらしいな。挨拶の一つも無く僕のプライベートに横入した挙句、早合点して考え事に耽る。君には学問よりも先に修めるべきものがあるんじゃないか?」
露わになった鋭い視線に責められては、申し開きの文句を考えるよりも先に身体が反応するもので、穹は首を竦ませ、両手を膝の上に置いて俯いた。なんというか、己は「叱られる」ことに弱いのだと、強く実感する。教え導く存在には無条件に尻尾を振って従わなければ――とまではいかないが、つまり、普段は好き勝手に振る舞う癖して頼れる大人には従順でいようとする意識が働くのである。これは姫子やヴェルトの顔を思い出すからだろうか? それとも忘れ去られた記憶の中で、穹はもしかすると従順な猟犬をやっていたのだろうか? 答えを追及するには、目が冴え過ぎていた。
「ごめん。挨拶とか、『元気だった?』みたいな、そういうの。あんまり好きじゃないと思って」
「……。君の回答にはプロセスが欠けている」
「よくカンパニーのやり方に文句言ってるじゃん。さっさと本題に入れって」
「形骸化したやり取りは静的だ」
博士は一度そこで言葉を切った。長らくテーブルで放っておかれていたグラスに手を伸ばし、それを傾ける。
「台本通りに台詞を読み上げるような、儀式的なやり取りになんの意味がある。仮に石膏頭を石膏像にすり替えたところで、カンパニーの連中の大半はその事実に気付いていながら、台本を読み上げることに注力するだろうな」
クリスタルグラスは用済みとなり、逆三角形の空洞がぽっかりと開く。
やたら口数が多いのも納得がいった。
酒精は彼の頬を染めることはなかったが、恐らくそこそこに飲んだのだろうことが知れた。でなければこれほど冗長に物事を言って聞かせることはないからだ。博士が一を説くと、愚者は辛うじて一を知り、賢者は五から八程度(曖昧である理由として、穹は間違いなくここに分類されないが為、想像でものを語る他ないからである)、そして天才は十越えて百を解する。つまるところ普段の授業はこれほど懇切丁寧ではないということ。だいたい言って聞かせて、こちらは熱が出るほど考えさせられるのである。
「友との再会の場に定型文など存在しない」
その言葉に今度こそ穹は目を丸くした。
「俺とレイシオが友達だって? 先生、今そう言ったよ」
途端にレイシオは口を堅く引き結んで不機嫌そうに目を細めた。或いは、不機嫌を演出したのだった。
「君はバカのつく教え子だ。アホ、マヌケの三冠を達成したくなければ、脊髄で反応する癖を改めろ」
「じゃあ俺がその三冠王になったら友達じゃなくなる?」
「それは僕への挑戦状か? でなければ愚かな確認行為だ。もしその日が来たとしたら、僕はDrではなくただのベリタス・レイシオを名乗ることになるだろう」
「本気か? アンタ相当酔ってるだろ……」
このままやたら失言の多い博士を観察しているのも悪くはないが、穹の良心が少なからず咎めたし、何より酔っ払いの相手ほど面倒くさいものはない。早々に切り上げるべく立ち上がると、レイシオの視線がつられて持ち上がった。他者からの無遠慮な評価を厭うあまりに石膏を被る癖して、彼は自分の話の最中は決して相手から視線を外さない。「アンタ、もう部屋に帰りなよ」。教科書に載せてやりたいぐらいお手本通りの道徳的な台詞だ。博士は考え込んだ。と言っても僅かな間だ。その数秒のうちに彼の頭の中で巡る思考を一掬いし、夢の泡の中へ一滴垂らすだけで、恐ろしい桁の値札が付けられるのだろう。勿論、欲望と夢の坩堝にあっても博士がわざわざそんな真似をするとは思えない。彼は依然として郷に染まることなく振る舞い続けている。だが、同時に、自分の台詞一つに思考を割いている。この感覚は何だろうか。穹の親切にどう答えを返すのだろう。この場に残るのなら彼の失言を胸の内に仕舞ったっていい。休息を選ぶなら部屋の前まで送ってやってもいいとすら思う。無論、今晩の博士の失態(とも言えぬ可愛らしい失敗)を誰かに言いふらすつもりもない。唐突に人間愛に目覚めてしまったのか、今この瞬間は、この男に優しくしてやりたいと心底そう思ったのである。
博士は答えを出したのか、石膏像を被り直して立ち上がった。部屋番号を問うと、意外にも素直な返答を受け取る。穹はそわそわとした感覚を持て余していた。
「酔っても記憶飛ばないタイプ? 俺は時々飛ぶ」
踵を返し、ゆっくりとラウンジの階段を登っていく。酔っ払いの足取りは確かで危なげない。
「自己の限界を見誤る理由の大半は、薄っぺらい見栄か、破滅願望に突き動かされた結果に過ぎない」
「ふーん。じゃあ明日、こっ恥ずかしいこと言っちゃったって、ベッドの上で悶えて苦しむアンタが居るかもしれないってことだ」
「恥とは主観的なものだ」
穹は足を止めた。エレベーターが来るまでの、ほんの少しの間だった。
「それには同意する」
エレベーターラウンジの淡い灯りの下で、穹は観念するようにはにかんだ。
音を立てて開く箱の壁面に嵌めこまれた鏡に、二人の姿が映る。穹は自分の顔を覆い隠すようにそれに背を向け、レイシオを引き込んだ。鏡に映った自分の方が余程酔っ払いのような顔色をしていた。「主観――主観かあ」。なんだか感激にも感動にも似た独白が、頭の中をぼんやりと支配する。隣の石膏頭からはもう何も読み取れない。ちょっとそれ、もう一回外してみてよ。結果は分かっていたがそう口にせずにはいられない。これは病の発作か? それとも親愛のあらわれなのか?