不器用な君だから「遅い」
「っう……」
「ほらほら、どんどん仕掛けてきなよ」
じりじりと照り付ける日差しの下、五条との組手は激しさを増していた。術式は使わず、呪力も制限された中での手合わせは、分が悪いとは言えやりがいがある。己の未熟さを実感できる上に、見えてくる課題。重たい蹴りをかろうじて防ぎながら、額に滲む汗を拭う。
寒い冬が終わり、色鮮やかな春も後半。桃色の絨毯が出来ていたのは一ヶ月前、鯉のぼりが泳いでいたのはつい最近のことだ。四季の移り変わりなんてものは、十歳の時から止まっている。今まで目に映るものすべてがモノクロだった。それが呪術高専に来てからと言うもの、少しずつながらも彩を取り戻してきた世界。諦めて、捨てたものが多かったのかもしれない。
五条が手を差し伸ばしてくれたからこその未来。選んだのは乙骨だが、背中を押してくれたのはあの子だろう。絶望に打ちひしがれ、罪悪感に苛まれそうになっていたところを救い上げてくれた。『幸せだった』と言い遺し、消えてしまった愛しい人。彼女の願いを蔑ろにしない為にも、もっと強くならなければいけないのだ。
バチッと鈍い音が響き、砂埃が舞う。経験値と実力の差は歴然ながらも、やれる限りの戦法で食いついていく。脇腹に向けて右足を薙げば、あっさりと受け止められ舌を打ち掛けた。そのせいで隙が出来たのは乙骨の方で、口角を引き上げた五条の拳がすかさず飛んでくる。呪力を纏わせてやり過ごしても、内臓が揺さぶられるような感覚。たった一発だろうと、下手をすれば致命傷になる。
「容赦、ないですね」
「そりゃあ、憂太に手加減なんて不要でしょ」
「僕を何だと思ってるんですか」
「特級呪術師。最強に次ぐ異能。僕が手塩にかけて育てた最高の逸材。僕の秘蔵っ子」
不満のつもりで告げたはずが、五条から返って来たのは予想外の言葉だ。片手はポケットに突っこんだまま、指折り告げられていく評価。他人からどんな風に見られているのかなんて興味がなかったせいで、唖然としていれば「そして僕のモノ」と締め括られる。遅れてその意味を理解した途端、恥ずかしさが込み上げてきた。
一度は四級へと降格されたものの、そこから特級へと返り咲いてもうじき半年が経つ。五条からすれば乙骨はまだ、赤子も同然のはずだ。弱い相手には痛烈に現実を突きつける人。子供であろうと厳しさは変わらず、お世辞など言えるタイプではない。ゆえにあの発言は全部、まごうことなき真実となる。けれど呆然としていられたのも束の間、殺気を放ちながら距離を詰められたことで身を引く。
「ちょっ……え、は、え?」
「まだ訓練中でしょ? 隙だらけだよ」
「っ、少しは待ってくれてもよくないですか」
「やだね。憂太は甘いなぁ」
慌てふためいていることなどお構いなし、五条の攻撃は止まらない。グルグルと考えは巡り、おざなりになる攻守。頭がボーっとするのは、集中力が散漫になっているせいか。長い脚を腕でガードするも、勢いを殺し切れず後退。体勢を立て直そうとすれば、ぐにゃりと視界が歪む。
あれ――と、異変を感じた時には遅かった。忙しなくなる呼吸に、ドクドクと早鳴る鼓動。チカチカと目の前に火花が散り、全身の血の気が引いていく。膝を付いて項垂れたまま、四肢は動かない。何となく思い当たる症状はあるが、失敗したと後悔するのは今更か。崩れ落ちたはずなのに、いつまで経っても来ないざらつく地面の衝撃。五条の呼びかける声には返事も出来ず、「クソッ」と吐かれた悪態を頭の片隅で聞きながら目を閉じた。
冷たい水風船が、服を濡らす。暑さを凌ぐように、笑いあって遊んだ過去。これは乙骨にとって、数少ない幼い時の幸せな思い出だ。肺炎を拗らせて入院したのが始まり、里香との出会いは運命だったのかもしれない。一緒にいた時間は決して長くはないが、彼女の遺志は現在も共にある。
その証でもある指輪が、胸元で温かさを持った。ここが夢だからこそ、見兼ねて来てくれたのか。瞼の上に置かれた小さな手に息を呑む。
『無理しちゃダメだよ』
「心配かけてごめん」
『憂太が謝るのは、私じゃないでしょ?』
「あー……怒られる、かな」
『どうだろ? でもあの人、私と同じくらい憂太のことが大好きだから』
意味深な言葉を残したまま、用が済んだとばかりに遠退く気配。クスクスと意地悪っ子のような笑い声が、意識を浮上させてくれる。さて、これからどうしたものか。うっかり、が通じる相手ではない。言い訳を悶々と思案していれば、ふと唇に触れた柔らかな感触。覚醒する間近、妙な苦しさを覚えながらもゆっくりと目を開けた。
眉目秀麗と言わざるを得ない顔が、視界いっぱいに広がっている。キラキラと輝く青い瞳に、見惚れえしまうのも無理はない。が、それどころではないのが実状だろう。起きたばかりで思考は止まったまま、急な出来事に対応できずパニック状態。戸惑っていれば頭を撫でられ、少しずつながらも口の中へと流し込まれていた水を嚥下していく。
家入を呼ぶ必要まではないと判断したのか。気を失っている相手に対して、大胆なことをするものだ。生理的に溢れた涙を親指で拭われ、やっとのことで飲み干した最後の一滴。呼吸が整うまで、優しい手付きで背中が擦られる。
「ぼ、く……」
「倒れたんだよ。覚えてる?」
「なんと、なく。すみませんでした」
「びっくりしたんだからね。見た感じ、軽い熱中症かな」
日陰にいることもあって、直接日光が当たることはない。倒れたのはグランドのど真ん中、そこからわざわざ運んでくれたのだろう。肌を掠める風の心地良さに、ほうと息を吐く。五月だと言うのに、真夏を思わせるような気温。炎天下で激しい運動をするなど、具合が悪くなってもおかしくはないか。久しぶりに稽古をつけてもらえるからと、いつも以上に気合が入っていたのも否めない。
未だ起き上がれそうにはなくて、五条に身を委ねていれば、自分の置かれている状況に気付く。頭は左腕の中、身体は足の上にあって、膝枕と言うよりは抱き込まれているのか。それなりに身長は高い方だが、綺麗に収まっているような気がする。
認識してしまえばさっきのこともあって、一気に羞恥心が襲ってきた。狼狽えそうになるのをグッと堪えながら、恐る恐る見上げた先、澄んだ青空のような双眸と視線が交じり合う。
「先生、あの……その辺に転がしてもらっても大丈夫、ですよ?」
「いやいや。可愛い生徒をそんな無体に扱えないでしょ」
「重くないですか?」
「憂太は軽すぎ。もっとちゃんと食べなさい。それとも僕に膝枕されるのは嫌?」
「そう、ではなくて……あの、恥ずかしいと言いますか……ドキドキしちゃう、から」
ほんのりと頬に熱が集まっていく。間違ったことは言っておらず、ただ本心を伝えたまでだ。五条が呆けたのは一瞬、天を仰ぎながら額に手を当て「ククク」と喉が鳴らされる。それから「そっか、そっか」と一人納得して、愛おしそうに細められた瞳。訳が分からず瞬きを繰り返した直後、自分の発言がぶっ飛んでいたことを理解した。
肩身が狭くなり、逃げ出したくなる衝動。まるで告白でもしているみたいじゃないか。五条に対する自分の気持ちが、あの一言に現れているのだとしたらと思うと急に胸が締め付けられる。好きな人に抱くような感情を、乙骨は誰よりもわかっているつもりだ。だからこそ困ってしまう。オロオロしていれば、「落ち着きな」と子供をあやすように叩かれた腹部。次いでニィと唇が弧を描く。
「じゃあ、しばらくこのままね」
「えぇ!」
「嫌じゃないんでしょ? 動けないんだから、言うことを聞きなさい。それに僕がこうしてたいの」
有無を言わさぬ物言いと、思わぬ五条の本音に口を噤む。捉え所のない人だからこそ、周りからは一線置かれがちだ。ましてや現代最強と言われる呪術師である。由緒ある家に生まれたからこそ、普通とは掛け離れた生活をしていたのだろう。
その苦労や苦難は、乙骨にも想像できない。同情や共感なんて求めるようなタイプでもなく、周りとの繋がりを作ろうとしているように見えて切り離す変わり者。そんな五条の意外な一面に、身を任せたくなった。
「先生は優しいんですね」
「僕はいつも優しいと思うけど?」
「そうじゃなくて……適当そうに見えて、他人のことを考えているってことです」
「それ、褒めてる? 貶してる?」
怪訝そうな眼差しを向けられ、自然と目尻が下がる。肯定も否定もしない。正しいのが半分、もう半分は乙骨の独断と偏見だ。他の人に話せばきっと、大半が首を横に振るだろう。同じ場所に立ったからこそ見える景色は、自分だけが知っていればいい、なんて。
「先生」
「ん?」
「実は夢で里香ちゃんに会ったんです。無理しちゃダメだと怒られちゃいました」
「出来た彼女だねぇ。憂太、体温調節下手くそでしょ?」
「そう、なのかな?」
「長い間、引き篭もってたせいもあるんじゃない? もうちょっと体力付けようね」
不機嫌になったかと思えば、額に突き立てられた人差し指。里香の話が気に食わなかったのか。こうも露骨に反応されると、推測が確信に変わってしまう。ともあれ五条の指摘には、ぐうの音も出なかった。
自分の事なのに、曖昧にしか答えられない。自信がないわけではないが、臆病なのは確かだ。他人を優先するのは癖で、反転術式が使えるからと、怪我も恐れず突っ込んでいくことには何度も苦言を呈された。
身体を張ってしまうのは犯した過ちに対して、罪滅ぼしをしている気にでもなっているのか。相変わらず喜怒哀楽の表現は乏しいが、友人たちに感化されて前を向くことは出来るようになったと思う。もっとも体力や食事に関しては別だが。
「あと、謝るのは私にじゃないって」
「そりゃあ、そうだねぇ」
「もう一つ。先生が里香ちゃんと同じくらい、僕のことが大好きだとも言ってました」
それを聞いた五条は目を見開き、「マジか」と独り言つ。本当は教えるべきかどうか迷ったが、黙っておくのは難しそうだった。ちょっとしたきっかけで、口を滑らせてしまうなんてこともある。葉が擦れる音に、靡く銀糸。「やられたなぁ」と言いながら、雰囲気が和らいだ。
「里香は鋭いねぇ。憂太の何倍も」
「あの、それって……」
顔に影が出来る。触れるだけの口付けに言葉は出ない。噛み合わなかったパズルのピースが、嵌まった時のような満足感。放心していれば、むにっと鼻が摘ままれる。
「里香と同じくらいって言うのはちょっと違う。僕は里香に負けないくらい、憂太が大好きだからね。やっと僕を見てくれた。覚悟してよ? 逃がしてなんてやらないから」
「僕の気持ちは無視ですか?」
「憂太の気持ちを聞けるなら本望だけど?」
「そ、それは……」
「ゆっくりでいいよ。焦らなくたって、僕はいつまでも待つからさ。心の整理が出来たら教えてよ」
頭を撫でられ、胸の内が温かくなっていく。自覚したからなのか、見えなかったものまで見えてしまった。乙骨の前で五条が術式を解く理由。気まぐれかと思っていたが、見当外れもいいところか。信頼されているのだろう。触れたい、触られたい、と思われているのだ。
その事実にどうしようもなく愛しくなって、腰あたりの服を握り締めた。唯我独尊の男にしては可愛らしい。こうやってどんどん、五条の元に落ちていくのか。
「先生。今日はありがとうございました」
「どーいたしました。もう少し寝ちゃいな。部屋まで運んであげるから」
「やっぱり先生は優しいですね」
「憂太限定だよ」
そう言って微笑むのは最強ではなく、一人の人間としての五条悟だ。目元に置かれたほんのりと冷たい手に、そっと自分の手を重ねる。