(Web再録版)骸を食んで生きている サンプル 厚いマットレスがたわんで、二人分の身体が沈み込む。自分好みに清潔なシーツに、押さえつけられた両手首が擦れて、「ああ、再三うるさく言ったから、きちんと気を配ってくれているんだな」などと、浅い思考を彷徨わせた。
そぞろな様子が気に障ったのか、白銀色の前髪が額に覆いかぶさって視線を寄越せと主張する。瞳を正面に戻すと、深く刻まれた眉間の皺が目に入った。
「手、離して」
願いは聞き入れられず、さらに強く握りしめられる。低く軋んで、唸る音。
機械の腕が、素材に反して生々しい有機的な感情を伴っている心地がするのは何故だろう。感覚の鈍い手首の皮膚が、勘違いをしているのだろうか。
どうせなら手を握ってほしい。もっと繊細に、鋭敏にこの気持ちを拾い上げられたなら、きっと上手に話ができるのに。
両腕の自由は諦めて、縫い止められたシーツから背を浮かせようと試みれば、体全体を押さえ込む力が一層強まった。
「ねえ」
痛いよ、という言葉は唇から出ることも叶わず、煽られた身体の底にぐずぐずと溶けて消えた。
*
連ねられた文字の一節が、埋もれた記憶を掘り起こしていく。
浮奇は二・三度まばたきをして本を閉じた。ここじゃ落ち着かないな。店で読むのはここまでにして会計に持っていこう。文庫サイズよりも少し大きい、薄い本。
読書という趣味を手に入れてから、「本を読むこと」をコンセプトにしたカフェの存在を知った。大通りから少し外れた地代の安い場所で細々と経営されているそれらの店は、来客数より常連数、趣味の合う少数の客に通ってもらうべく各々趣向を凝らしている。
もともとのカフェ好きも相まって、そういったブックカフェはお気に入りスポットになりつつあった。新しい店を見つけては、さてここは自分の好みに合うだろうかとわくわくしながら巡るのは単純に楽しい。
この店は大当たりだったな。
趣向を凝らしたコーヒーと、実益よりも趣味を優先した繊細なカップ。インテリアも自分好みで、手作りのブランデーケーキも口に合った。人の気配のない場所でじっくり楽しみたい本を見つけなければ、もっと長居していただろう。
洒落た店の雰囲気が好きだ。
しかし浮奇にとって、最大の魅力は古書である。
古書を扱う店で、店内の本を自由に読めるカフェスタイルは珍しい。古書はものによっては扱いに注意がいる。雰囲気につられて入ったカフェで、欲しい本を見つけられたのは僥倖、類まれなる大収穫と言っていいだろう。きっと店主の趣味が浮奇に合っている。今後も欲しいものが入ってくる可能性もあるかもしれないと期待を膨らませて、いやいや、と打ち消した。今日は運が良かっただけだ。過剰な期待は猫をも殺す。
ともかく、ここにはまた来よう。目当ての本がなくとものんびり過ごすのによさそうだ。
「え? 浮奇?」
レジ前で話しかけてきた男の顔を見て、浮奇は記憶を辿った。ええと、確か、一週間くらい前にバーで会ったかな。
最低限の会話しかしないのがマナーの店を慮って、二人黙って店を出る。シャツから浮き出る肩から腕のラインがセクシーな男は、弾んだ声で会話を続けた。
「君にこういう店で会うなんて思わなかったなあ! 本が好きだなんて言っていたっけ? 音楽や映画の話はたくさんしたよな。あ、本を買ったんだな。何を買ったか聞いてもいいか?」
質問をしながら自分の好きな作家の名前を挙げて、「割と何でも読むよ」と意気込む男は子犬のようで愛らしい。くすくす笑いながら購入した本の作者の名を伝えると、男は気まずげな顔をした。
「知らない作家だな……。古い文豪の名前なら、ちょっとは自信があったんだけど。普段読まないジャンルなのか、もしくはかなりマイナーな作家なのかな。もしかして、浮奇は相当な読書家なのか?」
浮奇は苦笑して首を横に振った。
男はそれを謙遜ととらえたらしい。彼の中で浮奇はすでに読書家仲間になってしまったようで、そこから滔々と本の話が続く。相槌だけで話が広がっていき、浮奇は細かく訂正する機会を見失った。
そのまま歩くうちに行き先が分かれ、「またね」と快活に笑う男はなかなかチャーミングだ。背中の筋肉も良い形してる。浮奇はふぅと息をついた。
勢いに負けて連絡先を貰っちゃったな。まあ、別にいいか。
一人で暮らす住処に戻り灯りをつけると、小さな本棚に飾られた水晶やら、ぬいぐるみやらが迎えてくれた。ブック型のデザインボックスはあれど、「本」と呼べるものは雑誌しかない。
やっぱり誤解を解いておいた方が良かったかも知れない。
独りごちて、デスク横のサイドテーブルに買ってきた本を置いた。シャワーを浴びてお茶を淹れたら、ゆっくり読書の時間と洒落込もう。
(ふーふーちゃんも、新しい本を買ってきたときはこんな気持ちで過ごしてたのかなぁ)
本を買ってきた日に淹れる紅茶は、カフェインレスの特別製のものと決めている。色々な店で試したけれど、これが一番、彼が飲んでいたものに近い味がした。
本を読む時間は、彼と過ごす大切な時間だ。
未来から過去へ。事情も状況も、存在する時間軸すら異なる人間たちが一つの時間に集まるという奇妙な現象は、同じくらい唐突に本来の居場所への帰還を強いた。当然のように過去で出会った仲間の姿はなく、必然それは最愛の人との別れを意味していた。
この時間をどれだけ進んでも、彼のいる未来と交わることはない。世界中どれだけの距離を彷徨っても、彼と出会うことは永遠に叶わない。時空さえも飛び越える力で移動してみても、いくつも重なり枝分かれして広がる時間の中で唯一を探すのは、世界中の海の底で一粒の砂金を選り分けるようなものだった。
かつて不遇であった場所で一人になっても、浮奇はもう何もできない子供ではない。
仕事の探し方も、金の稼ぎ方も、人との縁の繋ぎ方も知っている。自分の手足を自由に使って、好きなところで好きに生きていける、強かな大人に成長していた。自らに宿った稀有な力は灯台のように希望を示し続け、唐突な不幸による絶望を退けてくれた。
浮奇は絶望しなかったが、彼の不在と再会の困難さに途方に暮れてはいた。
それでも案外平気なものだなと日々を過ごしていた。職を手に入れ、住処を得て、食事を作り、娯楽を見つけ。割と自分は薄情に出来ているらしいと、自己評価を改めたりもした。なんとはなしにふらりと立ち寄った店で、表紙の黄ばんだ薄い本を手に取るまでは。
『Fulgur Ovid』
あの多種多様な不思議の種族の住み着く過去は、確かにこの未来につながるらしい。その証拠に、彼の、彼自身の趣味と楽しみのために書かれた小説が残っていた。
「……」
古く日焼けした紙に増えていくまだら模様を不思議な心地で眺めていた。
文字がにじむ。視界が揺れている。これは自分の涙だ。
「ふ、ふ、ちゃん……」
そうか、自分は彼を探していたのか。
喪失がかぱりと口を開けた。
(サンプルはここまで)