「……水心子?」
「ああ、すまない。空を見ていた」
清麿と水心子がまだ政府に所属していた頃、とある古い時代での任務で奇妙な場所を訪れたことがあった。
その世界には人間も動物も存在せず、時間遡行軍を一掃してしまえば残るものが何もない、ただ静かな夜のこと。
任務の後処理をしながら水心子が立ち止まっていたので清麿が声をかけてみると、その瞳に満天の星空を映したまま意外な答えが返ってきた。
「空?」
「ここは星がよく見えるなと思って」
「ああ、本当だ。すごいね」
地上の灯りが星の光を遮ることのない暗い世界だからこそ見られる景色は、異様なものではあったが思わず目を惹かれてしまうくらいには美しい。天文学にそこまで興味が深いわけではない清麿でもそう思ったのだが、水心子の方は何やら難しい顔をしている。
「星、好きなの?」
「……どうだろう。自分でもよく分からない」
清麿の問いに、水心子は暫し悩んだ後に真面目な顔で呟いた。
「ただ、綺麗だとは思う」
清麿からすると、それは好きってことじゃないのかなとも思ったが、水心子が自分の中でまだ咀嚼できていないようだったから、余計なことは言わないでおいた。
そんな話をしたことが印象に残っていたからなのか、清麿がこの本丸に正式配属となってから真っ先に思ったのは、ここは随分と星がよく見えるということだった。
古い時代に飛んだ時ほどではないにしても、政府にいた頃に見上げていた夜空と比べてみると、見える数が全く違う。
今ならきっと綺麗なものだと喜んでくれそうな気がして、いつか水心子と見に行けたらいいなと、ぼんやりそんなことを考えた。
*
「うわ…………すごい」
「ここ、山奥で明かりがないからこの辺りでも特によく見えるんだって」
眼前に広がる満天の星空を仰いで、水心子が思わず声を上げる。
新月の夜、月の光がない星だけが瞬く晴れ渡る空。今日は、ここ数日で一番観測条件がいい日だった。
本丸の裏手にある短い山道を登り切ると、開けた丘にたどり着く。そこから見える星空が一番綺麗だよ、とここの本丸で一番の情報通とされる乱藤四郎からの教えを受けた清麿は、休息すらもまともに取ろうとしない水心子を半ば無理やり引きずるようにしてこの場所を訪れていた。
ここ最近は本丸内が全般的に忙しく、日頃から特に忙しなく走り回っている水心子の顔は見るからに疲れを隠しているものだった。大丈夫かと聞いても大丈夫だとしか返ってこないことは分かっているので、そうなると無理にでも休ませるしか手段がなくなる。
そうして主に根回しをして明日の水心子は非番となり、夜の外出もきちんと許可を取ってこの場所に連れてきたのだが、一心に星空を眺めている水心子の顔を見てこの選択は間違いではなかったようだと強引に連れ出した清麿としてはやっと安心できた。
いつか一緒に来たいと思っていたからこの機会にと思いついた策であり、事情も話した上での相談だったのだが「デートに誘うならおすすめだよ」と可愛らしいウインクまでつけて勧めてもらったので、少しばかり下心も混ざっているかもしれない。なので、水心子がどう思うか少しだけ不安な部分があったのだが杞憂だったようで何よりだ。
「すごいな、本丸の近くにこんな場所があったとは」
口元が隠れていてもその瞳が何より雄弁なので、喜んでくれているのは言われなくても分かった。
しばらくの間、瞬く星を眺めながら取り留めのない会話をする。ここ最近の畑の様子だとか、軽い気持ちで短刀たちの遊びに付き合ったら恐ろしいほど走り回った話だとか、別々に過ごしていた際に起きた出来事を互いに報告しあう。
忙しない日々が続いていたから、こうして話をしているだけでも随分と心が穏やかになるものなんだなと、誘った側にも一定の効果はあるようで、水心子が楽しそうにしてくれて良かったと意識せず清麿の表情も少し緩む。
「……綺麗だな」
いつの間にか夜空から清麿の方に視線を移していた水心子が口にした言葉に「気に入って貰えたなら良かった」と返すと、水心子は「ん?」と表情を変える。
「ああ、星もそうだけど……今のは、清麿が」
「……僕?」
「うん」
横顔が綺麗だなと思って、と水心子が唐突に不思議なことを口にする。何で今それを言うのかなと思わず口から出そうになったが、何でもなにも、こういう時の水心子は素直に思ったことを口にしただけだというのは経験則として知っている。
「…………そっか。うん、ありがとう」
こういう場面で自然にこの言葉が出てくるところがこの親友のすごいところだなと、清麿は穏やかに返事をしながらも内心はあまり平穏ではなかった。一切の打算なしに、思ったままを口にするだけで的確に心を揺らしてくる。これを手管でなく素直にやっているのだから怖いなと、清麿は表情を隠すように帽子を被り直す。
やっぱり水心子ってすごいな、ともう何度目になるかわからない感嘆と驚愕が混ざった言葉が声に出ないように、口元に手を当てて笑うしかなかった。
「……この本丸は、景色が良い場所が多くていいね」
今のは少しばかり効いたので、そうと悟られないようそっと話題をすり替える。別に嘘は言っていないのだから構わないだろう。過ごしやすい環境だと思っているのは事実だ。照れ隠しとかそういうのでは、多分ない。
「ああ。……清麿はここに来たばかりなのに、もうこんな場所を見つけたんだな」
「星が見られる場所がないかって聞いたら、ここを教えてもらったんだ。前に、綺麗だって言っていたと思って」
すごいぞ、と純粋に驚いた顔をする水心子に、ひとつ種明かしをする。
君とデートがしたくて、という奥深いところにある下心については隠したままにしておくけれど。
「………そうだったんだ」
その一言で、水心子は察するものがあったのだろう。何かに気づいたような顔をして小声で呟いた。
刀剣男士としての任務でも日常生活でも、水心子は少ない言葉で情報を精査して察するのが早いのか、全てを伝えなくても端的な内容だけで状況を理解してくれることが多い。
まあ、感情的な面では時々なんでそこで引っかかるんだろうというようなところで急に察しが悪くなることもあるのだが、清麿としてはそういうところが愛嬌だと勝手に思っているので特に問題はない。
「ありがとう、清麿」
今も清麿の下心については察していないようだから、水心子は律儀に礼を述べて微かに笑顔を浮かべる。
あまりにも真っ直ぐに感謝の言葉を述べられては、なんだか少しばかり罪悪感のようなものも覚えてしまうのだけど、素直にこういうことを言える水心子のことは好ましく思うのでどう返そうかと思案を巡らせる。
「……僕が水心子と来たかっただけだよ?」
「それでも、僕は嬉しいから」
結局は罪悪感が勝ったので清麿も素直に本音を言ったのだが、水心子はこれで良いんだと自信たっぷりの顔でやんわり捻じ伏せてくる。こういうところが甘いと思いはするが、同時に好ましいとも感じるので、今日もまた一つ水心子の好きなところがひとつ増えた。
「…………どういたしまして」
これはただの私欲から来る行動なのに、水心子はどうしても自分に対する査定が甘い。清麿の行動原理は、全て自分のためでしかない。今回の件で言えば、この翠緑の瞳から険しい色が抜けて穏やかに緩む瞬間を見たかっただけ。
なのに、水心子にそう言われてしまうと最終的には清麿の主張が負ける形になる。敵わないなと思いはするが、もう少し疑ってかかった方がいいと心配にもなった。
「ああ、そうだ。このお礼に、次は僕がとっておきの場所に案内するよ」
「とっておき?」
大人しく礼を受け入れた清麿を見てさらに気を良くしたのか、水心子がはっと思い付いたようにキラキラした目を向けてくる。この顔を見るに、少しは元気になったようで何よりだ。
「本丸の近くに、夕焼けがすごく綺麗に見える場所があるんだ。大きな木の上だから、そこから見ると空が広くてずっと眺めていられる」
「それは、楽しみだな」
水心子が言っているのは、本丸から少し離れたところにある大きな木のことだろうか。確かに、このくらいの体格なら軽々登れそうなくらい立派なものがあったなと頭の中に近隣の地図を浮かべる。
清麿がこの本丸に配属されてからほとんどの場所は水心子に案内してもらったはずだが、その場所にはまだ訪れたことがない。とっておきと言うだけあって、水心子だけの隠れ場所なのかもしれない。
「清麿がここに来たら、一緒に見たいと思ってたんだ」
そう言って微笑む水心子に対して、清麿は思わず眩しいものを見るように目を細めた。
こういう時、自分が心底この親友のことを好いているのだと実感する。この言葉一つで心が満たされていくと同時に、それでももっと欲しいと満たされただけまた渇いて余計に欲しくなる。
多分、自分は一振りでもそれなりにやっていける性能なのだと思う。それは事実として理解しているし、やれと言われれば自分だけであのまま放棄された世界で戦い続けることも出来たのだろうなという感覚もある。
だけど、それは嫌だと自分の心がはっきりと拒絶した。あの世界に一振りだけで立ったとき、最初に思ったのは早く水心子に会いたいという明確な願いだけ。
この想いを告げるつもりは無いけれど、この位置を誰かに譲れるのかと問われたら無理だと即答するだろう。
少し離れてみれば、この執着も薄れるのだろうかと考えたことはある。だけど実際はその反対で、隣に水心子が居ないという現実にあのまま耐えられはしなかった。
結果として、再会する頃にはさらに重苦しく直視するのも億劫になるほどの気持ちだけが育っていたのだから、考えが甘すぎたなと冷静になってから思い返すと滑稽な話だ。
(まあ、こうなるともう逃げられるとは思っていないけれど)
この感情を抱えたままでいることは、もう仕方ないものだと諦めた。そうなると、後はもう下手な感情をぶつけて水心子を傷つけることのないよう自制するくらいしか出来ることがない。
心臓に走る慣れた衝動をいつも通りに抑えつけ、水心子から目を逸らそうと夜空を見上げた瞬間、星が一つ流れていった。
素直に流星へ願いをかけるような情緒は持ち合わせていないけれど、もしも願いが叶うのなら。どうか、恋した相手が幸せであるように。できるなら、その幸せを側で見守っていられるように。
ああ、自分はどうも星にかける願いすらも欲深いなと自嘲しながら、隣で「流れ星だ」とますます目を輝かせている親友を想った。