「ふーふーちゃんなんて、きらい!」
星空のような輝きを閉じ込めた両眼にいっぱいの涙を溜めて半ば叫ぶように言葉を放った浮奇は、近くにあったスマホを引っ掴んでファルガーと二人で住む家を飛び出した。咄嗟に伸ばされた手を避けるように背を向けて、焦ったように名前を呼ぶ声に振り向きもせず、目に入ったスニーカーに足を入れて玄関のドアを乱暴に開ける。ファルガーが追いかけてくるだろうことを分かっていたため、周りの目も気にせずに車通りの多い道まで走った。
「...っ、はぁ、は、」
呼吸の苦しさに足を止め、後ろを振り返りファルガーの姿がないことを確認する。なんとも言えない気持ちを抱えながら前を向いて踏み出せば、疲労のせいかスニーカーの爪先が地面を擦って、前のめりにバランスを崩しそうになったのを寸でのところで耐えた。浮奇の横を行き交う車も人間も、道端で息を切らして中途半端に引っ掛けただけだったスニーカーを履き直す浮奇に目もくれない。荒波のような心の浮奇には、その無関心さが救いだった。
「...どこ行こう」
勢いのままに飛び出したせいで、財布を持っていない上に行く当てもない。せめてキャッシュレスで支払いができればカフェに入れるのに、と握りしめたスマホの電源を入れた。
「は?」
しかし、表示されたのは見慣れない画面。夕暮れの日差しに照らされて眠る浮奇と、その隣へ頭をぴたりと寄せるドッゴの写真。いつかの昼寝中に撮ったのだろうその写真をロック画面にしていることに愛おしさを覚えたのと同時に、浮奇はスマホをひっくり返した。黒のベースに白い羊が小さくデザインされたスマホケース。
「...嘘でしょ?」
よく見ずに掴んだせいで、ファルガーのスマホを持ち出してしまったらしい。ファルガーもキャッシュレスのアプリを入れているのは知っているが、恋人とはいえ勝手に支払いに使うわけにはいかず、浮奇は途方に暮れた。道端に寄ってしゃがみ込み、すやすやと眠るロック画面の自分と睨めっこをすること数十秒。不用心にも掛かっていないロックを解除して、ディスコードを起動する。上手くいきますようにと願いながら、通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「俺、浮奇。ふーふーちゃんと喧嘩して家を出てきたんだけど、間違ってふーふーちゃんのスマホ持ってきちゃって。帰れないからちょっと今から家まで行っていい?」
「...はぁ?」
つっこまれることは承知の上で、浮奇はヤケになりながらひと息で状況を説明した。電話先から返ってきたのは心底呆れた声。
「何があったらそうなるわけ」
「説明は後でする」
「もう...まだ家の近く?」
「うん、そんなに離れてない」
「ちょうど買い物に来てるとこだったから、多分近くにいるかも。どこにいるの、そっちに行くから待ってて」
電話先へと歩き出していた足を止める。目印を探そうと辺りを見渡した浮奇の瞳に映ったのは、ケーキが美味しいカフェの看板と雨が降り出しそうな曇天の空だった。
「浮奇、お待たせ」
声を掛けられ振り返る。説明もそこそこに訳も分からないまま来てくれたのはアルバーンだった。買い物に来ていたのは本当だったようで、片手にショッピングバッグを持っている。
「...ごめん」
「とりあえず中に入ろ、話はそれから」
巻き込んだ申し訳なさに俯く浮奇に苦笑を漏らしたアルバーンは、余計に小さく見える背中を押しながらカフェへと入った。
「咄嗟とはいえ、スマホを取り違えることなんてある!?」
浮奇が電話を掛けるまでの経緯を話すと、アルバーンはケラケラと笑った。
「あるからこうなってるの」
「それはそうだけど、ドラマじゃないんだから」
浮奇は頬を膨らませながらストローで意味もなくグラスの中身を掻き混ぜる。カラカラと氷が音を立てて、アイスティーの下に沈んだレモンと蜂蜜がふわりと浮き上がった。
「スマホを間違えるのは、ちょっとまずい気もするけど」
「でもそれを理由に帰れないでしょ、飛び出しちゃったんだから」
「そもそも、なんで喧嘩したわけ?」
「...分かんない」
当然、ことの始まりを聞かれるだろうことは分かっていたが、浮奇自身もはっきりと理由を分かっていなかった。
「分かんないことないでしょ。浮奇はファルガーの何が嫌だったの」
呆れたように溜息を吐くアルバーンは、けれどゆっくり浮奇の言葉を待ってくれる。
「何となくでもいいから、浮奇の気持ちを教えて」
電話先で近くのカフェを伝えた浮奇に、待ち合わせ場所を別に指定したのはアルバーンだった。隣の空間とは区切られた半個室風のカフェを選んでくれたのは、浮奇が人目を気にせずに話せるようにするための気遣いなのが感じ取れて、楽しいことも辛いことも一緒に乗り越えてきた同期ならではの安心感に、浮奇の心が解けていく。
「ふーふーちゃんって、他人を責めたりしないでしょ。俺はしょうもないことに不安になってるのが自分でも馬鹿みたいで、ちょっとやけになって冷たい態度を取っちゃって。ふーふーちゃんが責めたり言い返したりしてくれたら勢いで話せたのに、優しい声で話してって言われたら何も言えなくなっちゃって。どうしたらいいか分からなくて、そしたら思ってもないこと言っちゃって、自分の言葉にびっくりして出てきちゃった」
言葉にしてしまえば余計に馬鹿らしくて、自嘲の籠った声になる。たっぷり数十秒を置いて、反応のないアルバーンを不審に思ってアイスティーから視線を上げれば、猫のように口を開けて固まっていた。
「...バカなの?」
「うるさいな、ビッチ。意味が分かんないのは俺が一番よく分かってるの!」
ようやく絞り出したような声で返された言葉に、浮奇は眉を寄せた。自分で思うのはともかく、他者に言われると事実が現実味を増して襲い掛かってくる。
「浮奇は何が不安だったわけ?」
「ふーふーちゃんが何かしたとかじゃなくて、ただ不安になっただけ。俺で良かったのかなとか、自信がなくて」
「あー、それは浮奇が独りで考えてってこと?」
「うん...」
言葉にしてしまえばどこまでも自分勝手で、自己嫌悪に浮奇は小さく体を丸めた。
「ちなみに、何て言って出てきたの」
「...きらい、って」
テーブルの向かい側に座っているはずが隣から聞こえてきたかのようなレベルの大きさの溜息を吐いたアルバーンは、思わずフォークを置いて頬杖を付いて浮奇を見つめた。その瞳が語りかけてくる言葉を音で聞きたくなくて目を背ける。
「ファルガーがちょっと可哀想になってきた」
はっきりと届いた言葉に浮奇は小さく頷いた。事実、ファルガーは浮奇が独りで煮詰めた苦しさに手を差し伸べようとしただけで、混乱して心無い言葉を投げつけられた上にスマホまで取り違えられて、話を聞こうにもろくに連絡を取れやしない。緊急時に対応できるように浮奇のスマホのパスワードはファルガーに教えているけれど、優しい彼が勝手に開くとは思えなかった。
「ねぇ、浮奇」
小さく縮こまる浮奇に苦笑を混ぜて声を掛けたアルバーンは、不意に席を立って隣へと腰掛けた。肩が触れ合う距離でそっと手を取られて、浮奇は詰めていた息を吐き出す。落ち着く方法を理解されていることに少しむず痒さを覚えるが、きっと反対の立場だったら浮奇は同じようにしただろうと思った。
「これは、僕の想像だけどね。浮奇が気持ちを吐き出すのが苦手なことはファルガーも分かってると思うよ。浮奇はさ、すごく繊細で無意識に色んなことに気を遣ってるでしょ。だから相手によっては浮奇が疲れちゃうことだってあるし、内向的だから人といることが浮奇に取って必ずしも良いことだけじゃない。けど、ファルガーといるときの浮奇はいつでもリラックスしてる。きっと心から気を許してるんだろうなって、そう思うよ」
優しく心に届くアルバーンの言葉に、浮奇は頷きで答えた。他者との距離感を常に探りながらコミュニケーションを取るのが癖になっている浮奇にとって、ファルガーほど気を抜いて接することができる人間は珍しい。
「それは逆もそう。ファルガーも色んなことを気に掛けてるし、社交的に見えるけど実際はそうじゃない。でも、浮奇といるときはすごく自然体だ。それって浮奇だからなんだよ。僕や他の人じゃ引き出せない顔を、浮奇には見せてるんだ」
重なった手をギュッと握られて、浮奇は優しく握り返した。
「心を開いていいかもって思わせられるのは、浮奇の才能だと思うよ。ファルガーだけじゃなくて、僕も、サニーも、浮奇にしか言えないことがあると思う。それって色んな人たちの間でもあるけれど、浮奇のは少し特別なんだ」
「...そんなこと」
「ある。だから、みんな浮奇のタロットで泣くんだよ。きっと僕もね」
「泣かせるから覚悟しな、ビッチ」
「わぁお、ティッシュ持って行かなきゃ」
おどけるアルバーンに、浮奇は思わず笑った。不安に沈んでいた心が軽くなっていることに気付いて、ホッと息を吐きだす。完全に巻き込む形にはなってしまったが、他でもないアルバーンがいてくれたことがありがたかった。
「ありがとう、アルビー。巻き込んでごめんね」
「一緒にコラボしてくれたらいいよ。僕はサニーを呼ぶからダブルデートね!」
「それってグループコラボじゃん」
「あ、確かに」
顔を見合わせて、同時に吹き出す。何か思いついたらしいアルバーンがピンと背中を伸ばすのを猫だなと思いながら、先を促すように首を傾げて見せた。
「配信のタイトルをダブルデートにしてゾンビゲームしたい!」
「それ、ふーふーちゃんたちにはサプライズにするのも面白そうじゃない?」
「いいね!けど、おにいに黙ってられるかな...」
「そう言われると、俺もふーふーちゃん相手に隠し事なんてできる気がしないけど」
「...とりあえず、4人でコラボしよ!」
繋がれた手をブンブンを振るアルバーンに浮奇は笑いながら何度も頷いた。
「あー、なんか甘いもの食べたくなっちゃった。相談ついでに少しおしゃべりしてかない?」
「そうだね、飲み物だけはもったいないし」
アルバーンへメニュー表を手渡して2人で覗き込む。浮奇のフルーツタルトとアルバーンのガトーショコラに合わせてドリンクも再度注文する。美味しいスイーツに心も溶かされて、いつも以上に話が弾んだ2人はもう何度も些細なことで笑い転げていた。
「でね、その時にルカが...」
「浮奇」
会話を遮る聞き慣れて耳に馴染んだ声に、浮奇は一瞬固まる。フォークを差し込んでいたケーキから顔をあげると、そこにいたのはやはりファルガーだった。
「どうして、ここが分かったの?」
困惑に揺れる声で問い掛けて、助けを求めるように隣に座るアルバーンを見る。予想に反して、アルバーンはイタズラっぽく笑っていた。
「とりあえず、座っても?」
「...どうぞ」
浮奇の前に座ったファルガーは、テーブルに財布と浮奇のスマホを置いた。ことの始まりを思い出して、思わずファルガーから視線を逸らす。
「パソコンからディスコードでやり取りをしたんだ。アルバーンに電話をした履歴があったから、メッセージを送って場所を教えてもらった」
浮奇が間違って持ち出したファルガーのスマホには、アルバーンと待ち合わせしてから何の反応もなかったはずで、首を傾げた浮奇へファルガーは浮奇のスマホを返した。
「普段スマホ側は触らないから、一応アプリは入れてあるが通知を切ってある。浮奇が気付かなかったのはそのせいだ。あと、浮奇のスマホは開いてないから安心してくれ」
こんな時まで優しいファルガーに熱いものが込み上げそうになって、浮奇はぐっと唇を噛む。
「浮奇、俺と一緒に帰ろう」
ファルガーの瞳を見つめ返す浮奇に、もう迷いはなかった。
アルバーンに2人で改めてお礼をして、飛び出して歩いてきた道を今度はファルガーと手を繋ぎながら歩く。一緒に住む家まで何を話したらいいか分からずに黙っていたが、人目の多い通りを歩く時も、静かな住宅街に戻ってきても、ファルガーはずっと浮奇の手を離さなかった。
「ただいま」
結局何も言えないまま家へ着いて、ファルガーに続いて玄関のドアを通る。鍵を閉めた途端に、浮奇はファルガーに強く腕を引かれ抱き締められていた。
「わ、ふーふーちゃん?」
「よかった...」
吐き出すように零された声が少し震えている気がして、広い背中に腕を回す。トントンと優しく宥めれば、ようやくファルガーは顔を上げた。
「浮奇が飛び出してすぐに追いかけようと思ったのに、スマホが違うことに気付いて慌てて引き返したら、ドッゴが浮奇を追いかけたくて一緒に出て行こうとして、やっと止めたと思ったら浮奇を見失うし、大通りまで出たのに見つからないし、スマホは違うから連絡も取れないし、心配したんだ」
「ごめん」
「途中で転んだり、車に轢かれたり、悪い犬に噛みつかれたり、人攫いに遭ったりしたらどうしようかと思って、気が気じゃなかった」
「...んん、」
それは成人男性に対する不安として正しいのか頭を抱えたが、内容はともかく心配してくれていたことに変わりはない。安心してもらいたくて、さらさらと触り心地の良い髪を撫でた。背中へ回した腕の力は変えないままに、ファルガーは浮奇を真っ直ぐに見つめる。
「アルバーンが通話を繋いでくれてたから、少し話は聞いた。不安にさせるようなことをしたし、急かして悪かった。少しずつ浮奇の気持ちを聞かせてくれれば良い、浮奇のペースで良いんだ」
ファルガーの言葉に、今度こそ耐えきれなかった雫が頬を伝った。後悔と罪悪感の渦巻く胸に安堵が押し寄せて、ぎゅっと喉が詰まる。
言葉をまとめるのに長けているファルガーに甘えて、行動で示す方が得意だからと言葉を省いてきたのは浮奇の方だった。そもそも気持ちを言葉に変換するのが苦手である自覚もあって、考えるほどにハマっていく性質であることは自分でも分かっていたのに。上手く言えないからと心ない言葉をぶつけるのはただの八つ当たりだ。
「ごめんね、ふーふーちゃん」
止まりそうにない涙を優しく拭ってくれる義手を強く握った。何を言えば正しく伝わるのか、分からなかった。息が苦しくて、言葉にならなかった。ただ、この温かさを失いたくないと思った。
「ふーふーちゃんが、大好きだよ」
今の浮奇に伝えられる精一杯の感情を込めて紡いだ言葉に、ファルガーはもう一度強く浮奇を抱き締める。きちんと言葉にできるようになろうと、強く想った。きっとファルガーは浮奇の感情を否定せず浮奇の言葉に耳を傾けてくれるから、2人で同じ世界を見られるかもしれない。浮奇がファルガーの表現で世界を見るように、浮奇の見ている世界をファルガーにも見せたいと思った。
「俺の世界を、俺を、見て」
そうしてお互いに分かり合えたら、きっと世界はもっと輝くから。