≪トマ蛍≫どうしてこんなに美しい昨晩冷蔵庫に入れたそれの無事を確認する。
チョコレートで作った薔薇。うん、問題ない。
試行を重ねてやっと綺麗にできた5つを花束のように丁寧にラッピングする。
下段にある大量の失敗作はまた今度食べるとして。ひとりで食べ切るにはなかなかの量だけど、若とお嬢は手伝ってくれるだろうか。
ひと月前のバレンタインデー。
稲妻式、女性からの贈り物を期待していたトーマと、その他諸国で一般的な、男性からの贈り物を待っていた蛍。
盛大なすれ違いを起こしたふたりは、ホワイトデーと呼ばれる今日、やり直しバレンタインデーをする約束をしていた。
互いに贈り物を用意すると決めて迎えた今日はこのあと、蛍の洞天に招かれている。できたばかりの花束を持って、なんだか落ち着かなくて無駄に鏡の前で身だしなみを整えた。プロポーズしに行くわけでもないのにな。
そうして約束の時間に彼女の壺へと向かう。目を開けて、やたら眩しい日差しに目を細めた。さらさら揺れる草原は、昨日までなかったもの。稲妻の風景を気に入ったという蛍が作り上げていた世界は、一晩のうちにすっかり姿を変えてしまったらしい。改めて不思議な空間だ。
ぴかぴかに輝く太陽、足元をくすぐる原っぱ。やわらかく頬を撫でる風は、久しく帰っていない故郷のものとそっくりだった。
そうして辺りを見回すと、一箇所、草木が密集している部分がある。
そうっと近づけば、背の高い桜の木、その根本には様々な花。この紫色の花はスメールのものだと教えてくれたそれだろうか。
なんというか、花のかたまり、とでも言えばいいのか。不審がるトーマの目の前に、花々の合間から何かが飛び出してきた。
「わっ!」
「トーマ! あれ、もう約束の時間? ちょっとだけ待っててくれる?」
「蛍か、びっくりした……これはどうしたんだい?」
「ふふ、まだ秘密だよ」
植木鉢を抱えた蛍。桜の花びらを頭に乗せて、頬には土をつけて。なにやらせっせか準備をしているようだった。
ばたばた走っていったと思えば、これまたたくさんの花を抱えて花の中に戻っていく。ああ、豪快な、白い服なのに汚れちゃうよ。
耳をすませば、中からはパイモンの声も聞こえてくる。
準備しながらまた冗談でも交わしているのだろうか。いつもの微笑ましいやり取りを思い出しながらふかふかの草原に腰を下ろす。
時おり風に乗って届く笑い声。目を閉じれば賑やかな街並みが浮かぶ。かたかたと回る風車に、どこからか飛んでくる蒲公英の種。
稲妻で長く過ごしても一度も忘れたことはなくて、ただ今の生活だって幸せで、モンドに帰っていないことを悲観しているつもりもない。
それでもひとりの夜に懐かしむこともあったトーマに対して、遠慮せずに、話題に出したりお土産をくれたり、こうしてそれっぽい風景を見せたり。蛍がモンドの空気を感じさせてくれるのが好きだった。
「トーマ?」
「お、完成したのかい?」
「うん、お待たせ」
「よう! オイラもいるぜ!」
土だらけのふたりがトーマの隣に座り込む。頭の花びらを払ってやれば、白と金の旋毛が差し出された。まったく、細かい枝まで絡めて、何をやっていたんだか。
「忘れる前に、これはオレから」
「なあ、オイラの分はないのか?」
「パイモンにはこっちだ」
小さな口でも食べやすい、一口サイズのトリュフチョコレートを。目を輝かせたかと思えば、貰うものは貰ったとばかりにあっという間に邸宅へと帰っていった。
パイモンなりの気遣いでふたりきりにしたんだろうけど、本当にぶれないな。
それをジト目で見送った蛍には、なんとか作り上げたチョコレートの薔薇の花束。綺麗なかたちを厳選したつもりだったけど、こうして見るとやっぱり不格好だ。
初めて作ったからと言い訳をしそうになったけど、花束にも負けないくらいの笑顔を見てそっとしまい込む。
「わ、薔薇だ。ありがとう!」
「うん。普通のチョコレートにするつもりだったんだけど……モンドでは風花祭の時期だろう? 君に花を贈りたくなって」
蛍のことだから、花を贈る意味は知っているんだろう。見開かれた目とさらに上がった口角を見ればよくわかる。何も言わずににこにこと見つめられて、照れくさくてなにか誤魔化そうと思ったのだけど。それを見透かしたようにぐいぐい引っ張られる。
「トーマ、こっち!」
「おっと、なんだなんだ?」
「早く見てほしいの!」
腕を引かれるまま素直について行けば、例の花のかたまりに誘われた。ぎゅっと目を瞑ってふかふかのそこに飛び込む。
先を進む蛍がかき分けて跳ね返った枝にばちばちぶつかりながら抜けたその先。見て見て、と騒ぐ蛍に目を開けて、思わず息を呑む。
絵に描いたような花畑。風に揺れる色とりどりの花たち、甘い蜜の香り。驚いた蝶がふわりと飛んでいく。子どもの頃、天国はこういう場所だろうかとイメージしていたような。
周りから切り取られた花だらけの空間に、トーマと蛍のふたりだけが立っている。あまりの絶景に呆けていれば中央のガゼボまで引っ張られた。
淡い光を放つ花に囲まれたその中には、小さなテーブルと椅子、花瓶から顔を出す風車アスターに、薔薇柄のティーセット。ホールのガトーショコラには、花の形に粉糖がかけられていた。
「これは……すごいな」
「私からも、トーマに花を贈りたかったの。どう?」
風花祭、とっても楽しかったよ。できるだけのお花をかき集めたんだけど、ちょっとやり過ぎちゃったかな。
そう言ってトーマの横で花束を大事そうに抱えて微笑む蛍があまりにも愛しくて。ぎゅうぎゅう抱きしめてしまうのは仕方のないことだろう。
花束が潰れないようにとっさに腕だけ避けた変なポーズも、驚きながら腕の中でもぞもぞ動くのも、そしてゆっくり背中に回される手も。どれだけ抱きしめたらまるごと全部トーマのものになるだろう。
「ほたる」
「うん?」
「ありがとう」
「こちらこそ。チョコレート、可愛いね」
モンド人にとって花を贈るとは。蛍はその意味を知って、これだけの愛を与えてくれた。
そんな小さな花束でごめん。もっともっと、洞天を埋め尽くすくらいの花を用意すればよかった。
せっかく蛍が震えた声に気づかないふりをしてくれたのに、すん、と鼻が鳴る。どれだけ故郷に思いを馳せても泣いたことなどなかったのに。腕の中の温かさに、今日は少しだけ。
「トーマ」
「うん」
「ガトーショコラ、食べない?」
「もうちょっと」
ええ、だなんて言いながらも優しく背中をさするものだから、余計に顔を見せられなくなってしまった。
何も言わずに抱きしめ続けるトーマを、何も言わずに受け入れてくれる。
「ほたる」
「なあに」
「好き」
「私も。大好き」
じゃあオレは愛してる。そう返せば蛍が張り合って終わらなくなるのが見えていたから、それはまたいつか伝えることにして。
最後に愛しい人をぎゅーっと抱きしめて、素敵なお茶会への招待を受け取ることにした。