高諸小話 諸泉尊奈門は、そもそも、恋というものにたいして興味がなかった。
周りの早熟な子ども達は、幼い頃から誰が好きだの、誰と誰が好きあってるだのと話していたが、その輪に尊奈門は入らなかった。
それから少し成長する頃には父の一件から雑渡にかかりきりになり、更に成長した頃には、忍者としての修業に打ち込む毎日。
気付いたら周りはすっかり色恋沙汰にも慣れており、尊奈門はだいぶ出遅れていた。
けれど、そうと分かっても、やはり興味は湧かなかった。
どこそこの娘が美しい、誰それは良い男だと言われれば、なるほど美しいと納得する程度の審美眼は持っている。が、好意には発展しない。
その原因の一つに、高坂陣内左衛門の存在があった。
彼は幼い頃から整った顔立ちをしており、尊奈門はそんな彼を幼少期からずっと見てきた。
尊奈門の中で、一番きれいな人は、ずっと高坂だった。
高坂よりも美しい人はいないと思ったから、人の外見に惹かれる事はなかった。
といって、内面に惹かれる事もない。どれほど優しい人に優しくされても、恋愛という意味で心が動く事はなかった。
きっと自分はそうした事に興味が薄いのだろう。そう納得していた。
納得していたというのに。
ある日、急に尊奈門は気付いた。
自分が高坂に抱いている感情が、恋と呼ばれるものである事に。
その日は、特別に何かがあった訳ではない。特別な忍務はなかったから、普通に詰所で仕事をしていた。
強いて言うならば、桜が美しく咲いていた。
廊下から外を見た時、ちょうど、少し強めの風が吹いた。
盛りを少しだけ過ぎた桜が、ひらひらと花弁を散らす。美しいな、と思った次に浮かんだのが、高坂だった。
高坂はいつも尊奈門に怒ってばかりだ。尊奈門が悪い時も、そうでない時も。
でも別に気にしていなかった。それは昔からだ。怒られるのが好きな訳ではないが、無視されるよりも余程いい。
でも、その時。桜から想起させられた高坂の顔は、柔らかく微笑んでいた。
無からの想像ではない。滅多にないその顔を、尊奈門も見た事はある。相手はもちろん、自分ではなかった。彼がそう言う顔を向けた先は、雑渡であったり山本であったり、とにかく尊奈門ではなかった。
高坂が尊奈門に優しく微笑んでくれる事なんて、きっと、ないのだろう。
そう思うのと同時に、じわりと胸が苦しくなり、視界が少しぼやけた。
涙が滲んでいた。
「えっ……!?」
動揺して目を擦る。
何が悲しかったのか分からなかった。
分かるのは、高坂について考えていた時に出た涙だという事だ。
どうして?
高坂が自分に優しい顔を向けてくれないから。どうして今更、それが悲しいのだろう。
笑いかけて欲しいからだ。
好きな人には笑って欲しいし、その笑顔を自分に向けて欲しい。
つまり自分は、高坂の事が、好きなのだ。
その場に立ち尽くした尊奈門の脳裏に、走馬灯のように今までの事が流れる。
昔から、高坂が誰それと良い仲になったという話は、興味のない尊奈門の耳にさえ、時折入ってきた。大抵は、すぐに終わったという話とセットだった。
高坂が浮き名を流していたという訳ではない。特定の一人と良い仲になって真摯に付き合い、結果、別れているだけだ。
浮気をしている訳でもなく、誰彼構わず付き合うという事でもない。高坂は相変わらず、硬派なイメージのままだ。
高坂の理想が高すぎるのだろう、というのが大抵の結論だった。
あいつならば理想が高くても仕方ない、というのが周りの意見だ。眉目秀麗で、忍者としての実力も高い。性格だってキツくはあるが、冷たい訳ではない。
ただ同時に、高坂には困った癖もあった。それは、誰よりも何よりも組頭である雑渡を慕い、雑渡を最優先とする癖だ。
高坂の相手は、常に多忙さと雑渡の両方が敵、という訳だ。
タソガレドキ忍軍の者ならば、誰もがそれを知っている。
何しろ高坂が誰かと付き合い始めると同時に、今度の相手はいつまで持つか、何を原因に別れるか、不謹慎な賭けが始まる位だ。
もちろん尊奈門は、そんな賭けには参加しない。高坂と相手に失礼だろうというのもあるが、何とはなしに寂しくて、そんな話には入りたくなかった。
今でこそ高坂からの当たりはきついが、昔、まだ幼い頃は、懐いていた相手である。子供っぽいヤキモチは卒業せねばな、と尊奈門はいつも思っていた。
そして、今やっと、何年越しかで高坂への恋心を自覚した。
「うわ……」
というのが、自覚した後の第一声だ。
まさか高坂にという驚き、これが恋なのかというちょっとした感動、鈍い自分への呆れ、その他、色々な感情が一気に湧き上がってくる。
最後に現れたのは、「こんな気持ちが届く訳がない」という辛さだった。
でも、やる前から諦めるのは、尊奈門の流儀では無い。
いきなり告白するのは無理だが、脳内で練習する位ならばいいだろう。
そして尊奈門は、頭の中に高坂を思い浮かべた。その横に自分を思い浮かべて、言ってみる。
好きです、と。
すると。
「振られた……」
その場に、がくりと膝をつく。
今、頭の中で、尊奈門は高坂に振られた。
完膚なきまでに振られた。
尊奈門の想像の中ではあるが、高坂とはそれなりに長い付き合いであるから、非常にリアルな質感でもって振られた。
まだ本人には何一つ告げていないのに、泣きたくなった。
「まぁ……そりゃそうか…」
高坂に好かれていないのは、知っている。本当に嫌われている訳ではないが、そういう意味で好かれる事は、絶望的に思えた。
自覚と同時に失恋か、と泣きたい気持ちになる。でも、ここで泣くほど子どもではない。
好きなのは仕方ない。気付かれないように、日常にも忍務にも支障をきたさないように、これから過ごさねばならない。
恋の痛みは今知ったばかりだったが、大丈夫なはずだ。尊奈門にとって何より大事なのは、やはり今のタソガレドキだ。雑渡も小頭たちも家族も、いつもからかってくる同僚の者たちも、それから、もちろん高坂も。
大事なものを確認して、気持ちを切り替えて、尊奈門は立ち上がる。
「……よし!」
まだ仕事中だ。さっさと戻ろう。
日常の中に戻って、忘れてしまおう。
元気よく歩き出した尊奈門は、気付いていなかった。今向かったのと反対側の角に、同僚達の気配があった事を。
それからも、尊奈門の生活は特に変わりなかった。相変わらず雑渡の側に仕えて、忍者として仕事をこなして、修行もして、時々忍術学園に赴いて土井に挑戦する。
日常に紛れてしまえば、恋心を変に意識する事もない。高坂にも、普通に接していられた。
そのはずだった。
高坂に急に呼び止められる、その日までは。
「戻ったか、尊奈門」
「あ、高坂さん。早いですね」
朝。一日が始まり、朝食のため、人が集まり始める頃。
尊奈門は、数日かかった任務から戻ってきた所だった。
報告も終わり、今日は休みだから、すぐに帰って寝ようか、朝食を取ろうか考えていたタイミングで、高坂に呼び止められた。
高坂は険しい目つきをしていたが、それはよくある事だから気にしていなかった。
「ちょっと来い」
やけに真面目な顔で、言われた。断る理由はないから、素直についていく。
廊下を進んで、何度か角を曲がり、奥まった部屋まで連れて行かれた。しかも高坂は途中、人がいないのを確かめるような仕草を見せた。
高坂が尊奈門を怒る時は、人目など気にしないから、お叱りではなさそうだ。何か緊急事態があったのだろうか。
少し緊張している尊奈門に、高坂はいきなり言った。
「おまえ、誰かに振られたそうだな」
「ぅえあ!?!!???」
尊奈門は、悲鳴にもならないおかしな声を上げた。
「な、なん、どう、えっ、なんで!?」
忍者にあるまじき狼狽え方に、高坂はため息をつく。
「相手は誰だ?」
「あ、あ、相手?」
「だから、おまえが振られた相手だ」
高坂は割合に短気だ。伶俐な容姿も相まって、黙って立っていれば冷静沈着に見えるが、中身はかなり怒りやすい。特に雑渡が絡む時と、尊奈門が相手の時は。
怒られるのに慣れている尊奈門は、敏感に高坂の怒りを感じ取った。
「こ、高坂さんには関係ないですよ!」
真っ赤になって、目を逸らす。態度が悪いと怒られるかもしれないが、言えるはずがない。
高坂は眉を寄せた。
「関係はないが、問題が起こる前に処理がいる」
「も、問題?」
「おまえを振ったのは組頭だという噂が流れつつある」
「うえぇぇ!? 何で組頭!!??」
さっきより大声で、尊奈門が叫ぶ。
「違うんだな?」
「違います!!!」
尊奈門の悲鳴に近い大声に、高坂は詰めていた息を吐く。
「そうか」
「そうですよ! 何で組頭が出て来るんです!」
「おまえがいつも、組頭の側にいるからだろう」
「そりゃ、側近ですもん! それを言うなら、高坂さんだって何かと組頭の側にいるじゃないですか!」
「組頭と私の仲を邪推する輩は、もうとっくに始末……対処済みだ」
「今、始末って言いました?」
高坂はそれには答えなかった。
「違うのなら、相手の名を言え」
「な、何故ですか」
「そいつが相手だと、噂を上書きする」
「嫌ですよ!」
「では組頭との噂のままでいいのか」
「よ、良くない、です……」
みるみるうちに声が小さくなる。こんな噂で雑渡に迷惑をかける訳にはいかない。だが。
「ですが、相手の名前は、勘弁願いたく……」
「何故だ」
高坂の声に、苛立ちが混ざる。少し怯んだが、ここは譲れない。
「だって、相手の方に、ご迷惑ではないですか。私はただでさえ若輩で、舐められています。私が揶揄われるのは、良いのです。でも私を振ったと言って、その方まで周りから何か言われるかもしれない。それは、嫌です」
まだ未熟者であるという自覚はある。高坂に好かれていない自覚もある。
こんな風に噂になって、高坂との仲が遠くなってしまったら、仕事にも支障が出る。雑渡や小頭たちにも気を遣わせる。そして何よりも、尊奈門自身が、寂しくて仕方なくなってしまう。
だから、譲れなかった。
目を合わせたまま、沈黙が続く。
先に目を逸らしたのは、高坂だった。
「……わかった。では適当に対応しておく。それでいいな?」
適当に、という言葉に不安はある。明らかに苛立っている高坂にも。
だが、対案を出せない以上、拒否ばかりする訳にもいかない。これは、尊奈門の個人的な事情なのだ。
「はい。高坂さんにお任せします」
腹を括って、高坂を見る。
「面倒をおかけして、申し訳ありません」
深々と頭を下げる尊奈門に、高坂はしばし間を置いて、
「構わん」
と答えた。そして、少し間を置いて、また静かな声で尊奈門に尋ねる。
「……一応、確認しておくが」
「はい」
「相手は土井半助でもないな?」
「はぁー!?」
また尊奈門は叫んだ。
「そんな訳ないでしょう! 何であいつに!」
「念の為だ。部外者だと面倒になるから確認しただけで」
答える高坂の声は、もう尊奈門の耳には届いていない。
「くそっ、土井半助め!」
湧いてきた苛立ちが、噂を流した誰かや広めた誰かや、その他タソガレドキの内部に向けられなかった怒りが、全部土井に向かった。
「これから抗議してきます!」
「おい、待て。抗議って、何を……」
失礼します!と声を残して、尊奈門は走り去る。
残された高坂は、何も言えずに固まった。そして、背後を見る。
すい、と奥の襖が開き、
「あいつは本当に、予想外な行動ばかりだな」
呆れたような声と共に、山本が姿を現す。
近頃流れる噂について真偽を確認するのは、そもそも、山本が雑渡から受けた命だった。
その山本に、自分が確認したいと言ったのが、高坂だ。
「申し訳ありません。相手の名は突き止められませんでした」
「いや、構わん。想像はつくからな」
「えっ……本当ですか?」
「想像は想像だ。当人に確認せねば、確実な所はわからん」
だから言うつもりはないぞ、と言外に伝える。
「はい」
そう返しつつも、高坂の顔には、「知りたい」と書いてある。自制ができているのか、いないのか。山本は苦笑いした。
「さて。問題は、噂をどうするかだが」
「そちらの始末は、私にお任せ頂いてもよろしいでしょうか」
「ああ。面倒をかけるが、頼む」
「組頭にご心痛をおかけする訳にはいきませんので」
「……まあ、無責任な噂がお嫌いな方だからな」
噂を聞いた雑渡の顔を思い出す。彼は目を細めて、「……へえ」と呟いただけだった。
だが、その目の奥には明らかに怒りがあって、山本は噂の出所を探す羽目になったのだ。
「あいつは甘やかされすぎです」
「そう言うな」
第一、おまえもそれなりに尊奈門を甘やかしているぞ、という言葉を飲み込んだ山本は、仏頂面の高坂を見る。
尊奈門失恋の噂を聞いてから、高坂はずっと機嫌が悪い。表には出さないよう努力しているが、成功しているとは言い難い。
高坂だって、尊奈門が可愛いのだ。だが、様々な事情や意地が、尊奈門と素直に接する事を拒んでいる。
高坂さえもっと素直になれば、話は早いんだが。
そう思いながらも、山本は何も言わない。二人とも、もう子供ではないのだから、請われてもいないお節介を焼くべきではないだろう。
「それにしても」
山本は目を細めた。
「あいつは、何も知らない土井殿に、何をどう抗議するつもりなんだ……」
「土井殿は何が何だか分からないでしょうね」
「今度、詫びておこう……」
顔を見合わせて、ため息を吐く。
「相手は……誰なのでしょう」
ぽつりと、高坂が言った。常の彼らしくもない、不安と焦燥が混ざった声で。
山本は、自分から二人のことに口を挟むつもりはない。けれど。
「よく見ていれば、わかる。もしくは、そうだな……素直におまえの気持ちを伝えれば、分かるかもしれんぞ」
つい、そんな事を言ってしまう。
高坂は、「はい」と返してきたが、表情は曇ったままだ。簡単にできれば苦労はしない、といった所か。
二人をずっと見守ってきた自分としては、どこまで口を出すべきか。外から傍観する立場というのは、これでなかなか難しい。
さてどう報告するかな。
雑渡の顔を思い浮かべながら、思う。
まったく、揃いも揃って困った連中だ。
「さ、朝食に行くか」
「はい」
「尊奈門も誘うつもりだったんだがな」
「放っておけばいいのです」
あんな奴は、と素直でない言葉を口にする高坂の顔を見る。
「そう拗ねるな」
山本の言葉に、高坂はぎょっとした顔をする。返事を待たずに、すたすたと歩き出すと、
「拗ねてはおりません」
慌てた声が追いかけてきたから、山本は笑った。
困ったものだが、可愛い子らだ。
もう少し見守るか。
山本は口元だけで笑いながら、高坂と共に食堂へと向かった。